手児奈し思ほゆ

三谷銀屋

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再会

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 遠い上総の国に嫁ぎ、国造の正室として窮屈でも恵まれた暮らしを営む。そして、幾人かの子を産んで、ささやかな幸せを見つける……手児奈がそんな平凡な女だったならば、俺もこの身にこのような呪いを受けずに済んでいたかもしれない。
 俺は俺で、誰からも省みられない己の身の上に哀しみと怒りを抱きながらも、日々の暮らしに追われ、特に何事もなく緩慢に年をとっていったのだろう。そして、やがて親父と同じように道端のごみのようになって死ぬだけの人生だったかもしれない。
 もし、手児奈の婚礼の旅立ちを見送ったあの日を最後に、二度と手児奈に会えずにいたならば……。
 しかし、手児奈は帰ってきた。真間の村に……。変わり果てた姿になって。
 それは、手児奈が上総に嫁いでから三年の歳月が過ぎた、ある日のことだった。
 立派な身なりの役人達がやってきて、村人達に家を建てるように命じた。突然のことに村の者達は慌て、言われるがままに木を組み、茅を葺いて、入り江のすぐそばに茅屋を造った。
 そうして、役人達が連れてきたのは一人の女だった。ぼろ切れのような布を身にまとい、髪も梳らずに荒々しく伸ばすに任せたような、みすぼらしい乞食のような女。役人達に両腕を掴まれ、引きずられるようにして連れてこられるその姿は、咎人が刑に引き出される様に似ていた。
 村の者達は異様なものを見る目で、ひそひそと囁き交わしながら遠巻きにその様子を見ている。俺もひとり、砂州を跨ぐ継橋の上に立って、入り江に新しく建てられた茅屋の方を眺めていた。役人達に取り囲まれながら、とぼとぼと力なく、よろめきながら入り江を歩いていく女の姿が視界に入る。
 胸騒ぎがした。見てはいけないものを見てしまうような、そんな予感に襲われる。
 しかし、俺は女から目が離せないでいた。
 まさか。そんなはずはない……そんなことがあってたまるか。
 動悸が速まる。
 信じたくはなかった。
 だが、女が顔を覆ったボロ布を手で払い、川面に目を向けるようにふっと顔を上げた時、俺の予感は確信に変わった。
 女は、まさしく手児奈だった。


「ああ、ありゃあ間違いなく手児奈様だよ。嫁ぎ先から国に突っ返されてきたのさ」

 通りの端に俺と並んで腰を下ろした年若い商人は言った。
 この商人は、いろいろな土地を旅しながら商いのものを仕入れたり売ったりして生業を立てているらしく、二、三月に一度、国府の近くに姿を現した。
 商人というやつは不思議なもので、物が売れれば貴族だろうと物乞いだろうと頓着しないらしい。俺もこの商人には度々、銭を払っていた。もっとも、俺が買うのはモノではなく「話」だった。旅の商人だけあっていろいろな噂話を知っているのだ。

「美しすぎたのが災いしたんだろうなぁ」

 商人はニヤリと笑って続けた。

「上総の国造様は手児奈様とは父と娘ほども年が離れているが、手児奈様をそりゃあ大事になさり、愛おしんでいたらしい。しかし、国造様のご長男が手児奈様に横恋慕した。国造様と恋に狂ったご長男が手児奈様を巡って争うようになり、ついにある日、お二人とも剣を抜いての激しい諍い、斬り合いの末、相打ちになって互いに命を落とされたとか。争いのもとになった手児奈様は、国に不吉を呼び込んだ女、と言われて故郷に戻されたというわけだ」

 淀むことのない商人の口調。おそらく、人々の好奇心に答えて何十回となく同じ話を語ってきたのだろう。

「しかし、手児奈様がおかわいそうなのはここからさ。今の下総の国造は知っての通り荒嶋様……だが、今の国府で真に力を持っているのは荒嶋様のお母上……先代の国造のご正室であらせられた沙由子様だ。沙由子様は前々から手児奈様を目の敵にしておられた。沙由子様は、戻ってきた手児奈様が国造の館に入ることを拒んだのさ。一度嫁に出した娘が尋常ならざる理由で出戻ったとあれば国造の家の恥だと言って」

