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Cantabile-そして色鮮やかに
004
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「おぉー、思ったよりご立派な家じゃないですか……」
見学日、十九時の十分前に到着した麻衣は自宅兼教室である理一の家の前で間抜けにも口を開けていた。
住宅街の一角なのだが、周りの家の二倍の大きさはあった。二階建ての洋館で、ヨーロッパからここだけ切り出して日本に置きました。と言った具合だ。
そんな素敵な洋館に、なんともそぐわない看板が出ている。
≪高科理一ピアノ教室≫
さて、『理一』はサトカズなのかリイチなのかと首を傾げつつ、もう一度洋館を見上げた。
「レッスン終わったのかね?音がしないや……」
ワンレッスン五十分と言うことなので終わりの時間ではあるのだが、家の中、まだレッスンは続いている。理一は集中すると時間を忘れがちなのだ。
音がしないのは、この家の防音が完璧に為されているからだった。
「あの~……」
ぼんやりと玄関ポーチの前に佇む麻衣の背中に声が掛かった。振り返ると、可愛らしい服装の清楚な少女が立っている。
「もしかして、今日見学に来たって人ですか?」
「あ、はい」
小首を傾げる仕草も愛らしい。きちんと女の子をしている姿に、ジーパンにワイシャツという姿でのんびり歩いて来ていた麻衣は恐縮してしまう。
「先生から聞いてます。わざわざお電話貰って……。先生って、ほっとくとレッスン時間延びちゃうから中に入らないと気付いて貰えませんよ」
勝手知ったる他人の家とばかりに、少女は玄関を開ける。すると、やや拙いピアノの音色が聴こえ麻衣はこの家の防音性にまたも一度閉じた口を開いた。個人で教室を開いている講師の中には玄関の鍵をかけない者もままいるので、そこには特に驚きはせず、麻衣は少女に促されて家の中に入った。
「せんせー、交替の時間です!」
少女の声に、理一がはっと顔を上げた。
「あぁ、すいません浩二君、亜矢さん」
「やぁーっと気付いてくれたー!んじゃ、俺帰りまーす!」
中学生の浩二はさっさと楽譜を鞄に仕舞うと、ちらりと麻衣を見て出て行った。そんな浩二に「気をつけてー」と声を掛けた理一は、亜矢の後ろに居る女性の姿を見て一瞬にして緊張する。
目鼻立ちのしっかりした美人。艶やかなセミロングの黒髪はパーマをかけているらしく緩やかに弧を描いている。唇の右下にあるホクロが色気を醸しており、しかしノンフレームの眼鏡が彼女の顔立ちを理性的に魅せている。
(落ち着いて、変なこと考えない。生徒さん、生徒さん……あ!まだ生徒になるとは決まってない!)
「せんせ?どうしたの?」
まったく落ち着けていない理一は亜矢に声を掛けられて、挙動不審に応える。
「いえ、どうもしませんよ?僕は大丈夫です。問題ありません」
(大野が変なことを言いさえしなければっ!)
と、飄々とした友人に恨みを向けるが、今はそんなことを思っている場合ではない。心を落ち着けてから、理一は亜矢に指示を出す。
「亜矢さんはいつも通り準備しててね」
「はぁい」
やや甘えた声で亜矢は理一に応えると、楽譜を譜面台に置き準備運動にハノンを弾き始めた。
ドミファソラソファミ・レファソラシラソファ・ミソラシドシラソと流れ出す音の羅列を聞きながら、理一は普段通りを心がけて麻衣に話しかける。
「貴女はご見学にいらした方ですよね?そのお名前を聞き忘れていて……」
やや申し訳なさそうな理一の言葉を遮るように麻衣の口からでたのは「ベ……」の一声だった。
「べ……?」
理一が緩く眉を寄せるが、さっきから麻衣は理一など一切目に入れていなかった。
「ベヒシュタインだぁ~」
キラキラと輝く瞳で麻衣が見つめるのは、並列する二台のグランドピアノだった。
ベヒシュタインとはピアノブランドの一つで、透き抜けた音色が特色の繊細な曲に良く合うドイツ発祥のピアノである。日本人からすると、ピアノと言えばYAMAHA。そして、世界に出ればピアノと言えばスタンウェイと言われている。
しかし、麻衣が好きなのは日本製ではKAWAIであり、海外製ではベヒシュタインである。
「え、えぇそうです。ベヒシュタインです。もしかして、貴女もベヒシュタインがお好きなんですか?」
「そりゃもう!私は断然KAWAI派なんで!」
興奮した麻衣に釣られて、理一も熱がこもる。
「あぁ、わかります。KAWAIのピアノはベヒシュタインに通じるものがありますよね……!」
「そうなんですよ!こう、コロラのような突き抜ける高音域、透き通る中音域に、重厚で心を振るわせる低音域のあのしぶさ!ピアノ協奏曲向きじゃないかもしれないけど、でも私としてはピアノ曲は是非ベヒシュタインでお願いしたい!」
「そうですね。ベヒシュタインは音量が他のピアノメーカーに比べて小さいですから大きなホールで演奏される協奏曲にはあまり向いてないと言えますが、ベヒシュタインで奏でられるリストやドビュッシーのピアノ曲の美しさ……」
「リスト様は断然ベヒシュタインな訳で!」
