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しあわせな人
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女は、どんなことがあっても仕合せだと口にした。
はるばる買い求めに出かけた品が売り切れていた時には、必要な人の元へ届いたのだから仕合せだ。
粗悪なものを高い値で掴まされたとしても、その金で暮らしが豊かになる人がいるならばそれが仕合せだ。
どんなに貧しくとも、どんなに惨めであろうとも、女は「仕合せ」という言葉を繰り返した。
彼女を気味の悪い偽善者だとなじる者もいた。
ところが、女は中傷の言葉でさえありがたがるので次第に誰からも相手にされなくなった。
そんな彼女に目を付けた男がいた。
男は、たいへんな荒くれ者だった。
町を歩くだけで煙たがられ、自棄になって酒を飲んでは暴力を振るうという悪循環に生きている。
そんな彼を女だけは恐れず、受け入れた。
周囲から拒絶された二人が互いを求めるようになるまで時間さほど掛からなかった。
季節がひと回りする頃に、女は新たな命を授かった。
男はいたく喜んだ。
過保護なほどに彼女を守り、家族のため身を粉にして働いた。
その変わりようは目を見張るものだった。
人々が男に抱く感情も変わり、いつしか町の一員として溶け込んでいた。
――しかし、人の本質というものはそう簡単に変えることはできない。
土地を持たず、学のない男にできるのは賃金の安い肉体労働ばかり。
動くのも億劫なほどの疲労とそれに見合わぬはした金。
思うようにいかない苛立ちを、身重の女にぶつけるようになったのだ。
初めは小言のようなものだった。
飯がまずい、家事が行き届いていないという男の罵声に、女は「至らぬ部分を指摘してくださる方がいることが仕合せ」と返す。
そんな毎日を繰り返すうち、救いだったはずの柔和な表情の裏に底知れぬ蔑みを感じるようになった。
そして、男は彼女の顔が気に食わないという理由で暴力を振るった。
「肌と肌が触れ合うそのひと時を感じられて仕合せです」
頬を赤く腫らしながらなおも微笑む女に、男の暴行は歯止めがかからなくなっていた。
女にとって「仕合せ」という言葉は暗示だった。
今の自分は仕合せなのだと言い聞かせることで壊れてしまいそうな精神を辛うじて保っていたのだ。
仕合せと口にするたびに満たされるような心地が彼女を包んだ。
そうとは知らぬ男は、彼女の「仕合せ」という言葉を否定し打ちのめした。
ついに、起こってはいけないことが起きてしまう。
苛立ち紛れに振るった男の拳が彼女の下腹を打ったのだ。
その衝撃で芽生えたばかりの命は流れてしまった。
女が変わったのは、その日からだった。
相変わらず「仕合せ」と繰り返す彼女だが、言葉に心が伴っていない。
常に柔和な面持ちであるのに、瞳の奥は昏く淀んでいた。
それから数日、毎夜のように聞こえていた暴言と悲鳴がないことを案じた隣人が彼女の家に押しかけた。
むせかえるような異臭の中、女は床についていた。
すり切れた薄い布団の中には、一糸まとわぬ女と毒色の顔をした男が体を寄せ合っている。
男の腹には包丁が深々と突き刺さり、首には紐が何重にも絡みついていた。
誰の目にも、男が絶命していることは明らかだった。
「何があった」
「誰にやられた」
隣人が何を問うても返答は的を射ず、駆け付けた警官に引きずり起こされても微睡んだ瞳が覚めることはない。
女の瞳は空を見据え、心は遠くへ行ってしまったようだった。
「この人は仕合せにございます」
唐突な言葉に彼女の脇を抱え上げていた警官の動きが止まる。
「彼岸に行けば愛する我が子を抱くことができる」
部屋の隅で異臭を放つ、流れてしまった赤子を見付けた隣人が悲鳴を上げた。
「わたくしも仕合せにございます。
大切なお方が何も言わず傍に寄り添ってくださる。それだけで……ほんとうに、ほんとうに仕合せにございます」
