手児奈し思ほゆ

三谷銀屋

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荒嶋の館にて

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 国府の隣に建つ国造の館の前に俺は佇む。
 篝火がゆるやかな夜風の中でパチパチとはぜて火の粉を飛ばしていた。

「何だ……貴様、何奴だ」

 若い門番が俺の前に立ちはだかった。不審げな目でじろじろと見てくる。

「ここは国造様の館だ。貴様のような乞食女が来るところでは……」

「おい、待て!」

 年嵩の別の門番が焦ったように若い男の言葉を遮った。
 年嵩の男は、篝火と月光に照らされた俺の顔をまじまじと見つめた。

「……手児奈様!」

 男は目を見開き、かすれた声でその名を呼ぶと、恭しくその場に膝をつき頭を垂れる。若い門番は戸惑うように俺と年嵩の男を交互に見た。

「兄上のもとに案内せよ」

 俺の喉からは、鈴を振るように凛と響く手児奈の声が紡がれる。

 足の裏にひんやりとした木の感触が伝わってくる。国造の館は思っていた以上に広大だった。長い廊下がどこまでも続き、幾度も角を曲がった。館の中は気味が悪いくらい静まりかえっている。おそらく沙由子の殯が続いているためだろう。

「手児奈様……お帰りになるのをお待ちしておりました……」

 灯明を手にして俺を案内する娘が涙声で小さく囁いた。俺は曖昧に頷き返しながら、何か申し訳ないような気持ちに襲われて心の中がふと疼く。この娘や先ほどの年嵩の門番の態度から、手児奈は下働きの者達からも随分慕われていたらしいことが伺えた。
 黒々とした戸の前で娘は立ち止まった。

「国造様……手児奈様がいらっしゃいました」

 娘が告げ、重たげな戸を静かに開く。部屋の中にはいくつも灯明が揺らめいていた。その中に荒嶋が胡座をかいて座っている。
 俺が部屋の中に足を踏み入れると同時に、戸はすぅっと吐息のような音を立てて再び閉じられた。荒嶋が立ち上がる。俺は荒嶋と向き合う形となった。
 荒嶋が俺の目をしばし真っ直ぐに見つめ、口を開いた。

「手児奈……ぬしが入り江の家から姿を消したと聞いて案じておった。もう、ぬしとは二度と会えぬのではないかと……まさか、こうしてわしの元に戻ってきてくれるとは思いもしなかった……」

 手児奈が死んだことはやはり荒嶋には伝わっていないようだ。
 荒嶋は潤んだ目をして鼻をすすり上げると、俺の体……いや、手児奈の体を力強く抱き寄せた。口元に荒嶋の唇が重なる。熱をもった舌が口の中を侵した。口を吸う湿った音が耳元に響く。しばらくされるがままに口を吸わせていた。そのままの姿勢で俺は己の腰元に結わえた小太刀におもむろに手をかける。荒嶋はこの小太刀には気がついていない。俺は小太刀を音もなく引き抜き、荒嶋の体に両の腕を回す。抱きしめる素振りでその背にぐさりと刀を突き立てた。

「ぐ……う……」

 俺の唇を割って蠢いていた荒嶋の舌の動きが止まって、ひきつれたようにびくりと震えた。
 俺は荒嶋の背から小太刀を引く抜く。手の甲にぬるりと生温かい感触がある。そのまま荒嶋を力任せに突き飛ばした。荒嶋の大きな体躯は呆気なく床に転がった。荒嶋の背から流れ出た血がぬめぬめと汚らしく床をぬらしている。
 荒嶋は何が起こったのか分からないようだった。口を半開きにしたまま俺の手にぶらさがった血濡れた刀を見つめる。
 俺は倒れた荒嶋の上に馬乗りなった。すぐに死なせてやるつもりはない。
 刀の切っ先を荒嶋の太い首元にあてがって滑らせた。赤い血がびゅうっと勢いよく溢れ出る。俺は高揚する心を抑えきれず、くくく、と喉を鳴らして笑った。手首を返し、次いで荒嶋の片耳と鼻を削ぎ落とす。荒嶋の首から上が真っ赤に染まり、苦悶に歪んだ顔はたちまち人相さえも分からなくなる。

「う……ぐぅ……手……児奈……」

 荒嶋が苦しげに呻いた。血塗れの顔の中で荒嶋の目が大きく見開かれる。荒嶋と目があった。その瞬間、俺の中になぜか突如として冷え冷えと乾いた風が吹きぬけるのを感じた。荒嶋の瞳に浮かんでいるものは憎しみでも恨みでもない。そこにあったのは哀しみと絶望だった。なぜか胸の奥が軋むように痛んだ。手児奈の姿で荒嶋を罰する、苦しみを与えて死に至らしめる……それを望んで俺はここまでやってきたはずなのに。
 俺はたまらなくなって、荒嶋の腹にも急いで刀を突き立てた。

