椎奈と霧子シリーズ

帆村仁

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ラーメン

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 試験が終わった。長い長い戦いだった。振り返ってみれば今回の私は善戦した。憎き理科・数学の両トップをなんとかいなした。他の科目はいつも通り。英語は特に点数が高いと踏んでいる。もしいい成績だったら父さんが本を買ってくれるというので、まあ二十冊くらいは買えるだろう。よし、楽しみだ。
  試験終了のチャイムとともに、クラス内の一種緊張した雰囲気は弛緩して、クラス全体が一気に和やかな雰囲気になる。友達同士で賑やかに今回の結果について話すもの、机に突っ伏すもの。私の友人も私の前の席で見事に突っ伏している。
 「おーい。大丈夫かあ?」
  私は友人に声をかける。しばらくして、重苦しい声で彼女が返事をした。
 「あまり大丈夫ではないかもしれぬ」
  そう言いながら、彼女は依然として机に突っ伏したままである。
  なるほど、先ほどの数学のテストがうまくいかなかったのだろう。確かに、今回のテストではなかなか意地の悪い問題が出ていたからな。私はなんとかくぐり抜けることに成功したと思うが。彼女は何か呻いている。
 「微分。微分お化けが出たんじゃ……」
  なにやら巷では微分お化けが出るらしい。くわばらくわばら。
  ホームルームが終わって帰宅となる。部活動に入っている人間は今日から活動再開らしいが、私も霧子も部には入っていないので、今日は真っ直ぐ帰宅の予定である。霧子はようやっと回復した様子で、荷物をまとめている。私はそんな彼女に声をかける。
 「回復したか?」
  彼女は私に振り返り、元気に答える。
 「うん。回復した!」
  そうか。よかったよかった。
 「と、いうことでラーメン食いに行こうぜ!」
  なぜ、そうなる。
 「おいおい。なんだってラーメンだよ。お前さっき落ち込んでいただろう」
 「うん。だから景気づけのためのラーメンだ」
 「金は?今月初めからピンチになるんじゃないか?」
  ちなみに、今日は三月上旬だ。
 「大丈夫。ラーメンの一杯くらいなんてことのない痛み」
 「痛いんじゃないか」
 「大丈夫だって。な?食べに行こう」
  なにやら潤んだ目で嘆願されてしまった。こいつのこういった部分に私は弱い。
 「仕方がないなあ。じゃあいいけど。どこのラーメン屋に行く?」
 「うーん。そうだな。こってり系にも行きたいけど、ちょっと最近太り気味なんだよねえ。だからちょっとその線はなしってことで」
 「なら単純に日之出屋でいいんじゃないか?」
 「そうだねえ。財布にも優しいし、あそこにしよっか」
  ということで私たちは中華料理店「日之出屋」に行くことにした。日之出屋は全国テェーン展開している中華飯店で、客層も高校生から中高年までと幅広く、入りやすい店だ。私もたまに定食を食べに出かけたりする。しかし今日は財布の紐をきつくしなければならない。給料日までまだあるのだ。
  玄関まで下りてきた。
  靴を履いて、外に出る。空を見上げると曇天が広がっていた。最近、なかなか晴れないでいる。母上なんかは「やあね。晴れないと洗濯物も乾かないし、なんとなく気分も沈みがちになってしまうじゃない」と言っていた。私も同感である。
 「いやあ、冷えるねえ」
  隣で霧子が白い息を吐きながら言う。今日は三月上旬。もう少しで春になるというのに、気温の方もなかなか上がらない。霧子は元来寒がりなので少し大変だろう。私は寒さに強いのでなんてことはないが。
 「椎奈。よくそんな格好で寒くないね」
 「うん。私はお前ほど寒がりではないからね」
  霧子はダッフルコートにマフラーを巻いて、おまけに手袋もしっかりはめている。完全防備だ。はたから見たらそこまでせんでもといったふうだが、それでも霧子にとっては重要なことなのだろう。以前も、
