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一章 始まりの季節
赤い笑顔
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さとるの母親の生家は海の見える街にあった。
俺はレンタカーの傍で海を眺めながらたばこを吸っている。車内は禁煙らしい。サラはたばこの煙が苦手だ。
犯人は捕まえることができなかった。だからせめて、さとるのもうひとつの願い。母親に会いたいという願いは叶えてやりたくて、俺たちは遠路はるばる伊豆の街までレンタカーを借りてやってきたのである。さとるの母親がどこにいるかということはサラの水晶玉を使って調べた。やはり予想していたとおり、さとるの母親は実家に帰っていた。正直言えば、貧乏な俺たちにとってレンタカーを借りて、この街までくることは相当の痛手だったのだが、仕方がない。車の窓が開いて、サングラスをかけたサラが俺に声をかけた。
「優。そろそろ行くわよ」
「おう」
しばらく車を走らせると目的地にたどり着いた。緑色の屋根の家。表札には「佐々木」の文字。ここだ。
「ここに間違いないな。さとる」
「うん。おばあちゃんの家だよ」
さて、目的地に着いたのはいいもののこれからどうするかは考えていなかった。どうやって中に入れてもらうか。いや、さとるだけ行かせるか。
「それはだめよ。もしさとるくんが成仏しちゃったときに私がそばにいなかったら、魔素を収集できないじゃない」
そうなのか。しかし、どうやって…。
「考えていても仕方ないわ。行くわよ優。さとるくん」
「え…」
サラはさっさと行ってしまった。おいおい、どうするつもりだ。俺とさとるは仕方なくサラの後をついて行った。
サラがインターホンを押した、しばらくして女性の声が聞こえてきた。
「はい」
サラが応答する。
「こんにちは。私さとるくんの友達の鷲崎という者ですが、さとるくんに借りていたゲームを返したくてこちらに参りました」
なんだって。俺は小声でサラに言う。
「おいおい。ゲームなんて持ってきたのか?」
「持ってきたわ。クリア済みのゲームをね」
「おい。買ったのか」
「買ったわ。ネットで」
おいおい。勝手に買ってんじゃねーよ。
インターホンの声の主はなにか考えているようだったが、しばらくして、
「わかりました。少々お待ちください」
という声が返ってきた。
玄関から顔を出したのはやさしそうな女性だった。
「おばあちゃんだ!」
さとるが声をあげた。俺もあいさつをしなくては。
「どうも、こんにちは。鷲崎です」
「こんにちは。さとるの祖母の佐々木早苗です」
さとるの祖母は優しく微笑んだ。俺とサラという怪しい人間がいるというのに、優しく微笑んだ。目元がさとるに似ているな。
「あら…驚いた…」
早苗さんが口をおさえて言った。早苗さんはさとるの方を見ている。まさか。
「さとる…さとるもいるのね」
俺とサラは顔を見合わせて驚いた。
俺たちは早苗さんの家、つまりさとるの母親の実家に上がらせてもらった。
早苗さんにはかすかにさとるの存在が感じ取れるらしい。俺たちはさとるの墓前に線香をあげると、居間でお茶を出してもらった。さとるが実際にそばにいるのに、線香をあげるというのは少し違和感を覚えた。
「突然やってきて申し訳ありません」
俺は早苗さんに頭を下げる。サラもフードを被ったままだが、頭を下げた。早苗さんも頭を下げる。
「さとるがお世話になったようで。こちらこそありがとうございます」
「いえいえ。さとるくんのことが見えるなんて思いませんでした」
「私も少しだけど霊感あるのよ」
ほほほ。と朗らかに早苗さんは微笑む。続いてさとるの方を優しく見る。暖かい眼差しだ。
