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後編
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地を黒々と埋め尽くす魔物の群れを、私たちはじっと観察していた。
徐々に近づいてくるそれは本隊と比べれば劣るが、それでも普通の人間ならとても4人で太刀打ちできる数ではない。
地形のお陰でこの程度の数で済んでよかったと喜べるかは微妙な感じだが、碌な支度金も渡さず後はダンジョンで手に入れてねと言わんばかりに放り出してくれた王国のことだ。どうせ相当な規模の戦いでないと援軍は出してくれないだろうし、下手に増えるよりはよかったのだろう。
昨日の忙しなさが嘘のように、仲間たちは頭の痛くなるような数の敵を前にしても落ち着いている。
(なんかくすぐったいなぁ……)
私たちの全員が歴戦の猛者というわけではない。
どれだけ個々の能力が高くとも戦場で足が竦めば命を落とす。経験という精神安定剤の少ない私たちは本来いつ誰が恐怖に囚われ崩れてもおかしくない状態だ。
それでもお互いを、己を、そして私を信頼してくれているから圧倒的に不利な状況でも彼らはずっと折れなかった。
それはずっと勇者へ向けた信頼だと思っていたけれど……私の正体を明かした後も揺らがない、むしろ奮い立つようですらあるその姿勢が少しだけ照れくさい。
「ティアさん」
敵の布陣を確認しながら聖剣の感触を確かめていると、コルメナの硬質な声がした。
眼のいい彼女はなにか厄介な見つけてしまったらしい。
僅かな動揺、逡巡の後。
続いた言葉に背中がぞわりと歓喜で泡立った。
「後方に魔王がいます」
魔王ーーリオ。私の幼馴染みがいる。
私の手の、届くところに。
何度か顔を合わせても尚、10年我慢させられた反動かいつも自然と顔が緩みそうになる。
(でも、まだ駄目だ)
逸る気持ちに手綱をつけて無理やり抑えつける。
彼と剣を交えるにはまだ勇者の力が足りない。
こちらから近づくことさえ難しいだろう。
どくどくと脈打つ鼓動がどれだけ急かしてもその資格がない以上、理不尽を恨むことさえ筋違いなのだ。
歯痒い気持ちを噛み潰し、代わりに仲間たちへ余裕たっぷりに笑って見せた。
「彼は手を出してこないよ。大丈夫だから、目の前の敵に集中しよう」
不吉な託宣のこともあるし、皆にはあまり動揺した状態でいて欲しくない。
今回の戦闘の支柱である私が精神的に揺らいではいけないと、出来るだけ落ち着いて聞こえるように声色を意識しながら檄を飛ばした。
それに実際、今日は心配で覗きに来た程度で彼に戦う気はさらさらないだろう。
(そう、大丈夫だ)
ひとりたりとも失ってたまるか。
全員が気持ちを切り替えたのを確認して聖剣を抜き放つ。
「さて。そろそろ行こうか。各自作戦通りにね。ガルド、しばらく2人を頼むよ」
近づいてきたガルドといつものように軽く拳を合わせる。
いつものようにシェスターと目を合わせ、いつものようにコルメナから加護を受け取った。
戦いの度に幾度となく繰り返してきた仲間たちとの儀式を終え、祈るようにエクスを握る手に力を込める。
息を深く吐き、大きく吸う。
もう一度吐き、吸い、地面を蹴った。
身体が軽い。
コルメナの付与した複数の加護に加え、風魔法での補助もある。
押し出されるようにスピードがどんどん上がっていく。
眼前には夥しい数の魔物。
遠くからではわからなかった明確な殺意を肌で感じながらも、積み重ねてきた経験と自信が身体を支え、むしろ速度は更に上がった。
魔物の大きく開いた口から伸びた牙が迫る。
あと数歩で衝突するその刹那。
「……っ!」
聖剣を支えに大きく上に跳ね上がる。
魔物たちの頭上を飛び越えながら空中で身体を反転させた。
短縮詠唱を小さく呟きながら着地と同時に剣を横に凪ぐと複数の魔物の身体が上下に分かれる。
風魔法を纏わせた斬撃が波状系に敵を切り裂いていくのに合わせて、開いたスペースに飛び込んだ。
切り裂いた身体から散る体液をコルメナの加護が弾くのを目視で確認する。今日も彼女の加護は万全だ。
体内に毒がある魔物もいるし、そうでなくとも目に入るだけで命取りになることもあるそれをほとんど気にせず戦えるのは大きい。
魔も聖も両極端な2つの力を扱える彼女は、その異質さ故に教会では冷遇されていたが、能力でいえば聖女達の誰より群を抜いて優秀である。
(本当、皆頼りになるよね)
個々の能力は歴代のどの英雄達にも劣らない。そしてなにより戦場においての価値観が合う。これ以上ないパーティーだ。
……強いて言うなら3人全員が人間嫌いなのが人間側の筆頭である勇者の仲間としては難点かもしれないが、まあ些細な問題だろう。
「……っと、そろそろ危ないかな」
数で押し潰される前に今度はシェスターの魔法で凍りついた一帯へ。
氷像になった魔物を叩き割りながら特に大きなひとつを足場にして作戦通りーーこの場で最も大きな魔物、トロールの頭目掛けて跳躍する。
頬を千切り取ろうとするような風の圧力を感じながら、聞こえてくるエクスの詠唱を叫ぶようになぞった。
「白銀に閉ざされろーー“フロスト”!!」
トロールは小さな山に例えられるほど大きく頑丈だが、エクスのコントロールがあれば身体の一部くらい短縮詠唱の中級魔法でも充分に骨まで凍らせられる。
そして普通の剣ならミミズ腫れ程度の傷1本をつけて折れるのが関の山だろうが、凍らせ、なおかつ聖剣を用いるとなれば先程の氷像とそう大差ない。
「はぁっ!」
凍った部分ーー首を、落とす。
瞬く間に命を刈り取られた巨体を後ろへ蹴り飛ばし、その反動を使って大きく放物線状に跳んだ。
その身体ができるだけ、多くの敵を巻き込むようにと狙いながら。
集団戦においてトロールのような巨人族は此方への威圧の象徴である反面、魔王軍にとっての旗印でもある。
……では、その旗が開戦後すぐに折られてしまえば?