 「寒さと冷えは女の敵だ!」
  と言っていた。女の敵とまで言うのだから、相当憎んでいるのだろう。それにしては女らしさの無いやつだが。
 「雨降らないといいなあ」
  私は再び空を見て言った。どうも空が泣きそうな感じなのだ。
 「そうだねえ。でも大丈夫でしょ」
  霧子はあっけらかんと言う。こいつの脳天気さは筋金入りだ。
 「さて、行くか」
  私たちは学校を出た。
  日之出屋は駅前にある。そこまで約十五分間歩かなければならない。
  途中、私達は談笑しながら歩いた。霧子が今日の数学の出来について話している。
 「いやあ、今日の数学は私に対するいじめだよ。なんだってあんな問題出すかな。ねえ椎奈はできた?」
 「まあ、なんとかなったよ。結構難しかったのは認める」
 「だよねえ。なんだってまた――」
  霧子はよっぽど今回の出来が悪かったと予想しているのか、かなり落ち込み気味だ。今回のテストは学年末考査というもので、一年間のまとめのようなものだ。ゆえに出題範囲も幅広い。だからこそ生徒側もかなり準備して試験に臨むのだが、今回のテストは結構ハードルが高かった。特に数学が苦手な人間にとってはかなり意地悪な問題だったろう。
 「まあ、そんなに落ち込むなって。例え悪い結果だとしても赤点はないだろう?」
 「そりゃねえ。赤点なんてとった日にゃお父さんにどんなふうに怒られることやら」
 「留年しなければいいじゃないか。な、大丈夫だ」
 「そう言ってもらえるとありがたいよ。でもなあ。私、密かに推薦入学を狙っていたりするからね。成績が悪いとちょっと困るのだよ」
  そうだった。こいつは推薦入学を狙っていたのだ。そうなると、少しでも成績は良いに越したことはない。まして、霧子は部活動にも入っていないのだ。
 「推薦入試かあ。どうしてお前、推薦にしたんだ?」
 「うーん。うちって私が家事とかしないといけないじゃん?だからあんまり勉強する時間無いんだよね。なら質の高い勉強を効率的にすればとも考えたけど、そのためには塾に通うしかない。けどうちってあんまりお金ないからさ。だから塾にも通えないってことに。よって学校の勉強さえしっかりしていればいいということで推薦入試にしたんだ」
 「なるほどね。それでどこ狙いなんだ?」
 「横浜大学」
 「え。あの横大かよ」
  私は少し驚いた。横浜大学と言えば、有名な国立大学だ。そもそも我が学校に横浜大学の推薦枠などあったのかという疑問がわいてくるが、霧子が推薦を狙っているなら、おそらく存在するのだろう。
 「お前、結構高めを狙うのな」
 「まあね。でも結構無難な選択なんだよ。是非とも学費が安い国立大学に入りたいからね」
  ここで「じゃあ大学なんて入るのはやめてしまえば?」と言ったのなら、たぶん霧子は怒るだろう。こいつは数学こそ苦手だが、勉強が嫌いというわけではないのだ。こいつは古典が大好きで。大学でもその方面の勉強をしたいと言っていた。ゆえにこいつにとって大学に行くことは一つの大切な目標なのだろう。これといった目標の無い私のような人間にとっては眩しい存在である。
 「そんなわけで、私としては今回の一件、どうしても軽く考えることはできないのです」
 「なるほどな。でもさ。もうやるだけのことはやったんだからさ。後は潔く結果を受け入れるしかないんんじゃないか?」
 「そりゃそうだけどさあ。もし、最悪の結果だったらどうしよう。椎奈、その時は私のことを目一杯励ましておくれよ」
 「ああ。まあできる限り努力する」
 「ほんと?じゃあ、なんかおごってね」
 「それは断る」
 「うげー」
  なんだかんだ雑談しているうちに駅前近くの通りに出た。平日ということもあって人はまばらだ。私達は目的の日之出屋まで歩いて行く。しかし、途中で霧子が何か閃いたように立ち止まった。
 「ねえ。あの店昔からちょっと気になっていたんだけど」
  霧子は古ぼけた赤い看板を下げた中華料理屋を指してそう言っているらしい。その門構えたるや、なんか物々しい。古き良き昭和の中華屋と言ってしまえばそれまでだが。