「姿はなんとなく感じ取れるんだけど、声は聞こえないのよねえ。残念だわ」
近くにいるのに声は聞こえない。それはどういった感情をもたらすのか。俺にはわからない。
さとるはにこにこと笑っている。二人のことを見ていたサラが口を開いた。
「さとるくんのお母さんはどこに?」
こいつはいつも単刀直入すぎる。
「美香ね……。あ、美香ってこの子の母親の名前だけど、たぶん海を見に行ってる」
「海ですか」
「こっちに帰ってきてから、しばらくは塞ぎ込んでてね。でもある日から外に出るようになったのよ。それでどこに行ってきたの?って聞いたら、海って。それから毎日海を見に行ってるみたいなのよねえ」
居間には西日が差し込んでいた。もう夕方か。時計を見ると四時をまわっていた。俺は出された菓子には手を出さないでいたが、サラはばりばりとせんべいをかじっている。図々しい。相変わらず図々しい。
「海、行きましょっか」
早苗さんが唐突に言った。
俺たちは海岸を歩いた。
夕日が眩しい。俺もサングラスが欲しい。
歩いている最中、早苗さんはさとるや美香さんのことを色々と話してくれた。
二人が好きな食べ物のこと。二人が好きな映画のこと。二人がどんなことで喧嘩をしたのか。どんなことで喜びあったのか。
それを話す早苗さんの笑顔は、慈愛に満ちていた。
早苗さんも二人と時間を共有している人間だったんだ。それが一つ、欠けた。
それを何かで埋めることは可能なのか。可能だとすれば何なのか。
しばらく歩くと、一人の女性の姿が俺たちの目の前に現れた。
「おかあさん!」
さとるが彼女のもとに駆け寄った。さとるは無邪気の母親の周りを走り回っている。その姿を見て、早苗さんは目を細めていた。俺も複雑な気分になる。
俺たちは美佳さんに軽く自己紹介をした。さとるの友達だと。それは半分うそで、半分本当だ。
サラが美香さんにゲームを手渡した。
「これ、さとるくんが好きだったゲームです。お返しします」
正確には俺の金でサラが買ったものだが。
サラから手渡されたゲームをじっと見つめて、美佳さんはため息をひとつついた。
「そうよね。あの子ゲームばっかやってた。宿題そっちのけで」
それは親としては心配なことだったろう。俺も小さい頃は学校が終わると遊びまわってばかりいたから、よく母親に怒鳴られていたっけ。
「でもゲームだけあってもね」
「さとるくんもいますよ」
サラが真実を口にした。美香さんはなにも言わずゲームを見つめている。
「さとるくんはあなたのそばにいます」
「サラさん。あなた優しいのね」
美佳さんはサラに優しく微笑んだ。しかしその微笑みには何か冷たい感情が付与されている気がした。
美香さんの長い髪が風に遊ばれて、たなびく。
さとるはそんな母親の横顔をじっと見ている。
「でも、さとるはいないわ」
真実はこの人の目に映らないのか。早苗さんはなにも言わない。
「私は生きている。あの子は死んだのに」
美佳さんはつぶやくように言った。あまりに小さい声なので、潮騒の音にかき消される。しかし、かろうじて聞き取ることができた。
美佳さんの望むことは何なのだろう。さとるという一人の子供を失って、残された美香さんが望むこととは。
「美香さん。あなたの望むことはなんですか?」
サラが俺の疑問を代弁してくれた。もしかしてサラには俺の心の中が見えているのではないかと思った。たぶん気のせいだろうが。
美香さんはゲームに注がれてた目線を上げ、海を眺めた。
しばらく美香さんと俺たちは海を見た。
沈みかけようとしている太陽が、地平線の付近で赤く輝いている。
唐突に美香さんが口を開いた。
「犯人の顔が見たい」
俺の脳裏に米倉蒼梧の笑顔が浮かんだ。つい最近までは同僚だった大学生。俺の知っているあいつは本当はどんなやつだったんだろう。
「そしてこの手で切り刻んでやりたい。殺したい。この手で」