どこからでも見える巨体が崩れ落ちる様は、軍全体に動揺を与えるだろう。士気が落ち、陣形が乱れる。そこに、つけ込む。
それが今回の作戦のひとつ。
数で圧倒的に不利な此方としてはできるだけ有利な条件を揃える必要があるのだ。
トロールのような比較的臆病で温厚な種族を最優先で手に掛けるのは躊躇う人が多いだろうが、少しでも仲間達が傷つく可能性を排除できるなら私は手段がどれだけ非情だろうと構うつもりはない。
自分が冷酷である自覚はある。
だが、私はそれを是としなければならない。
戦場において、良心や感傷、その他全てと仲間の命を天秤にかけたとして、私は一瞬たりとも迷うことなく仲間の命を選ぶ。選び続ける。
お互いを生かすためにその他の全てを踏み躙る。たとえ、自分の心でさえも。
それが私の、私たちの戦場で共有している価値観だ。
足元で魔法が発動する気配を感じて咄嗟に膝を畳む。
折った足の丁度すぐ下に、正確無比としか言いようのない精度で形作られた氷塊に内心感心しながらそれを足場にまた加速する。
勿論、氷塊を魔物の密集地に叩き落とすことも忘れない。
こちらの狙い通りに混乱した敵陣からは碌な攻撃もなく、私は悠々と自陣に着地ーーする前に抱き留められた。
風魔法で勢いを殺しているとはいえ、それなりの衝撃があったろうにガルドはびくともせず私を受け止める。
ぎゅうと抱きしめられながらなんとか周りを見渡すと、そこかしこに無残にも力任せに潰された魔物の亡骸が転がっていた。
(あー……)
大分心配をかけたみたいだぞ、これは。
一応彼の瞳を覗き込んでみるものの竜化の兆候は見られない。
つまり今彼は素面でこの状態。
そういえば私が先陣切るのも大反対だったしなー流石にそんなすぐやられないよ?ちょっと過保護では?
気持ちは嬉しいけれど、ここは戦線。恐らくこの魔物たちは先遣隊だが、いつ混乱が収まって本隊がきてもおかしくない。というか逆に混乱してるうちにこちらから攻め入ってしまいたい。
とんとん、と軽く腕を叩いて諫めるとガルドは仕方なさそうに腕を離してくれた。
「お前はもう少し……自分を大切にしろ」
「……?してるよ?」
痛いのも辛いのも嫌。
素直にそう思うし、出来る限りそういった思いをしないように頑張ってきたつもりだ。
私ほど自分に甘い人間もいないと思うけれど。
何を言われているのかと不思議な気持ちで首を傾げる私の頭を、ガルドは苦々しい顔で撫でた。
そして只でさえ乱れた私の髪を更にぐしゃぐしゃにした彼は、促すまでもなく戦場へ踵を返す。
「……俺たちの為なら簡単に投げ出してしまう癖に」
呟かれた言葉は、自分の持ち場に向かおうと彼とは反対側に歩き出した私の耳には届かなかった。
* * * * * * * * * *
「これくらいならなんとかなりそうじゃない?エクス?」
成り代わっても勇者は勇者。むしろ最近では歴代最強になるかもと聖剣からお褒めの言葉を賜る私だ。
私自身、そんじょそこらの勇者に劣る気はさらさらない。
リオをいつかあの魔族どもから奪い返すために、彼が魔王になる前から修行を積み重ねてきたのだ。生まれ持っての才能が劣ったって、その差を塗り替えられるくらいでなければリオに手が届かない。
それでも諦めるなんて選択肢を持つことすらできないなら、何年かかろうと進むしかなかったから。
お陰でまあぶっちゃけタイマンなら幹部くらいは今の段階でも倒せると思う。大抵罠とか毒とか盛られまくってこちらが不利な条件で戦うことになるんだけど!
(それにしても託宣はこの次の戦いのことだったんだろうか。数は圧倒的とはいえ、余程のアクシデントでもない限りはーー)
「っ!?」
突然エクスが私の身体を動かす。
咄嗟に彼に主導権を委ねると、身体が勝手に逆手で持った剣を思い切り後ろへ突き刺した。
そしてすぐに剣を引き抜くと同時に下へ転がる。
安全な場所へ退避した途端に自由の返ってきた手で、服についた土を軽く払った。
振り向けばすぐ側に人型の爬虫類のような魔物の骸。
「なんで?近くに魔物なんて」
隠れられるような所はほとんどない。そういう場所を選んだ。
こんなに近づかれるはずは……
「擬態か……!」
(……っ後衛の2人は……!?)