 「やめとこうよ。もしまずかったらどうすんだよ」
 「うーん。やめとこうと言われると入りたくなってくる不思議」
  霧子はどうやらあの店のことが気になって仕方がないらしい。もう一度あの店の看板を確認すると、そこには「泰明軒」と書かれていた。なかなか渋い。私は少し怖じ気づいた。普段あまり個人経営の店に入ることのない私は、ああいった門構えの店を前にすると、どうしても躊躇してしまうのだ。そして結局入ることはぜず、通い慣れたチェーン店に入ってしまうのだ。なんと情けないことか。
 「よし。入ってみるか」
  私は意気込んで霧子に言った。いい機会だ。ちょっと冒険してみるのもいいかもしれない。
 「えーほんとうに?もしまずかったらおごってね」
  霧子が生意気にもそう言ってくる。
 「いいだろう。おごるさ。でもあんまりたくさん注文するなよ」
 「うい」
  私達は「泰明軒」に向かった。扉を開けるとき少し躊躇した。というのも客が全く入っていないのが確認できたからだ。私は勇気を出して扉を開けた。
  扉を開けると、天井に備え付けられていたテレビを主人と思われる初老の男性が眺めていた。その男性は物憂げにゆっくりとこちらを振り返ると「いらっしゃい」とけだるい声を出した。私は「しまった。やはり失敗か?」と思ったが、ここでめげるわけにはいかないと思い、適当なカウンター席を見つけると腰を下ろした。隣に霧子も座った。霧子は私の事を見て少しほくそ笑んだ気がした。
 「いいかんじだね」
  霧子がいけしゃしゃあと言ってきた。私は霧子のことを見返すと「あんま大きい声出すな」と釘を刺した。
 「なんで?いいじゃん。あ。あっちに漫画ある。こち亀かな」
  霧子は落ち着きが無い。しばらく本棚をあさっていると、霧子は嬉々とした表情でこちらに戻ってきた。
 「すげえ。十年前のジャンプがこんなに綺麗な状態で保存されてたよ!」
  霧子は嬉々とした表情で、なにやら感動している。十年前の雑誌がそんなにめずらしいか。私には分からない感覚を霧子は有しているようだった。
  おっと忘れていた。注文をしないといけない。
  私と霧子はメニューを探した。しかし卓上にメニューは存在しない。店内に張られている「お品書き」に目を通せということなのだろう。今時めずらしい。いや、これでこそ個人経営の店だ。
  私はチャーシュー麺。霧子は五目あんかけそばを頼んだ。主人は「あいよー」とこれまたけだるそうな声で応答した。
  霧子はジャンプをひたすら読んでいる。
 「そんなに面白いか?」
 「いやあ。感動。まさかるろ剣が雑誌媒体でもう一度読めるなんて思わなかった」
 「そうか。るろ剣か。なんとなく知っている」
 「えー! こんな名作をよく知らないなんて。椎奈人生損しているよ。読んだ方がいいよ。ほら。貸してあげる」
 「いや、いいよ」
 「なんだあ。つれないやつ」
  そんなこんなで霧子と待っていると、しばらくして注文の品がやってきた。
  私の前にはチャーシュー麺が。霧子の前には五目あんかけそばが。どちらも熱々で、湯気が立っている。
  さっそく私達はいただくことにした。
  まずは一口スープをすする。な、なんと。これはうまい。透き通ったスープの中には独特のコクがある。後をひく味だ。
  麺もすする。熱いので思わず「あふあふ」と言ってしまう。それがまたうまい。麺は今時なかなかお目にかかることのない細麺である。なぜか経験していない昔懐かしの味を思い出す私であった。
  隣の霧子も夢中で食べている。五目あんかけは見るからに熱そうで、見てるこっちがやけどしないかと心配になってくる。しかし霧子は必死で麺をすすっている。
  しばらくして私も霧子も食べ終えた。
 「ああ。うまかった」
 「そうだな。すげえうまかった」
  私は素直に感想を口にした。
 「正解だったじゃん。こっちにしといて」
 「だからお前は声が大きいんだよ」
 「いいじゃん。おじさん、おいしかったです」