美香さんの横顔が夕日に照らされている。俺はそれを見て心底美しいと思った。不謹慎かとも思ったが、率直な俺の感想は「この人は綺麗だ」というものだった。
「でもね本当に殺したいのは私。私自身なのよ。なにも取り戻すこともできないからっぽの私自信なのよ」
からっぽの自分自身。俺は自分自身のことを言われている気がした。
俺もからっぽだった。
「もう戻ってこないの。私がどんなに必死に生きても、あの子の笑顔は。もうあの笑顔に会うことは私にはできない。私の宝物はもう二度と戻らない。だから」
小さくなる美香さんの声がときおり波音にかき消される。
「だから殺してやりたいのよ。さとるを守れなかった私を」
美香さんの目に光るものをとらえた。
「さとるくんは、それを望んでいない」
サラがサングラスを外して美香さんに言った。
「あなたに何がわかるっていうの…あなたに何が!」
美香さんが声を荒げる。
サラは真正面から美香さんの声を受け止める。
「私の、さとるの、何が。奪われたものが。なにがわかるっていうの?」
嘆きを、海の波音がさらっていく。
サラはただそれを受け止める。
美香さんは泣き崩れてしまった。それを、誰も支えることはなかった。さとる以外は。
しばらく俺たちは美香さんのそんな姿をただじっと眺めていた。
「さとるくんが望むものは、今ここにはないわね」
サラがあっさりと言う。非情。俺は苛立ちを覚えた。
「おい!」
俺の手がサラの肩を強く握る。サラの細い肩を触ったのはそれが初めてだった。
鋭い眼光のサラと目が合う。俺は何も言うことができなかった。
サラの目元に光るものがあった。俺の腕をそっと握りかえし、俺の手を自分の肩から外す。
「さとるくんが望むものは美香さんの笑顔。今ここにそれはない」
サラは俺にだけ言っている。笑顔。今の美香さんにとって一番縁遠いものかもしれない。
「美香さん。あなたの宝物はもうあなたの目の前に姿を現さないかもしれない。けど、さとるくんが望むものはあなたの生きる人生のその中にきっとあります」
サラの言葉に美香さんは何も言わない。情けないことに、俺は何も言えずにただ佇んでいることしかできなかった。
美香さんはサラから手渡されたゲームをぎゅっと胸に抱きしめていた。
「美香のことは大丈夫だから、さ、あなたたちは行って」
早苗さんはそう言うと、美香さんに寄り添った。さとるの反対側に。
ああ、この人は孫を失っただけではない。
娘の本当の笑顔も失ってしまったんだな。
俺たちは無言で海岸沿いを歩いた。しかし、しばらくしてサラが立ち止まった。
無言で海を見つめるサラを見て、俺も無言で海を見つめた。
「人の死っていうのはさ」
サラが口を開いた。俺は無言でそれに耳を傾ける。
「意外とあっけなく訪れることもあるものなのよね。周りの人間にとっても、自身にとっても」
「ああ」
「でも、その事実は永遠に残り続ける」
「うん」
「生まれてきたものの宿命ね」
「うん」
「残酷よね」
俺は何も答えなかった。
サラには何か思うところがあるのだろうか。
俺は何も聞かなかった。
夕日が沈みかけていた。赤すぎるほど赤い夕焼け。それが照らす浜辺もまた赤かった。
目が痛い。俺は夕日から目を背けるように赤い海岸に目をやった。
すると向こうから人影が近寄ってくるのが確認できた。あれは――さとるだ。
さとるが向こうから駆けてきた。肩で息をするさとる。死んだっていうのに息は弾むのか。とるは俺たち二人を見てニコニコしている。その顔を西日が照らす。
それを見て、俺は「ああ、幽霊って夕日に照らされるものなのか」と、どうでもいいようななことを考えた。さとるに向かってサラが言う。
「さとるくん、君はお母さんのことを見守りに来たのね」
さとるはサラの顔を見つめている。だんだんと息が整ってきた。