女の頬にはひと筋の涙が伝っていた。
はるばる買い求めに出かけた品が売り切れていた時には、必要な人の元へ届いたのだから仕合せだ。
粗悪なものを高い値で掴まされたとしても、その金で暮らしが豊かになる人がいるならばそれが仕合せだ。
どんなに貧しくとも、どんなに惨めであろうとも、女は「仕合せ」という言葉を繰り返した。
彼女を気味の悪い偽善者だとなじる者もいた。
ところが、女は中傷の言葉でさえありがたがるので次第に誰からも相手にされなくなった。
そんな彼女に目を付けた男がいた。
男は、たいへんな荒くれ者だった。
町を歩くだけで煙たがられ、自棄になって酒を飲んでは暴力を振るうという悪循環に生きている。
そんな彼を女だけは恐れず、受け入れた。
周囲から拒絶された二人が互いを求めるようになるまで時間さほど掛からなかった。
季節がひと回りする頃に、女は新たな命を授かった。
男はいたく喜んだ。
過保護なほどに彼女を守り、家族のため身を粉にして働いた。
その変わりようは目を見張るものだった。
人々が男に抱く感情も変わり、いつしか町の一員として溶け込んでいた。
――しかし、人の本質というものはそう簡単に変えることはできない。
土地を持たず、学のない男にできるのは賃金の安い肉体労働ばかり。
動くのも億劫なほどの疲労とそれに見合わぬはした金。
思うようにいかない苛立ちを、身重の女にぶつけるようになったのだ。
初めは小言のようなものだった。
飯がまずい、家事が行き届いていないという男の罵声に、女は「至らぬ部分を指摘してくださる方がいることが仕合せ」と返す。
そんな毎日を繰り返すうち、救いだったはずの柔和な表情の裏に底知れぬ蔑みを感じるようになった。
そして、男は彼女の顔が気に食わないという理由で暴力を振るった。
「肌と肌が触れ合うそのひと時を感じられて仕合せです」
頬を赤く腫らしながらなおも微笑む女に、男の暴行は歯止めがかからなくなっていた。
女にとって「仕合せ」という言葉は暗示だった。
今の自分は仕合せなのだと言い聞かせることで壊れてしまいそうな精神を辛うじて保っていたのだ。
仕合せと口にするたびに満たされるような心地が彼女を包んだ。
そうとは知らぬ男は、彼女の「仕合せ」という言葉を否定し打ちのめした。
ついに、起こってはいけないことが起きてしまう。
苛立ち紛れに振るった男の拳が彼女の下腹を打ったのだ。
その衝撃で芽生えたばかりの命は流れてしまった。
女が変わったのは、その日からだった。
相変わらず「仕合せ」と繰り返す彼女だが、言葉に心が伴っていない。
常に柔和な面持ちであるのに、瞳の奥は昏く淀んでいた。
それから数日、毎夜のように聞こえていた暴言と悲鳴がないことを案じた隣人が彼女の家に押しかけた。
むせかえるような異臭の中、女は床についていた。
すり切れた薄い布団の中には、一糸まとわぬ女と毒色の顔をした男が体を寄せ合っている。
男の腹には包丁が深々と突き刺さり、首には紐が何重にも絡みついていた。
誰の目にも、男が絶命していることは明らかだった。
「何があった」
「誰にやられた」
隣人が何を問うても返答は的を射ず、駆け付けた警官に引きずり起こされても微睡んだ瞳が覚めることはない。
女の瞳は空を見据え、心は遠くへ行ってしまったようだった。
「この人は仕合せにございます」
唐突な言葉に彼女の脇を抱え上げていた警官の動きが止まる。
「彼岸に行けば愛する我が子を抱くことができる」
部屋の隅で異臭を放つ、流れてしまった赤子を見付けた隣人が悲鳴を上げた。
「わたくしも仕合せにございます。
大切なお方が何も言わず傍に寄り添ってくださる。それだけで……ほんとうに、ほんとうに仕合せにございます」
女の頬にはひと筋の涙が伝っていた。
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