慌てて身体を反転させる。
振り返って見えたコルメナと魔物の姿に考えるより先に駆け出していた。
「コルメナ!!!」
腕を引き彼女の視界から魔物を遮るようにして庇う。
同時に右腕に燃えるような熱を感じ、遅れて吹き飛ばされたのだとわかった。
「ぐ…っぅ………」
叩きつけられた瞬間、耐え切れずに呻き声が口から溢れる。
痛みを堪えてなんとか腕の中の彼女へ目を向けると、衝撃で気絶してはいるものの外傷はなさそうだった。
岩に当たるギリギリでお互いの位置を入れ替えられたので、彼女は直接岩にぶつかってはいない。あったとしても酷い怪我はないはずだ。
ほっと息を吐いて小柄な身体を抱き締めているとエクスの呆れ返った声が聞こえてきた。
「無茶して悪かったって。……でも、死なせないって言ってるでしょ」
コルメナ、ガルド、シェスター。
人間でありながらその境遇故に闇に落ち、勇者の敵として死ぬはずだった私の仲間。
神の託宣に逆らって彼らを救ったときから、私の我儘に巻き込むと決めたときから、せめて死の運命からは守りきると誓った。
「皆が知らないからって誓いを違える気はないよ」
彼らを旅に引き込んだ時から覚悟自体はあったのだ。
シナリオから救ったって道中で死なせては意味がない。命を救う代わりに手を貸して貰うようなものなのだから、私にとってそれは当然の義務だった。
……けれど彼らと旅をするうちにいつしか義務だけではなくただ、ただ大切な存在だから守りたいと思うようにもなった。
その為なら勇者にでもなんでもなってやろう。ましてや腕一本くれてやるくらい躊躇うはずもない。
そう告げるとエクスはガルドに似た少し哀しそうな声でそうか、とだけ答えた。
周りに気配がないことを確認してから彼女をそっと地面に寝かせ、ふらふらと立ち上がる。
左手に剣を握り直して走りだすと、最小限の動きで攻撃を避けながら私とコルメナを吹き飛ばした魔物の首を落とす。
そのまま今度は盛大な溜息を吐いたエクスが私の身を翻させてもう1匹を斬り伏せた。
「ああ、でも流石に今はマズいか。手が動かないや」
最早だらりとぶら下がっているだけになってしまった右腕は、くっついてくれているだけマシとはいえエクスでも動かせそうにない。あと普通にすこぶる痛いので無理やり彼に補助してもらわないと多分身体全体の動きが鈍る。今だって意識しないと息さえ浅くなる始末だ。
コルメナはじきに目覚めるだろうが、その僅かなタイムラグで戦線が崩れてしまうことは想像に難くない。
「どうしたらいいと思う、相棒?」
小言を覚悟でエクスに訊ねると意外にもすぐに応えが返ってきた。
結構怪我を心配してくれているみたいだから、素直なのはそのせいかもしれない。……終わってからまとめて怒られないことを祈ろう。
「了解。……っと、ガルド!シェスター!」
短く返事をして少し離れた所で戦っている仲間たちに呼びかける。
2人が敵に対峙しつつも、こちらに意識を向けたことを確認して声を張り上げた。
「シェスター!戦闘から離脱してガルドとコルメナを護ることに専念して!ガルド!魔物の足止めと多分何匹か仕留め損ねるから後をお願い!逃げるなら追わなくていい!」
思い切り叫ぶと力の抜けかけた身体が傾く。
なんとか堪えて高い所から私を見下ろす魔王へ顔を向けた。
目が合っても彼の漆黒の瞳には相変わらずなんの感情も浮かばない。
懸命に魔物の群勢を押し返す仲間たちや怪我を負った私、全てをどうでも良さそうに眺め、そして見物に飽いたように戦場に背を向ける。
(ああ、そう……)
そっちがそのつもりなら好きにさせてもらうから。
聖剣を地面に突き立てる。彼を支えにすればギリギリ立っていられそうだ。
(ま、終わったらどうなるかわからないけど)
エクスが初めから提案してこなかった方法であることを考えると、かなり私に負荷がかかる魔法に違いない。
多分終われば立ってはいられないだろう。動けなくなったのが敵を半分近く蹴散らしたこのタイミングであったことは不幸中の幸いかもしれない。
なんとか身体が持つうちにと若干性急に魔力を込め始めると、耳元で小さくパチパチと音が弾けた。
徐々に大きくなっていくそれに合わせて、ぶわりと髪が靡く。顔にかかるそれが鬱陶しくて軽く頭を振った。
初めて使う魔法だけれど全くと言っていいほど失敗する気がしない。相変わらずエクスのサポートは完璧だ。
彼を通して私の魔力が膨れ上がっていくのがわかる。広がり続ける腕の痛みと胸が膨れ上がるような苦しさに飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ止めた。
金色に光る魔法陣が私たちを中心にして何重にも展開していく。
異変を感じた魔物たちがこちらへの警戒を強めるが、もう遅い。
最後の気力で唇を笑みの形に歪める。敵である彼らへの私なりの餞だ。
「我は神の代弁者に非ず。為ればこれは神の裁定に非ずってね。…………恨んでいいよ。“ジャッジメント”」
雷鳴が、ひとつ。
それを皮切りに次々と降り注ぐ意思を持った光の矢が大地を焼き尽くしていく。
急速に抜けていく力に、敵の様子を最後まで確認する余裕もなく膝をつけた。