「ぎぃい……!」

 奇妙な声を上げて荒嶋の体がびくんと跳ね上がる。生温かい返り血が俺を……手児奈の体を濡らす。
 体中から血を噴き出させて朱に染まりながら、やはり荒嶋は真っ直ぐに俺を見ていた。
 やめてくれ、と俺は心の内で声にならない叫び声を上げた。そんな目でみないでくれ、と。
 決して届かないものに恋焦がれ、拒まれ、それでも想いを断ち切れない者の目。正気を失った手児奈のそばにいながら手児奈が俺の想いを受け止めてくれることをただ待っているだけだった俺もこんな目をしていたのではなかっただろうか。そんな思いが急速に熱を持って胸の中を駆けめぐる。
 愛する女の刃で死にかけて、血にまみれてのたうちながらもその女を求めてやまない目の前の男は本当に荒嶋なのか。
 この死に損ないの哀れな男は「俺」なのではないか。
 考えがまとまらずに途切れ途切れになり渦を巻き出した。得体の知れない感情が俺の中で暴れ回る。動悸が速まる。手が震える。

「……ぐぎ、いぃ……て……ごな……」

 潰れた声を絞り出すように発して、荒嶋が血で染まった手を俺に差し出した。助けを求める手ではない。ただ、差し出したのだ。そこにいる手児奈に向かって。
 その手を目にして、俺の中で何かが壊れた。

「うわああああああああ……!」

 俺の口から狂ったような叫び声が迸った。やはり、手児奈の声で。
 俺は刀を力いっぱいに切り下げた。差し出された形の荒嶋の腕が体から離れて、血の海の中に転がり落ちる。俺はもう我を忘れて荒嶋の体に何度も何度も刀をめちゃくちゃに突き立て、ところかわまず切り刻んだ。荒嶋の断片が辺りに飛び散る。
 死んでくれ。早く死んでくれ。その目を閉じてくれ。早く、早く……。
 それしか考えられなかった。

「あっ、あのぅ……どうかされましたか……?」

 先ほど俺を案内した娘が戸の外から声をかける。騒ぎを聞き不安を感じたのだろう。俺は我に返る。目の前には肉の塊と化した荒嶋が血に浸されて転がっている。
 カタン、と音がした。娘が戸を開けたのだ。

「ひっ……」

 娘の口が悲鳴を上げる形に開いた。しかし、声は上がらない。戸が開くと同時に俺は娘の胸を刺し貫いたのだ。娘は恐怖と驚愕を顔に張り付かせたまま崩れ落ちた。
 娘の胸からずるりと刀を引き抜く。俺は娘の死体を跨いで廊下を駆けだした。どこまでも続き、幾度も曲がるその道は延々と地の果てまで俺を誘っていきそうな、そんな気がした。騒ぎを聞きつけた館の者達がざわめき出す気配がする。この姿のままで捕まるわけにはいかなかった。廊下が途切れる。外へ、月明かりの下へ走り出る。揺らめく篝火。門番がいる。俺の姿を目をして青い顔をしている。俺は体全体をねじるようにして刀を振るった。刃が風を引き裂く音。二人の門番の頭が宙を飛んだ。

 どこをどう走ったのかよく覚えていない。気がつくと目の前に真間の入り江が広がっていた。俺は肩で息をし、ふらつく足でどうにか体を支えながら継橋の上に佇んでいた。
 円い月に照らされて川面はきらきらと輝いている。手児奈が身を投げた川。手児奈の命を呑み込んだ水だ。
 俺は橋の上から小太刀を投げ捨てた。どぼん、と間の抜けた音がして水飛沫が上がる。
 村の方を眺めると松明の明かりがちらちらとせわしなく動き、人の声で騒がしい。きっと国造の館の者達が「手児奈」を探しているのだろう。
 俺は橋桁によじのぼった。橋桁に立つと太日河の向こうの岸辺までよく見渡せた。嫁入りの舟の舳先に佇んで真っ直ぐに前を見つめていた手児奈の姿を思い出す。手児奈の瞳には何が映っていたのだろうか? あの時の手児奈が身にまとっていた空気は嫁入りの幸せなどとは程遠い、ある種の悲壮さだった。もしかしたら手児奈には自らの行く末が何となく見えていたのかもしれない。
 冷たい空気を胸に吸い込む。俺は橋桁を蹴った。体が一瞬宙に浮き、そしてザブンと水に沈んだ。
 凍るような水が体にこびりついた荒嶋の血を洗い流す。俺は抜き手を切った。黒々とした長い髪が水の流れにたなびく。
 手児奈の命が溶けた水の中を、俺は手児奈の姿で泳いでいく。
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