「最初から、そのつもりだった。そのために私たちを動かした」
さとるはじっとサラのことを見つめていたが、一度だけ静かにこくりと頷いた。
「ごめんね」
驚いた。さとる、お前ってやつは。随分と、聡いやつじゃないか。
「さとるってどういう漢字を書くのか知ってる?賢いっていう意味の感じで書くんだよ」
さとるはそう言うと、にかっと笑った。
「なるほど、さとるのさとるは、聡か。合点がいった」
「優。どんな漢字なの」
サラが俺のことを肘で小突く。俺は空中に「聡」という字を書いたが、サラにはうまく伝わらなかったようだ。
「どんな漢字なのよ」
サラは口を尖らせていた。それを見て俺と聡は笑った。
夕日に照らされた聡の笑顔は、美香さんの横顔と同じくらい綺麗だった。
「仕方ない。許す!」
サラが腕を組んで聡に言った。
「許すってなんだよ」
「さとるくんがもう少しこの世にいることを」
今度は腕を腰に胸を張って言った。おいおい。
「お前が許すことか。お前は神か仏か。だいたいこの日本には四十五日っていうのがあってだな」
「なによそれ。シジューゴニチ?」
「お前、日本のこと、勉強してきたんじゃないのかよ」
さとるが俺たちのやりとりを見てくすくすと笑う。
気づいてみれば、さとるはよく笑うようになっていた。
美香さんの宝物を俺たちは眺めていた。
それを見て、俺たちも笑った。
「まったくうまくしてやられたな」
帰りの車中で俺は言った。
「あの子の魂胆には実は薄々気づいてた。まだ成仏する気がないことも」
サラはサングラスをかけたままだ。もうあたりはすっかり暗くなったというのに。
「魔力の方は大丈夫なのか」
俺は野暮ったい質問をサラにした。
「ま、人生、悲喜交々ってね」
サラは難しい日本語を得意げに使った。
俺はそんなサラを横目で見て笑った。
「なによ」
「いや」
人生、悲喜交々か。
俺はレンタカーのハンドルを得意げに回す。
人生ほどではないが。
人生、悲喜交々か。
まったく厄介なことだ。
俺はレンタカーの傍で海を眺めながらたばこを吸っている。車内は禁煙らしい。サラはたばこの煙が苦手だ。
犯人は捕まえることができなかった。だからせめて、さとるのもうひとつの願い。母親に会いたいという願いは叶えてやりたくて、俺たちは遠路はるばる伊豆の街までレンタカーを借りてやってきたのである。さとるの母親がどこにいるかということはサラの水晶玉を使って調べた。やはり予想していたとおり、さとるの母親は実家に帰っていた。正直言えば、貧乏な俺たちにとってレンタカーを借りて、この街までくることは相当の痛手だったのだが、仕方がない。車の窓が開いて、サングラスをかけたサラが俺に声をかけた。
「優。そろそろ行くわよ」
「おう」
しばらく車を走らせると目的地にたどり着いた。緑色の屋根の家。表札には「佐々木」の文字。ここだ。
「ここに間違いないな。さとる」
「うん。おばあちゃんの家だよ」
さて、目的地に着いたのはいいもののこれからどうするかは考えていなかった。どうやって中に入れてもらうか。いや、さとるだけ行かせるか。
「それはだめよ。もしさとるくんが成仏しちゃったときに私がそばにいなかったら、魔素を収集できないじゃない」
そうなのか。しかし、どうやって…。
「考えていても仕方ないわ。行くわよ優。さとるくん」
「え…」
サラはさっさと行ってしまった。おいおい、どうするつもりだ。俺とさとるは仕方なくサラの後をついて行った。
サラがインターホンを押した、しばらくして女性の声が聞こえてきた。
「はい」
サラが応答する。
「こんにちは。私さとるくんの友達の鷲崎という者ですが、さとるくんに借りていたゲームを返したくてこちらに参りました」
なんだって。俺は小声でサラに言う。
「おいおい。ゲームなんて持ってきたのか?」