エクスが増幅させてくれるとはいえ参照されるのは私の魔力だ。何が言いたいかというと、大技を使って魔力が尽きた。
詠唱と真逆のことを言う奴があるかとエクスが怒鳴っているが言い訳する気力もない。これでお説教は確定事項になってしまった。
(はぁー…しんっどい……特級魔法ひとつでこれか)
結構ショックだ。割と強くなっている自負もあったのに。
……でも旅はまだ中盤。
半分まで来てしまっているとはいえ、ここから物語の後半に向けて勇者は加速的に成長していく。
だから、今はこんな情けない姿を晒しても。
「……いつかは、必ず」
今度こそエクスでも支え切れなくなった身体が地へ向けて倒れる。
しかし結局私が地面にぶつかることはなかった。
会っていない間に随分と大きくなった、それでも忘れられるはずもない体温にじとりと視線を上げる。
「…………リオ」
「名を呼べ」
用件を伝える為に来ただけと言わんばかりの態度にちょっとイラッとしてはぐらかす。
「今呼んだじゃない?」
つんとすまして見せると今度はリオがムッとする番だった。
彼は端正な顔を歪めて余裕なさげに舌打ちする。
私にそんな態度取るなんて離れている間に生意気になったんじゃないの?何が魔王だ、偉そうにしちゃってまぁ。
腹が立つので出来るだけ冷たく言ってやることにした。
「もしかして貴方の真名のこと?だったら忘れちゃったから無理だよ」
夜色の瞳が大きく見開かれる。
世界で一番美しいそれに絶望が広がっていくのが見えて、背中を這うような愉悦が走った。
ああ、とても、とても綺麗だ。
彼の絶望の所以は命より大切な真名を捨てられたからではない。
(私が、死ぬことはないと思っていたのでしょう?)
真名を呼ばれた魔族は一方的に命を繋がれる。
奴隷ですら決して他人に渡さないそれは、呼べばコルメナのような能力がない魔族の魔力だったとしても使って傷を癒せるようになるし、相手を思い通りに動かすことも、殺すことだって簡単に出来るようになる。
なによりその持ち主は相手の魔族が先に死ぬまで、たとえ致命傷を負ったとしても死ぬことはない。
勇者と聖剣よりも深いつながり。
だから、私がどれだけ傷ついたとしても己の真名さえあればと安心していたのだろう。
(馬鹿なリオ)
動く方の指先で彼の冷たい頬をなぞる。
全く、なんでこんな泣き虫が魔王になんかなったんだか。
……リオにとって大切なものは私か、私たちの育った村くらいしかないのだから、何を言われたのかは大体想像がつくけど。
彼の名前を捨ててしまったと言ったのは嘘じゃない。
勇者に成り代わるために私は彼の真名を取引の材料にしたのだ。
『勇者に殺されるくらいなら、私がリオを殺す』
初めてエクスと対峙した私は、彼を強く見据えながら言った。
怒りを露わにする聖剣と対峙しているにも関わらず心は驚くほどに凪いでいて、不思議と彼が肯かないかもしれないなどとは微塵も疑っていなかった。
『それは嫌でしょう?』
私は目を逸らさずに続ける。
人間は構わない。魔王がいなくなるならば、それを殺すのが勇者だろうと小娘だろうと。
だけど聖剣は違うでしょう。
勇者を選び、魔王を倒すのが貴方の存在意義なのだから。
ならば、私に譲りなさい。勇者が座るはずのその席を。
創造主の意思に背いて、共犯になって。
遠い日に、あの子が永遠の誓いと共に渡してくれた彼の真名と引き換えにーー
「…ふ、ぁ……」
……眠い。
魔力を使い過ぎた反動で意識が遠くなってくる。
閉じようとする視界の奥でリオの顔が恐怖で歪むのが見えて、仕方なく安心させるように微笑んだ。
喪う怖さは私にもよくわかるから。
大丈夫。
物語は中盤。
まだ、勇者は死なない。
どれだけ歪んだとしてもそこは変わらないはずだ。
この茶番は勇者と魔王がいなければ進まないのだから。
(貴方が)
命をくれるというのなら、私は私の人生すべてをかけて。
いつか必ず魔王を倒し、その座から引き摺り下ろしてみせる。
貴方の生も、死も、私が決めたい。
私の側で、泣いて、苦しんで、笑ってほしいのだ。
勇者になんて奪わせない。
運命に逆らえなかったとしても、せめて私の手で。
そのためなら、きっと神だって欺いてみせるから。
だからどうか、私が行くまで待っていて。
今度こそ視界が暗転した。
痛みすら鈍くなって、ひとり世界から切り離されていくような感覚に囚われる。
(でも暗闇ってーーの瞳の色と似てて案外悪くないかも、なぁ……)
世界一美しいあの色と同じ。そう気付いてしまうと安堵から力が抜ける。
そのまま一気に深い眠りの淵に引き摺り込まれた私は、泣きそうに名を呼ぶ愛しい声だけを聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
徐々に近づいてくるそれは本隊と比べれば劣るが、それでも普通の人間ならとても4人で太刀打ちできる数ではない。
地形のお陰でこの程度の数で済んでよかったと喜べるかは微妙な感じだが、碌な支度金も渡さず後はダンジョンで手に入れてねと言わんばかりに放り出してくれた王国のことだ。どうせ相当な規模の戦いでないと援軍は出してくれないだろうし、下手に増えるよりはよかったのだろう。
