鏡の向こうは妖の星 ―忘却の花嫁 ―

蒼空光

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17.襲撃

「帰ったら早めに休もう……」

 デスクに山積みになっていた書類を何とか片付けた光希は協会のエントランスを出ようとしていた。 時刻は午後六時半。いつもよりかなり早めの退勤だ。

「あれ。光希ちゃん?」

 背後から声をかけられて振り返る。数メートル後ろに嶋田日菜の姿があった。

「あ、お疲れ様です。日菜さん」
「今日早いね」
「はい、今日は少し疲れたので早めに出て来たんです」

 横にやって来た日菜に顔を覗き込まれて、光希は反射的に顔を隠した。

「うん。やっぱり顔色良くないね。ああ……だから明日有給取ったの?」
「はい。ご迷惑おかけしてすいません」
「構わないよ。私だって休む事あるんだから気にしないで」

 明るくそう返されて、日菜の意外な一面を見たような気がした。途中まで一緒に帰ろうとも言われていないけれど、歩幅を合わせて歩いてくれていると気付いて胸の内が少し暖かくなった。

 揃ってエントランスを出て、広いグラウンドを正門に向かって歩き始める。寮は協会の敷地内にあるため、正門までで日菜とは別れる事になる。所用時間は五分程だ。

「そういえば、日菜さん今日遅いですね。残業ですか?」
「ううん。今から合コンなの。だから時間ずらして出て来たのよ」

なるほど日菜らしいな、と妙に納得してしまった。

その時だ。

 耳の中を生暖かい何かが這うような違和感、さらにその奥に幕が張ったようなねばつく不快感に思わず耳を塞いだ。

––––何……これ……。

 背中を這い上がったのは今まで感じた事のない程の悪寒。早鐘のように打ち始めた鼓動が、いつもとは違う事を警告しているようだった。

––––息、出来ない。

 周囲の空気が急に薄くなったように、呼吸が苦しくなった。初めての症状だった。

「光希ちゃん大丈夫?顔、真っ青だよ」
「………っ………」

 喉が張り付いたように声が出なくなり、酷い耳鳴りまでし始めた。金属同士を擦り合わせたような、不協和音が頭の中で反響する。

––––此処は危ない。だめ、逃げなきゃ……でも、どこに?

「ねえ、光希ちゃん!大丈夫?!ねえってば!」

 焦ったような日菜の顔が急速に暗くなっていく。その視界の先に、不自然に崩れた輪郭が滲んだ。建物や街灯の影、ではなかった。

【それ】は風に吹かれるように揺れ、ぬるりとまるで滑るように動いた。その動きに合わせるように辺りに立ち込め始めたのは、鼻が麻痺しそうな程の悪臭だった。
 
–––––何か来る!?

 咄嗟に目の前に立つ日菜の肩を、出せる有りったけの力で押した。よろめき倒れた日菜が困惑したように見上げた。。

「痛っ!光希ちゃん……何を!?」
「……げて……」
「え、っ?」
「逃げて!日菜さん!!」

 こちらの動きを追っているのか、ぎょろりと二つの濁った赤が動いた。両目の視点が不自然な程外側に向いている。眼球はどこを見ているのかわからないのに見られているような感覚が纏わりつく。ひっ……と小さく悲鳴を上げた日菜が後退りした。

 ごき、という嫌な音を伴って首が不自然な程に回る。一瞬だけ、【それ】の身体が見えた。腕が異様に長い。肌はまるで濁った沼地のようにぬるりとした緑色が光っている。

–––––人じゃ……ない…。

理解できたのは、それだけだった。

 ずる、と一瞬動きを止めていたそれが動いた。不味い何か来る。直感で咄嗟に飛び退り身を捻るが間に合わなかった。
 ざく、という嫌な音と共に右肩に激痛が走った。
 服が裂け肩掛け鞄の中身が辺りに散らばった。

「ああっ!!」

 同時に身体が吹き飛ばされて、高所から落下したような衝撃が全身に走った。辺り一面に砂埃が舞い上がり何も見えなくなった。
 それでも得体の知れない生物が這い回るような湿った音が微かに聞こえた。

 目眩がする程の激痛が右肩に走る。身体が起こせない。最早何が起きているのか理解が追いつかなかった。

「う………ゲホッ!ゲホッ」

 むせ返りながら、身体を引きずって何とか距離を取ろうとしたがそれを見逃してくれる相手では無かった。

 砂埃の中から目にも止まらぬ速さで何か大きなものが飛び出して来た。生暖かい液体が伝う肩口が、身が凍る程の冷たさを伴った手に力任せに押さえつけられた。くぐもった音が頭の上から落ちてくる。

『グフ…グフフ』

 協会職員の遠方からのライト光が、身体の上にのしかかる【何か】の顔を鮮明に映し出した。赤く濁った両目。鼻、耳、人と同じものが付いているのに、動きは人とはかけ離れていた。
 口と思われる場所が、目の前でがばっと裂けるように開かれた。そこには黒い液体に塗れた鋭い牙が、びっしりと生えていた。

「ハァ……ハァ……」

 首を絞められたように、どれだけ吸っても息が入って来なくなった。置いてきぼりになっていた恐怖の感情が追いついた時、一瞬で理解した。

––––ああ私、ここで……。

 目の前の何かが顔を近づけてきた。大口を開けて頭に喰らい付いて来る姿が、スローモーションのように見えた。強烈な匂いの息が顔にかかる至近距離に来た時、思わず固く目を閉じた。