「だから、手児奈様は入り江の茅屋に追いやられているのか……しかし、あまりにも惨い仕打ちではないか。仮にも国造の妹君だぞ」

「手児奈様の生みのお母上に対する憎しみがそれほどまでに強いのだろうな。ふふ……女は怖いのう」

 商人は肩をすくめて、大げさに身を震わせた。
 俺は商人に銭を手渡すと無言で立ち上がった。

「妙な気を起こすなよ。今は落ちぶれているとはいえ先代の国造の血を引く姫君だ。うっかり手を出せばどんなお咎めがあるかもわからんぞ」

 からかい半分の笑いを含んだ声で忠告する商人の言葉が背中に投げかけられる。俺は振り返らなかった。


 俺が真っ直ぐに向かったのは入り江のほとりに建つ手児奈の茅屋だ。ところどころに生えた芦や薄を手で払いながら家に近づく。重く湿った空気が肌に絡みついた。水捌けの悪そうな土地だ。村の者なら間違ってもこんな場所に家は建てない。手児奈の家そのものも、近くで見ると如何にも急拵えで、茅の葺き方も雑だった。雨漏りなどしないか心配になる。
 いくら出戻りといっても、仮にも先代の国造の娘だった者をこのような所に一人住まわせるなど尋常な仕打ちではない。俺は腹の底から怒りを覚えた。
 だいたい荒嶋は何をしているのだろう? いくら母に頭が上がらないとはいえ、二年前に先代が亡くなり、今ではあいつが国造ではないか。あの朔の夜に俺が連れて逃げようとした手児奈を取り戻しにきたことは……嫁入りの旅に立つ手児奈を追いかけ、真間の継橋から見送っていたことは……真に手児奈を大切に思う心からではなかったのか。
 煮えくりかえるような怒りに背を押され、俺は遠慮など何もなく、手児奈の家の中にずかずかと足を踏み入れた。
 どんな咎めを受けてもいい。俺は手児奈の手をとって、二人でこの村から逃げ出すのだ。今度こそ……。
 しかし、家の中に手児奈はいなかった。
 中にはほとんど物がなく、がらんとした薄闇が広がっている。屋根の茅の隙間から差し込む光の中でほこりがゆっくりと舞っていた。

「手児奈ッ……」

 俺は我を忘れて入り江の家から飛び出し、走った。手児奈を見つけださなければならない。
 入り江に沿って走り、いくつもの継橋を渡ったが手児奈らしき人影は見あたらない。もしや、と思い、墓場にも向かった。俺を頼って墓場を訪ねにきているのでは、という淡い期待があった。墓の盛り土に腰を掛けて微笑んでいた少女の頃の手児奈の姿が眼裏に浮かんだ。しかし、そこにも手児奈の姿はなく、訪ねてきたような形跡もなかった。

――どこに行ってしまったのだ、手児奈……。

 探しあぐねた俺は、どこという当てもなく墓の裏手から続く林の中をただ歩いた。手児奈を探す当てはないものの、足は自然とひとつの場所に向かっていた。
 それは、あの真間の井だった。俺と手児奈の縁が引き裂かれたあの場所に……。
 林を抜けた。井戸がある。そして、そこには探し求めた手児奈の姿があった。

「手児奈……」

 俺はゆっくりと手児奈の傍に歩み寄った。
 手児奈は地べたにぺたりと座り込み、井戸からさらさらと湧き溢れる水の流れに素足を晒していた。よっぽど長い間冷たい流水に晒していたのか、白い足が赤くなっている。その視線は水の流れを眺めているような眺めていないようなぼんやりとしたものだった。

「手児奈」

 俺は手児奈の隣に膝をつき声をかけた。
 手児奈は顔を上げない。

「手児奈、俺だ。覚えているか? 阿止利だ」

「…………」

 手児奈は何も言わずに俺のほうを緩慢に振り向いた。俺は手児奈の目を見た。手児奈は無表情だった。その顔には喜びも哀しみも、何も浮かんではいない。手児奈は俺を見ているようで見てはいなかった。焦点の合わない、虚ろな瞳。
 風が吹く。木々が揺れて、鳥達が飛び立つ羽音が聞こえる。チリリリ……チリリリ……とさえずる鳥の声に合わせるように、手児奈の舌が、りりりりり、りりりりり、と歌うように、意味をなさない音を立てた。
 手児奈は気が触れてしまったのだ、と俺は悟った。

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