昨日の忙しなさが嘘のように、仲間たちは頭の痛くなるような数の敵を前にしても落ち着いている。
(なんかくすぐったいなぁ……)
私たちの全員が歴戦の猛者というわけではない。
どれだけ個々の能力が高くとも戦場で足が竦めば命を落とす。経験という精神安定剤の少ない私たちは本来いつ誰が恐怖に囚われ崩れてもおかしくない状態だ。
それでもお互いを、己を、そして私を信頼してくれているから圧倒的に不利な状況でも彼らはずっと折れなかった。
それはずっと勇者へ向けた信頼だと思っていたけれど……私の正体を明かした後も揺らがない、むしろ奮い立つようですらあるその姿勢が少しだけ照れくさい。
「ティアさん」
敵の布陣を確認しながら聖剣の感触を確かめていると、コルメナの硬質な声がした。
眼のいい彼女はなにか厄介な見つけてしまったらしい。
僅かな動揺、逡巡の後。
続いた言葉に背中がぞわりと歓喜で泡立った。
「後方に魔王がいます」
魔王ーーリオ。私の幼馴染みがいる。
私の手の、届くところに。
何度か顔を合わせても尚、10年我慢させられた反動かいつも自然と顔が緩みそうになる。
(でも、まだ駄目だ)
逸る気持ちに手綱をつけて無理やり抑えつける。
彼と剣を交えるにはまだ勇者の力が足りない。
こちらから近づくことさえ難しいだろう。
どくどくと脈打つ鼓動がどれだけ急かしてもその資格がない以上、理不尽を恨むことさえ筋違いなのだ。
歯痒い気持ちを噛み潰し、代わりに仲間たちへ余裕たっぷりに笑って見せた。
「彼は手を出してこないよ。大丈夫だから、目の前の敵に集中しよう」
不吉な託宣のこともあるし、皆にはあまり動揺した状態でいて欲しくない。
今回の戦闘の支柱である私が精神的に揺らいではいけないと、出来るだけ落ち着いて聞こえるように声色を意識しながら檄を飛ばした。
それに実際、今日は心配で覗きに来た程度で彼に戦う気はさらさらないだろう。
(そう、大丈夫だ)
ひとりたりとも失ってたまるか。
全員が気持ちを切り替えたのを確認して聖剣を抜き放つ。
「さて。そろそろ行こうか。各自作戦通りにね。ガルド、しばらく2人を頼むよ」
近づいてきたガルドといつものように軽く拳を合わせる。
いつものようにシェスターと目を合わせ、いつものようにコルメナから加護を受け取った。
戦いの度に幾度となく繰り返してきた仲間たちとの儀式を終え、祈るようにエクスを握る手に力を込める。
息を深く吐き、大きく吸う。
もう一度吐き、吸い、地面を蹴った。
身体が軽い。
コルメナの付与した複数の加護に加え、風魔法での補助もある。
押し出されるようにスピードがどんどん上がっていく。
眼前には夥しい数の魔物。
遠くからではわからなかった明確な殺意を肌で感じながらも、積み重ねてきた経験と自信が身体を支え、むしろ速度は更に上がった。
魔物の大きく開いた口から伸びた牙が迫る。
あと数歩で衝突するその刹那。
「……っ!」
聖剣を支えに大きく上に跳ね上がる。
魔物たちの頭上を飛び越えながら空中で身体を反転させた。
短縮詠唱を小さく呟きながら着地と同時に剣を横に凪ぐと複数の魔物の身体が上下に分かれる。
風魔法を纏わせた斬撃が波状系に敵を切り裂いていくのに合わせて、開いたスペースに飛び込んだ。
切り裂いた身体から散る体液をコルメナの加護が弾くのを目視で確認する。今日も彼女の加護は万全だ。
体内に毒がある魔物もいるし、そうでなくとも目に入るだけで命取りになることもあるそれをほとんど気にせず戦えるのは大きい。
魔も聖も両極端な2つの力を扱える彼女は、その異質さ故に教会では冷遇されていたが、能力でいえば聖女達の誰より群を抜いて優秀である。
(本当、皆頼りになるよね)
個々の能力は歴代のどの英雄達にも劣らない。そしてなにより戦場においての価値観が合う。これ以上ないパーティーだ。
……強いて言うなら3人全員が人間嫌いなのが人間側の筆頭である勇者の仲間としては難点かもしれないが、まあ些細な問題だろう。
「……っと、そろそろ危ないかな」
数で押し潰される前に今度はシェスターの魔法で凍りついた一帯へ。
氷像になった魔物を叩き割りながら特に大きなひとつを足場にして作戦通りーーこの場で最も大きな魔物、トロールの頭目掛けて跳躍する。
頬を千切り取ろうとするような風の圧力を感じながら、聞こえてくるエクスの詠唱を叫ぶようになぞった。
「白銀に閉ざされろーー“フロスト”!!」
トロールは小さな山に例えられるほど大きく頑丈だが、エクスのコントロールがあれば身体の一部くらい短縮詠唱の中級魔法でも充分に骨まで凍らせられる。
そして普通の剣ならミミズ腫れ程度の傷1本をつけて折れるのが関の山だろうが、凍らせ、なおかつ聖剣を用いるとなれば先程の氷像とそう大差ない。
「はぁっ!」
凍った部分ーー首を、落とす。
瞬く間に命を刈り取られた巨体を後ろへ蹴り飛ばし、その反動を使って大きく放物線状に跳んだ。
その身体ができるだけ、多くの敵を巻き込むようにと狙いながら。
集団戦においてトロールのような巨人族は此方への威圧の象徴である反面、魔王軍にとっての旗印でもある。
……では、その旗が開戦後すぐに折られてしまえば?