  主人は霧子の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、厨房の中で何か作業に取り組んでいた。すると次の瞬間、外の方から大きな雷の音が聞こえた。私と霧子は顔を合わせた。
 「あららあ。雨降ってきてしまったかあ」
  外の様子を見ると、最初小雨だったのが、段々強さを増し、いよいよ本降りになった。
 「降ってきてしまったな」
  私達は傘を持っていない。どうするか。
 「とりあえず会計して、外に出よう。近くのコンビニにダッシュして、傘を買おう」
  そう言うと私は席を立った。
  霧子はジャンプを元に戻してレジのところにやってくる。
  私達は会計を済ませると主人に「ごちそうさまでした」と言い、店を出た。
  店を出ると思った以上に雨脚が強かった。これでは近くのコンビニに行くまでにずぶ濡れになってしまう。
  私達が途方に暮れていると、店の扉が開いて主人が顔を見せた。
 「ほら。これ使いな」
  見ると、主人の手の中には二本のビニール傘があった。
 「あの。本当にいいんですか?」
  私は主人に尋ねた。
 「いいよ。困ったときはお互い様だ」
  私と霧子は手を合わせて喜んだ。私達は主人から傘を受け取った。
  主人は「ちょっと待ってな」と言うと、店の中に入っていった。
  しばらくすると、今度はビニール袋を携えて、主人がやってきた。
 「ほら。これ。もってきな」
  ビニール袋の中にはプラスチックの容器が四つほど入っていた。中身はどうやら餃子だった。
 「え。私たち餃子頼んでいませんよ」
  と、あたり前のことを言ってしまった。そうだろう。これは主人の心遣い。つまりサービスというやつだ。
 「いいから。もってきな。二つずつ」
 「でも。こんなに。悪いですって」
 「いいんだ。久しぶりの客だし」
  私達は恐縮してそれを受け取った。
 「本当にありがとうございます。餃子もご馳走ございます」
 「ん」
  と言うと、主人は素早く店の中に入っていった。恥ずかしがり屋なのかもしれない。
  帰る道すがら、私たちは「泰明軒」のことについて話に花を咲かせていた。
 「いやあ。良い店だったね」
  と、霧子。
 「ほんとにな。餃子までもらっちまったし」
 「まじお買い得じゃん」
  お買い得というのは、なんだかニュアンスが違うが、それでも言いたいことは分かる。
  私たちはほくほくした気持ちでお互いの家に帰っていった。
  家に帰り、餃子を母上に渡すと「まあ、あの泰明軒に行ったの? あそこのご主人愛想なかったでしょう」と言われた。愛想はなかったけど良い店だったよ、と言うと「なら今度行ってみようかしら」と言っていた。
  餃子は我が家の食卓で大人気だった。一気に無くなってしまった。大半を弟の純が食べてしまった。
 「めちゃうまかった!」
  と、純は大きくふくれた腹をさすりながら言った。
 「そうか。今度泰明軒に行ったら、主人に言っておくよ」
 「ていうか、今度っていつ? 明日?」
  傘はいつ返すか決めていなかった。
  このやりとりを聞いていた父さんが口を出してきた。
 「なんだったら、明日にでも泰明軒に行こうか。父さんも久しぶりに行きたくなってしまった」
  それを聞いていた母上が父さんに言った。
 「その場合、そのお金はお父さんのポケットマネーから出るんでしょうね」
 「うげ。そうなるの?」
 「今月もう家計費は余裕無いわよ」
 「なら、仕方が無い。明日はなしで」
  それを聞いていた純が不満を漏らす。
 「えーやだやだ。俺、泰明軒行きたい! そんで大盛りラーメン食べたい!」
  純は豪語する。私は今日行ったからいいけど。
  三人の視線が父さんに注ぎ込まれる。
  父さんが観念したように言った。
 「仕方が無い。お父さんの小遣いで食べよう」
  うなだれる父さんを横目に私たちは喜んだ。
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