 だが恐れていた痛みは一向に来なかった。震えながら、ゆっくり目を開ける。目の前で動きが一瞬止まった【それ】の濁った赤い目が、何かを追うようにぎょろりと虚空に滑った。

 辺りに漂う腐臭を包むような、甘い匂いが鼻を掠めた。

––––なに……?この匂い……。

 秋が深まる頃に咲く金木犀の匂い。それをさらに濃くしたような匂いだ。その匂いに誘われるように【それ】が身体を起こすと、右肩にのしかかっていた圧が無くなった。
 その匂いがする方へ視線を向けると人影が立っていた。左腕からポタポタと何かが流れているように見えた。

––––だれ……?

 ふらつきながら立ち上がった【それ】が、匂いの発生源と思われる場所目掛けて、真っ直ぐ突っ込んで行った。小柄な人影はまるで猫のようにしなやかな身のこなしで躱し【それ】の背後を取ると、一瞬辺りにクリアブルーの光が溢れ出した。
あまりの眩しさに思わず目を閉じた。

「……後ろがガラ空きだ。遅いな、お前は」

 冷静な声を耳が拾った。【それ】が一瞬立ち竦むと、頭があった場所から丸い何かがころりと落ちた。声を上げることもなく【それ】は黒い液体を流しながら倒れて動かなくなった。

–––––助かった……の……?

 静寂が戻った。葉の触れ合う音を伴い微かな風の吹き抜ける音が聞こえ始めた頃、倒れた【それ】を暫く観察していたらしい人影が立ち上がりこちらに向かって歩いて来る。

 甘い匂いが強くなる。先程鼻を掠めたあの匂いは、人影から出ているようだった。光希の目の前で立ち止まった人影。エントランスから騒ぎを聞きつけてやって来た協会職員が持つ、懐中電灯の光がその人影の顔を照らし出した。

––––男の、人……?

 そう判断する事を光希は躊躇った。十人いたら十人ともが口を揃えて「美しい」と言うだろう。それ程目を惹く美しさだった。だが、光希を見つめる漆黒の双眸はまるで氷のような冷たさを湛えていた。長く溜息を吐いた後、目尻が釣り上がり視線が刺すように鋭くなった。

「何やってんだ!お前は馬鹿なのか!?」

 次の瞬間には強烈な怒声が脳天に落ちた。右肩がビクッと跳ねて、また刺すような痛みが襲って来た。

「あ……の……」
「あれはお前の手に負える奴じゃない!!何故他人を庇った!?死ぬ気だったのか!?」
「……っ……」

 こめかみに青筋が立っている。それ程に怒っていた。反射的にじわりと込み上がってきた涙を、必死に堪えた。

「ああ……クソ……どうなってんだよ……」

 光希の傷痕を一瞥した男は眉間に皺を寄せそう呟いた後、スラックスのポケットに右手を突っ込むと、スマホを取り出して何処かに連絡を取り始めた。

「……ああ俺だ。場所はエントランスを出たグラウンド。要件は3つ。一つ目、医療班を寄越せ。怪我人がいる。二つ目、協会員を数人寄越せ。現場検証させる。三つ目、会長に伝えろ。協会の敷地内に狂血鬼が出た。以上だ」

 淡々とそう告げると電話先の相手の返事も聞かずに通話を強制終了させていた。

––––きょうけつ……き……?

 確かにそう聞こえた。聞いた事の無い言葉だった。さっき襲われたあれのことだろうか。よくわからないけれど、確かな事は【あれ】はもう襲って来ない事だ。
 こわばっていた身体の力が、漸くゆっくり抜けていく。

「傷を見せろ」

 不意に屈んだ男と目が合った。その声色から先程迄の怒りはなくなっているようだった。小さくうなづいて、押さえていた左手を外した。
 傷口を見た男の表情が、険しくなった。

「かなり深いな……今動けるか?」
「すいません、無理……です」
「そうか。わかった」

 何が分かったのだろう。ふわふわし始めていた頭ではそこまで理解が及ばなかった。またスマホを取り出して何処かに連絡を取り始めた。

「医療班は良い。一刻を争う。俺が連れていく」

 焦ったような声だった。連絡を終えた男がしゃがんだままこちらに背を向けた。

「あの……?」
「乗れ。医療棟まで連れていく」
「……でも、貴方の服が汚れて……」
「何を言っている。命が惜しいなら黙って乗れ」

 怒鳴り声では無かったが、有無を言わせない力があった。
 右肩の激痛を堪えながら、男の背中に乗ると直ぐに立ち上がる。一瞬走り出そうとする足を止めて、離れた場所でへたり込んだままの日菜を振り返った。

「お前も来い。酷い怪我は無さそうだが、念のためだ」
「は、はい……」

 男の声に促されるまま立ち上がった日菜が、ついてくる足音が聞こえた。

––––日菜さん、酷い怪我は無さそう。…良かった。

 男の背で揺られながら安堵した。指先の感覚がなくなっている。同時に抗えない程の眠気で瞼が鉛のように重くなった。

––––それにしても……凄く懐かしいような気がする。こんな事初めて、なのに……。

 広い背中の温かさと甘い匂いに包まれて、光希はそのままゆっくり意識を手放した。

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