どこからでも見える巨体が崩れ落ちる様は、軍全体に動揺を与えるだろう。士気が落ち、陣形が乱れる。そこに、つけ込む。
それが今回の作戦のひとつ。
数で圧倒的に不利な此方としてはできるだけ有利な条件を揃える必要があるのだ。
トロールのような比較的臆病で温厚な種族を最優先で手に掛けるのは躊躇う人が多いだろうが、少しでも仲間達が傷つく可能性を排除できるなら私は手段がどれだけ非情だろうと構うつもりはない。
自分が冷酷である自覚はある。
だが、私はそれを是としなければならない。
戦場において、良心や感傷、その他全てと仲間の命を天秤にかけたとして、私は一瞬たりとも迷うことなく仲間の命を選ぶ。選び続ける。
お互いを生かすためにその他の全てを踏み躙る。たとえ、自分の心でさえも。
それが私の、私たちの戦場で共有している価値観だ。
足元で魔法が発動する気配を感じて咄嗟に膝を畳む。
折った足の丁度すぐ下に、正確無比としか言いようのない精度で形作られた氷塊に内心感心しながらそれを足場にまた加速する。
勿論、氷塊を魔物の密集地に叩き落とすことも忘れない。
こちらの狙い通りに混乱した敵陣からは碌な攻撃もなく、私は悠々と自陣に着地ーーする前に抱き留められた。
風魔法で勢いを殺しているとはいえ、それなりの衝撃があったろうにガルドはびくともせず私を受け止める。
ぎゅうと抱きしめられながらなんとか周りを見渡すと、そこかしこに無残にも力任せに潰された魔物の亡骸が転がっていた。
(あー……)
大分心配をかけたみたいだぞ、これは。
一応彼の瞳を覗き込んでみるものの竜化の兆候は見られない。
つまり今彼は素面でこの状態。
そういえば私が先陣切るのも大反対だったしなー流石にそんなすぐやられないよ?ちょっと過保護では?
気持ちは嬉しいけれど、ここは戦線。恐らくこの魔物たちは先遣隊だが、いつ混乱が収まって本隊がきてもおかしくない。というか逆に混乱してるうちにこちらから攻め入ってしまいたい。
とんとん、と軽く腕を叩いて諫めるとガルドは仕方なさそうに腕を離してくれた。
「お前はもう少し……自分を大切にしろ」
「……?してるよ?」
痛いのも辛いのも嫌。
素直にそう思うし、出来る限りそういった思いをしないように頑張ってきたつもりだ。
私ほど自分に甘い人間もいないと思うけれど。
何を言われているのかと不思議な気持ちで首を傾げる私の頭を、ガルドは苦々しい顔で撫でた。
そして只でさえ乱れた私の髪を更にぐしゃぐしゃにした彼は、促すまでもなく戦場へ踵を返す。
「……俺たちの為なら簡単に投げ出してしまう癖に」
呟かれた言葉は、自分の持ち場に向かおうと彼とは反対側に歩き出した私の耳には届かなかった。
* * * * * * * * * *
「これくらいならなんとかなりそうじゃない?エクス?」
成り代わっても勇者は勇者。むしろ最近では歴代最強になるかもと聖剣からお褒めの言葉を賜る私だ。
私自身、そんじょそこらの勇者に劣る気はさらさらない。
リオをいつかあの魔族どもから奪い返すために、彼が魔王になる前から修行を積み重ねてきたのだ。生まれ持っての才能が劣ったって、その差を塗り替えられるくらいでなければリオに手が届かない。
それでも諦めるなんて選択肢を持つことすらできないなら、何年かかろうと進むしかなかったから。
お陰でまあぶっちゃけタイマンなら幹部くらいは今の段階でも倒せると思う。大抵罠とか毒とか盛られまくってこちらが不利な条件で戦うことになるんだけど!
(それにしても託宣はこの次の戦いのことだったんだろうか。数は圧倒的とはいえ、余程のアクシデントでもない限りはーー)
「っ!?」
突然エクスが私の身体を動かす。
咄嗟に彼に主導権を委ねると、身体が勝手に逆手で持った剣を思い切り後ろへ突き刺した。
そしてすぐに剣を引き抜くと同時に下へ転がる。
安全な場所へ退避した途端に自由の返ってきた手で、服についた土を軽く払った。
振り向けばすぐ側に人型の爬虫類のような魔物の骸。
「なんで?近くに魔物なんて」
隠れられるような所はほとんどない。そういう場所を選んだ。
こんなに近づかれるはずは……
「擬態か……!」
(……っ後衛の2人は……!?)
