しあわせな人

牧田紗矢乃

文字の大きさ
1 / 1

しあわせな人

しおりを挟む
 女は、どんなことがあっても仕合しあわせだと口にした。

 はるばる買い求めに出かけた品が売り切れていた時には、必要な人の元へ届いたのだから仕合せだ。
 粗悪なものを高い値で掴まされたとしても、その金で暮らしが豊かになる人がいるならばそれが仕合せだ。

 どんなに貧しくとも、どんなに惨めであろうとも、女は「仕合せ」という言葉を繰り返した。
 彼女を気味の悪い偽善者だとなじる者もいた。
 ところが、女は中傷の言葉でさえありがたがるので次第に誰からも相手にされなくなった。

 そんな彼女に目を付けた男がいた。
 男は、たいへんな荒くれ者だった。
 町を歩くだけで煙たがられ、自棄やけになって酒を飲んでは暴力を振るうという悪循環に生きている。
 そんな彼を女だけは恐れず、受け入れた。

 周囲から拒絶された二人が互いを求めるようになるまで時間さほど掛からなかった。

 季節がひと回りする頃に、女は新たな命を授かった。
 男はいたく喜んだ。
 過保護なほどに彼女を守り、家族のため身を粉にして働いた。
 その変わりようは目を見張るものだった。

 人々が男に抱く感情も変わり、いつしか町の一員として溶け込んでいた。



 ――しかし、人の本質というものはそう簡単に変えることはできない。



 土地を持たず、学のない男にできるのは賃金の安い肉体労働ばかり。
 動くのも億劫なほどの疲労とそれに見合わぬはした金。

 思うようにいかない苛立ちを、身重の女にぶつけるようになったのだ。
 初めは小言のようなものだった。

 飯がまずい、家事が行き届いていないという男の罵声に、女は「至らぬ部分を指摘してくださる方がいることが仕合せ」と返す。
 そんな毎日を繰り返すうち、救いだったはずの柔和な表情の裏に底知れぬ蔑みを感じるようになった。
 そして、男は彼女の顔が気に食わないという理由で暴力を振るった。

「肌と肌が触れ合うそのひと時を感じられて仕合せです」

 頬を赤く腫らしながらなおも微笑む女に、男の暴行は歯止めがかからなくなっていた。



 女にとって「仕合せ」という言葉は暗示だった。
 今の自分は仕合せなのだと言い聞かせることで壊れてしまいそうな精神を辛うじて保っていたのだ。
 仕合せと口にするたびに満たされるような心地が彼女を包んだ。

 そうとは知らぬ男は、彼女の「仕合せ」という言葉を否定し打ちのめした。



 ついに、起こってはいけないことが起きてしまう。
 苛立ち紛れに振るった男の拳が彼女の下腹を打ったのだ。
 その衝撃で芽生えたばかりの命は流れてしまった。

 女が変わったのは、その日からだった。

 相変わらず「仕合せ」と繰り返す彼女だが、言葉に心が伴っていない。
 常に柔和な面持ちであるのに、瞳の奥はくらく淀んでいた。



 それから数日、毎夜のように聞こえていた暴言と悲鳴がないことを案じた隣人が彼女の家に押しかけた。
 むせかえるような異臭の中、女は床についていた。

 すり切れた薄い布団の中には、一糸まとわぬ女と毒色ぶすいろの顔をした男が体を寄せ合っている。
 男の腹には包丁が深々と突き刺さり、首には紐が何重にも絡みついていた。
 誰の目にも、男が絶命していることは明らかだった。

「何があった」
「誰にやられた」

 隣人が何を問うても返答は的を射ず、駆け付けた警官に引きずり起こされても微睡んだ瞳が覚めることはない。
 女の瞳は空を見据え、心は遠くへ行ってしまったようだった。

「この人は仕合せにございます」

 唐突な言葉に彼女の脇を抱え上げていた警官の動きが止まる。

「彼岸にけば愛する我が子を抱くことができる」

 部屋の隅で異臭を放つ、流れてしまった赤子を見付けた隣人が悲鳴を上げた。

「わたくしも仕合せにございます。
 大切なお方が何も言わず傍に寄り添ってくださる。それだけで……ほんとうに、ほんとうに仕合せにございます」

 女の頬にはひと筋の涙が伝っていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

処理中です...