「持ってきたわ。クリア済みのゲームをね」
「おい。買ったのか」
「買ったわ。ネットで」
おいおい。勝手に買ってんじゃねーよ。
インターホンの声の主はなにか考えているようだったが、しばらくして、
「わかりました。少々お待ちください」
という声が返ってきた。
玄関から顔を出したのはやさしそうな女性だった。
「おばあちゃんだ!」
さとるが声をあげた。俺もあいさつをしなくては。
「どうも、こんにちは。鷲崎です」
「こんにちは。さとるの祖母の佐々木早苗です」
さとるの祖母は優しく微笑んだ。俺とサラという怪しい人間がいるというのに、優しく微笑んだ。目元がさとるに似ているな。
「あら…驚いた…」
早苗さんが口をおさえて言った。早苗さんはさとるの方を見ている。まさか。
「さとる…さとるもいるのね」
俺とサラは顔を見合わせて驚いた。
俺たちは早苗さんの家、つまりさとるの母親の実家に上がらせてもらった。
早苗さんにはかすかにさとるの存在が感じ取れるらしい。俺たちはさとるの墓前に線香をあげると、居間でお茶を出してもらった。さとるが実際にそばにいるのに、線香をあげるというのは少し違和感を覚えた。
「突然やってきて申し訳ありません」
俺は早苗さんに頭を下げる。サラもフードを被ったままだが、頭を下げた。早苗さんも頭を下げる。
「さとるがお世話になったようで。こちらこそありがとうございます」
「いえいえ。さとるくんのことが見えるなんて思いませんでした」
「私も少しだけど霊感あるのよ」
ほほほ。と朗らかに早苗さんは微笑む。続いてさとるの方を優しく見る。暖かい眼差しだ。
「姿はなんとなく感じ取れるんだけど、声は聞こえないのよねえ。残念だわ」
近くにいるのに声は聞こえない。それはどういった感情をもたらすのか。俺にはわからない。
さとるはにこにこと笑っている。二人のことを見ていたサラが口を開いた。
「さとるくんのお母さんはどこに?」
こいつはいつも単刀直入すぎる。
「美香ね……。あ、美香ってこの子の母親の名前だけど、たぶん海を見に行ってる」
「海ですか」
「こっちに帰ってきてから、しばらくは塞ぎ込んでてね。でもある日から外に出るようになったのよ。それでどこに行ってきたの?って聞いたら、海って。それから毎日海を見に行ってるみたいなのよねえ」
居間には西日が差し込んでいた。もう夕方か。時計を見ると四時をまわっていた。俺は出された菓子には手を出さないでいたが、サラはばりばりとせんべいをかじっている。図々しい。相変わらず図々しい。
「海、行きましょっか」
早苗さんが唐突に言った。
俺たちは海岸を歩いた。
夕日が眩しい。俺もサングラスが欲しい。
歩いている最中、早苗さんはさとるや美香さんのことを色々と話してくれた。
二人が好きな食べ物のこと。二人が好きな映画のこと。二人がどんなことで喧嘩をしたのか。どんなことで喜びあったのか。
それを話す早苗さんの笑顔は、慈愛に満ちていた。
早苗さんも二人と時間を共有している人間だったんだ。それが一つ、欠けた。
それを何かで埋めることは可能なのか。可能だとすれば何なのか。
しばらく歩くと、一人の女性の姿が俺たちの目の前に現れた。
「おかあさん!」
さとるが彼女のもとに駆け寄った。さとるは無邪気の母親の周りを走り回っている。その姿を見て、早苗さんは目を細めていた。俺も複雑な気分になる。
俺たちは美佳さんに軽く自己紹介をした。さとるの友達だと。それは半分うそで、半分本当だ。
サラが美香さんにゲームを手渡した。
「これ、さとるくんが好きだったゲームです。お返しします」
正確には俺の金でサラが買ったものだが。
サラから手渡されたゲームをじっと見つめて、美佳さんはため息をひとつついた。
「そうよね。あの子ゲームばっかやってた。宿題そっちのけで」