慌てて身体を反転させる。
振り返って見えたコルメナと魔物の姿に考えるより先に駆け出していた。
「コルメナ!!!」
腕を引き彼女の視界から魔物を遮るようにして庇う。
同時に右腕に燃えるような熱を感じ、遅れて吹き飛ばされたのだとわかった。
「ぐ…っぅ………」
叩きつけられた瞬間、耐え切れずに呻き声が口から溢れる。
痛みを堪えてなんとか腕の中の彼女へ目を向けると、衝撃で気絶してはいるものの外傷はなさそうだった。
岩に当たるギリギリでお互いの位置を入れ替えられたので、彼女は直接岩にぶつかってはいない。あったとしても酷い怪我はないはずだ。
ほっと息を吐いて小柄な身体を抱き締めているとエクスの呆れ返った声が聞こえてきた。
「無茶して悪かったって。……でも、死なせないって言ってるでしょ」
コルメナ、ガルド、シェスター。
人間でありながらその境遇故に闇に落ち、勇者の敵として死ぬはずだった私の仲間。
神の託宣に逆らって彼らを救ったときから、私の我儘に巻き込むと決めたときから、せめて死の運命からは守りきると誓った。
「皆が知らないからって誓いを違える気はないよ」
彼らを旅に引き込んだ時から覚悟自体はあったのだ。
シナリオから救ったって道中で死なせては意味がない。命を救う代わりに手を貸して貰うようなものなのだから、私にとってそれは当然の義務だった。
……けれど彼らと旅をするうちにいつしか義務だけではなくただ、ただ大切な存在だから守りたいと思うようにもなった。
その為なら勇者にでもなんでもなってやろう。ましてや腕一本くれてやるくらい躊躇うはずもない。
そう告げるとエクスはガルドに似た少し哀しそうな声でそうか、とだけ答えた。
周りに気配がないことを確認してから彼女をそっと地面に寝かせ、ふらふらと立ち上がる。
左手に剣を握り直して走りだすと、最小限の動きで攻撃を避けながら私とコルメナを吹き飛ばした魔物の首を落とす。
そのまま今度は盛大な溜息を吐いたエクスが私の身を翻させてもう1匹を斬り伏せた。
「ああ、でも流石に今はマズいか。手が動かないや」
最早だらりとぶら下がっているだけになってしまった右腕は、くっついてくれているだけマシとはいえエクスでも動かせそうにない。あと普通にすこぶる痛いので無理やり彼に補助してもらわないと多分身体全体の動きが鈍る。今だって意識しないと息さえ浅くなる始末だ。
コルメナはじきに目覚めるだろうが、その僅かなタイムラグで戦線が崩れてしまうことは想像に難くない。
「どうしたらいいと思う、相棒?」
小言を覚悟でエクスに訊ねると意外にもすぐに応えが返ってきた。
結構怪我を心配してくれているみたいだから、素直なのはそのせいかもしれない。……終わってからまとめて怒られないことを祈ろう。
「了解。……っと、ガルド!シェスター!」
短く返事をして少し離れた所で戦っている仲間たちに呼びかける。
2人が敵に対峙しつつも、こちらに意識を向けたことを確認して声を張り上げた。
「シェスター!戦闘から離脱してガルドとコルメナを護ることに専念して!ガルド!魔物の足止めと多分何匹か仕留め損ねるから後をお願い!逃げるなら追わなくていい!」
思い切り叫ぶと力の抜けかけた身体が傾く。
なんとか堪えて高い所から私を見下ろす魔王へ顔を向けた。
目が合っても彼の漆黒の瞳には相変わらずなんの感情も浮かばない。
懸命に魔物の群勢を押し返す仲間たちや怪我を負った私、全てをどうでも良さそうに眺め、そして見物に飽いたように戦場に背を向ける。
(ああ、そう……)
そっちがそのつもりなら好きにさせてもらうから。
聖剣を地面に突き立てる。彼を支えにすればギリギリ立っていられそうだ。
(ま、終わったらどうなるかわからないけど)
エクスが初めから提案してこなかった方法であることを考えると、かなり私に負荷がかかる魔法に違いない。
多分終われば立ってはいられないだろう。動けなくなったのが敵を半分近く蹴散らしたこのタイミングであったことは不幸中の幸いかもしれない。
なんとか身体が持つうちにと若干性急に魔力を込め始めると、耳元で小さくパチパチと音が弾けた。
徐々に大きくなっていくそれに合わせて、ぶわりと髪が靡く。顔にかかるそれが鬱陶しくて軽く頭を振った。
初めて使う魔法だけれど全くと言っていいほど失敗する気がしない。相変わらずエクスのサポートは完璧だ。
彼を通して私の魔力が膨れ上がっていくのがわかる。広がり続ける腕の痛みと胸が膨れ上がるような苦しさに飛びそうになる意識をなんとか繋ぎ止めた。
金色に光る魔法陣が私たちを中心にして何重にも展開していく。
異変を感じた魔物たちがこちらへの警戒を強めるが、もう遅い。
最後の気力で唇を笑みの形に歪める。敵である彼らへの私なりの餞だ。
「我は神の代弁者に非ず。為ればこれは神の裁定に非ずってね。…………恨んでいいよ。“ジャッジメント”」
雷鳴が、ひとつ。
それを皮切りに次々と降り注ぐ意思を持った光の矢が大地を焼き尽くしていく。
急速に抜けていく力に、敵の様子を最後まで確認する余裕もなく膝をつけた。
エクスが増幅させてくれるとはいえ参照されるのは私の魔力だ。何が言いたいかというと、大技を使って魔力が尽きた。
詠唱と真逆のことを言う奴があるかとエクスが怒鳴っているが言い訳する気力もない。これでお説教は確定事項になってしまった。
(はぁー…しんっどい……特級魔法ひとつでこれか)
結構ショックだ。割と強くなっている自負もあったのに。
……でも旅はまだ中盤。
半分まで来てしまっているとはいえ、ここから物語の後半に向けて勇者は加速的に成長していく。
だから、今はこんな情けない姿を晒しても。
「……いつかは、必ず」
今度こそエクスでも支え切れなくなった身体が地へ向けて倒れる。
しかし結局私が地面にぶつかることはなかった。
会っていない間に随分と大きくなった、それでも忘れられるはずもない体温にじとりと視線を上げる。
「…………リオ」
「名を呼べ」
用件を伝える為に来ただけと言わんばかりの態度にちょっとイラッとしてはぐらかす。
「今呼んだじゃない?」
つんとすまして見せると今度はリオがムッとする番だった。
彼は端正な顔を歪めて余裕なさげに舌打ちする。
私にそんな態度取るなんて離れている間に生意気になったんじゃないの?何が魔王だ、偉そうにしちゃってまぁ。
腹が立つので出来るだけ冷たく言ってやることにした。
「もしかして貴方の真名のこと?だったら忘れちゃったから無理だよ」
夜色の瞳が大きく見開かれる。
世界で一番美しいそれに絶望が広がっていくのが見えて、背中を這うような愉悦が走った。
ああ、とても、とても綺麗だ。
彼の絶望の所以は命より大切な真名を捨てられたからではない。
(私が、死ぬことはないと思っていたのでしょう?)
真名を呼ばれた魔族は一方的に命を繋がれる。
奴隷ですら決して他人に渡さないそれは、呼べばコルメナのような能力がない魔族の魔力だったとしても使って傷を癒せるようになるし、相手を思い通りに動かすことも、殺すことだって簡単に出来るようになる。
なによりその持ち主は相手の魔族が先に死ぬまで、たとえ致命傷を負ったとしても死ぬことはない。
勇者と聖剣よりも深いつながり。
だから、私がどれだけ傷ついたとしても己の真名さえあればと安心していたのだろう。
(馬鹿なリオ)
動く方の指先で彼の冷たい頬をなぞる。
全く、なんでこんな泣き虫が魔王になんかなったんだか。
……リオにとって大切なものは私か、私たちの育った村くらいしかないのだから、何を言われたのかは大体想像がつくけど。
彼の名前を捨ててしまったと言ったのは嘘じゃない。
勇者に成り代わるために私は彼の真名を取引の材料にしたのだ。
『勇者に殺されるくらいなら、私がリオを殺す』
初めてエクスと対峙した私は、彼を強く見据えながら言った。
怒りを露わにする聖剣と対峙しているにも関わらず心は驚くほどに凪いでいて、不思議と彼が肯かないかもしれないなどとは微塵も疑っていなかった。
『それは嫌でしょう?』
私は目を逸らさずに続ける。
人間は構わない。魔王がいなくなるならば、それを殺すのが勇者だろうと小娘だろうと。
だけど聖剣は違うでしょう。
勇者を選び、魔王を倒すのが貴方の存在意義なのだから。
ならば、私に譲りなさい。勇者が座るはずのその席を。
創造主の意思に背いて、共犯になって。
遠い日に、あの子が永遠の誓いと共に渡してくれた彼の真名と引き換えにーー
「…ふ、ぁ……」
……眠い。
魔力を使い過ぎた反動で意識が遠くなってくる。
閉じようとする視界の奥でリオの顔が恐怖で歪むのが見えて、仕方なく安心させるように微笑んだ。
喪う怖さは私にもよくわかるから。
大丈夫。
物語は中盤。
まだ、勇者は死なない。
どれだけ歪んだとしてもそこは変わらないはずだ。
この茶番は勇者と魔王がいなければ進まないのだから。
(貴方が)
命をくれるというのなら、私は私の人生すべてをかけて。
いつか必ず魔王を倒し、その座から引き摺り下ろしてみせる。
貴方の生も、死も、私が決めたい。
私の側で、泣いて、苦しんで、笑ってほしいのだ。
勇者になんて奪わせない。
運命に逆らえなかったとしても、せめて私の手で。
そのためなら、きっと神だって欺いてみせるから。
だからどうか、私が行くまで待っていて。
今度こそ視界が暗転した。
痛みすら鈍くなって、ひとり世界から切り離されていくような感覚に囚われる。
(でも暗闇ってーーの瞳の色と似てて案外悪くないかも、なぁ……)
世界一美しいあの色と同じ。そう気付いてしまうと安堵から力が抜ける。
そのまま一気に深い眠りの淵に引き摺り込まれた私は、泣きそうに名を呼ぶ愛しい声だけを聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
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