それは親としては心配なことだったろう。俺も小さい頃は学校が終わると遊びまわってばかりいたから、よく母親に怒鳴られていたっけ。
「でもゲームだけあってもね」
「さとるくんもいますよ」
サラが真実を口にした。美香さんはなにも言わずゲームを見つめている。
「さとるくんはあなたのそばにいます」
「サラさん。あなた優しいのね」
美佳さんはサラに優しく微笑んだ。しかしその微笑みには何か冷たい感情が付与されている気がした。
美香さんの長い髪が風に遊ばれて、たなびく。
さとるはそんな母親の横顔をじっと見ている。
「でも、さとるはいないわ」
真実はこの人の目に映らないのか。早苗さんはなにも言わない。
「私は生きている。あの子は死んだのに」
美佳さんはつぶやくように言った。あまりに小さい声なので、潮騒の音にかき消される。しかし、かろうじて聞き取ることができた。
美佳さんの望むことは何なのだろう。さとるという一人の子供を失って、残された美香さんが望むこととは。
「美香さん。あなたの望むことはなんですか?」
サラが俺の疑問を代弁してくれた。もしかしてサラには俺の心の中が見えているのではないかと思った。たぶん気のせいだろうが。
美香さんはゲームに注がれてた目線を上げ、海を眺めた。
しばらく美香さんと俺たちは海を見た。
沈みかけようとしている太陽が、地平線の付近で赤く輝いている。
唐突に美香さんが口を開いた。
「犯人の顔が見たい」
俺の脳裏に米倉蒼梧の笑顔が浮かんだ。つい最近までは同僚だった大学生。俺の知っているあいつは本当はどんなやつだったんだろう。
「そしてこの手で切り刻んでやりたい。殺したい。この手で」
美香さんの横顔が夕日に照らされている。俺はそれを見て心底美しいと思った。不謹慎かとも思ったが、率直な俺の感想は「この人は綺麗だ」というものだった。
「でもね本当に殺したいのは私。私自身なのよ。なにも取り戻すこともできないからっぽの私自信なのよ」
からっぽの自分自身。俺は自分自身のことを言われている気がした。
俺もからっぽだった。
「もう戻ってこないの。私がどんなに必死に生きても、あの子の笑顔は。もうあの笑顔に会うことは私にはできない。私の宝物はもう二度と戻らない。だから」
小さくなる美香さんの声がときおり波音にかき消される。
「だから殺してやりたいのよ。さとるを守れなかった私を」
美香さんの目に光るものをとらえた。
「さとるくんは、それを望んでいない」
サラがサングラスを外して美香さんに言った。
「あなたに何がわかるっていうの…あなたに何が!」
美香さんが声を荒げる。
サラは真正面から美香さんの声を受け止める。
「私の、さとるの、何が。奪われたものが。なにがわかるっていうの?」
嘆きを、海の波音がさらっていく。
サラはただそれを受け止める。
美香さんは泣き崩れてしまった。それを、誰も支えることはなかった。さとる以外は。
しばらく俺たちは美香さんのそんな姿をただじっと眺めていた。
「さとるくんが望むものは、今ここにはないわね」
サラがあっさりと言う。非情。俺は苛立ちを覚えた。
「おい!」
俺の手がサラの肩を強く握る。サラの細い肩を触ったのはそれが初めてだった。
鋭い眼光のサラと目が合う。俺は何も言うことができなかった。
サラの目元に光るものがあった。俺の腕をそっと握りかえし、俺の手を自分の肩から外す。
「さとるくんが望むものは美香さんの笑顔。今ここにそれはない」
サラは俺にだけ言っている。笑顔。今の美香さんにとって一番縁遠いものかもしれない。
「美香さん。あなたの宝物はもうあなたの目の前に姿を現さないかもしれない。けど、さとるくんが望むものはあなたの生きる人生のその中にきっとあります」
サラの言葉に美香さんは何も言わない。情けないことに、俺は何も言えずにただ佇んでいることしかできなかった。
美香さんはサラから手渡されたゲームをぎゅっと胸に抱きしめていた。
「美香のことは大丈夫だから、さ、あなたたちは行って」
早苗さんはそう言うと、美香さんに寄り添った。さとるの反対側に。
ああ、この人は孫を失っただけではない。
娘の本当の笑顔も失ってしまったんだな。
俺たちは無言で海岸沿いを歩いた。しかし、しばらくしてサラが立ち止まった。
無言で海を見つめるサラを見て、俺も無言で海を見つめた。
「人の死っていうのはさ」
サラが口を開いた。俺は無言でそれに耳を傾ける。
「意外とあっけなく訪れることもあるものなのよね。周りの人間にとっても、自身にとっても」
「ああ」
「でも、その事実は永遠に残り続ける」
「うん」
「生まれてきたものの宿命ね」
「うん」
「残酷よね」
俺は何も答えなかった。
サラには何か思うところがあるのだろうか。
俺は何も聞かなかった。
夕日が沈みかけていた。赤すぎるほど赤い夕焼け。それが照らす浜辺もまた赤かった。
目が痛い。俺は夕日から目を背けるように赤い海岸に目をやった。
すると向こうから人影が近寄ってくるのが確認できた。あれは――さとるだ。
さとるが向こうから駆けてきた。肩で息をするさとる。死んだっていうのに息は弾むのか。とるは俺たち二人を見てニコニコしている。その顔を西日が照らす。
それを見て、俺は「ああ、幽霊って夕日に照らされるものなのか」と、どうでもいいようななことを考えた。さとるに向かってサラが言う。
「さとるくん、君はお母さんのことを見守りに来たのね」
さとるはサラの顔を見つめている。だんだんと息が整ってきた。
「最初から、そのつもりだった。そのために私たちを動かした」
さとるはじっとサラのことを見つめていたが、一度だけ静かにこくりと頷いた。
「ごめんね」
驚いた。さとる、お前ってやつは。随分と、聡いやつじゃないか。
「さとるってどういう漢字を書くのか知ってる?賢いっていう意味の感じで書くんだよ」
さとるはそう言うと、にかっと笑った。
「なるほど、さとるのさとるは、聡か。合点がいった」
「優。どんな漢字なの」
サラが俺のことを肘で小突く。俺は空中に「聡」という字を書いたが、サラにはうまく伝わらなかったようだ。
「どんな漢字なのよ」
サラは口を尖らせていた。それを見て俺と聡は笑った。
夕日に照らされた聡の笑顔は、美香さんの横顔と同じくらい綺麗だった。
「仕方ない。許す!」
サラが腕を組んで聡に言った。
「許すってなんだよ」
「さとるくんがもう少しこの世にいることを」
今度は腕を腰に胸を張って言った。おいおい。
「お前が許すことか。お前は神か仏か。だいたいこの日本には四十五日っていうのがあってだな」
「なによそれ。シジューゴニチ?」
「お前、日本のこと、勉強してきたんじゃないのかよ」
さとるが俺たちのやりとりを見てくすくすと笑う。
気づいてみれば、さとるはよく笑うようになっていた。
美香さんの宝物を俺たちは眺めていた。
それを見て、俺たちも笑った。
「まったくうまくしてやられたな」
帰りの車中で俺は言った。
「あの子の魂胆には実は薄々気づいてた。まだ成仏する気がないことも」
サラはサングラスをかけたままだ。もうあたりはすっかり暗くなったというのに。
「魔力の方は大丈夫なのか」
俺は野暮ったい質問をサラにした。
「ま、人生、悲喜交々ってね」
サラは難しい日本語を得意げに使った。
俺はそんなサラを横目で見て笑った。
「なによ」
「いや」
人生、悲喜交々か。
俺はレンタカーのハンドルを得意げに回す。
人生ほどではないが。
人生、悲喜交々か。
まったく厄介なことだ。
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