「そうです、そうです。そう言えばフランツ・リストとベヒシュタイン氏は交友関係にあったんですよね……彼の超絶的な技巧に応えるピアノをベヒシュタインが作り上げたとか……」
「そうそう!昔のピアノって弦が弱かったのかハンマーの具合なのか、リストが演奏会でピアノを弾いてたら弦がブチブチ切れちゃって……」
「それを見たベヒシュタインが作り上げたのが……」
「このピアノ!ベヒシュタインが作ったピアノをリストが認めて、そこから二人の交友関係が始まったんですよっ!!」
「その他にもベ……」
「せんせ!もういいですかー!」
無我夢中で語られるベヒシュタイントークを中断させたのは「もういいですよ」の声が掛からずにハノンを三十八番まで弾き終えてしまった亜矢だった。そのままスケールに行くかどうか悩んだが、貴重なレッスン時間が削られている事実もあるので、珍しく興奮している理一を止める為に声を上げたのだ。
見学日、十九時の十分前に到着した麻衣は自宅兼教室である理一の家の前で間抜けにも口を開けていた。
住宅街の一角なのだが、周りの家の二倍の大きさはあった。二階建ての洋館で、ヨーロッパからここだけ切り出して日本に置きました。と言った具合だ。
そんな素敵な洋館に、なんともそぐわない看板が出ている。
≪高科理一ピアノ教室≫
さて、『理一』はサトカズなのかリイチなのかと首を傾げつつ、もう一度洋館を見上げた。
「レッスン終わったのかね?音がしないや……」
ワンレッスン五十分と言うことなので終わりの時間ではあるのだが、家の中、まだレッスンは続いている。理一は集中すると時間を忘れがちなのだ。
音がしないのは、この家の防音が完璧に為されているからだった。
「あの~……」
ぼんやりと玄関ポーチの前に佇む麻衣の背中に声が掛かった。振り返ると、可愛らしい服装の清楚な少女が立っている。
「もしかして、今日見学に来たって人ですか?」
「あ、はい」
小首を傾げる仕草も愛らしい。きちんと女の子をしている姿に、ジーパンにワイシャツという姿でのんびり歩いて来ていた麻衣は恐縮してしまう。
「先生から聞いてます。わざわざお電話貰って……。先生って、ほっとくとレッスン時間延びちゃうから中に入らないと気付いて貰えませんよ」
勝手知ったる他人の家とばかりに、少女は玄関を開ける。すると、やや拙いピアノの音色が聴こえ麻衣はこの家の防音性にまたも一度閉じた口を開いた。個人で教室を開いている講師の中には玄関の鍵をかけない者もままいるので、そこには特に驚きはせず、麻衣は少女に促されて家の中に入った。
「せんせー、交替の時間です!」
少女の声に、理一がはっと顔を上げた。
「あぁ、すいません浩二君、亜矢さん」
「やぁーっと気付いてくれたー!んじゃ、俺帰りまーす!」
中学生の浩二はさっさと楽譜を鞄に仕舞うと、ちらりと麻衣を見て出て行った。そんな浩二に「気をつけてー」と声を掛けた理一は、亜矢の後ろに居る女性の姿を見て一瞬にして緊張する。
目鼻立ちのしっかりした美人。艶やかなセミロングの黒髪はパーマをかけているらしく緩やかに弧を描いている。唇の右下にあるホクロが色気を醸しており、しかしノンフレームの眼鏡が彼女の顔立ちを理性的に魅せている。
(落ち着いて、変なこと考えない。生徒さん、生徒さん……あ!まだ生徒になるとは決まってない!)
「せんせ?どうしたの?」
まったく落ち着けていない理一は亜矢に声を掛けられて、挙動不審に応える。
「いえ、どうもしませんよ?僕は大丈夫です。問題ありません」
(大野が変なことを言いさえしなければっ!)
と、飄々とした友人に恨みを向けるが、今はそんなことを思っている場合ではない。心を落ち着けてから、理一は亜矢に指示を出す。
「亜矢さんはいつも通り準備しててね」
「はぁい」
やや甘えた声で亜矢は理一に応えると、楽譜を譜面台に置き準備運動にハノンを弾き始めた。
ドミファソラソファミ・レファソラシラソファ・ミソラシドシラソと流れ出す音の羅列を聞きながら、理一は普段通りを心がけて麻衣に話しかける。
「貴女はご見学にいらした方ですよね?そのお名前を聞き忘れていて……」
やや申し訳なさそうな理一の言葉を遮るように麻衣の口からでたのは「ベ……」の一声だった。
「べ……?」
理一が緩く眉を寄せるが、さっきから麻衣は理一など一切目に入れていなかった。
「ベヒシュタインだぁ~」
キラキラと輝く瞳で麻衣が見つめるのは、並列する二台のグランドピアノだった。
ベヒシュタインとはピアノブランドの一つで、透き抜けた音色が特色の繊細な曲に良く合うドイツ発祥のピアノである。日本人からすると、ピアノと言えばYAMAHA。そして、世界に出ればピアノと言えばスタンウェイと言われている。
しかし、麻衣が好きなのは日本製ではKAWAIであり、海外製ではベヒシュタインである。
「え、えぇそうです。ベヒシュタインです。もしかして、貴女もベヒシュタインがお好きなんですか?」
「そりゃもう!私は断然KAWAI派なんで!」
興奮した麻衣に釣られて、理一も熱がこもる。
「あぁ、わかります。KAWAIのピアノはベヒシュタインに通じるものがありますよね……!」
「そうなんですよ!こう、コロラのような突き抜ける高音域、透き通る中音域に、重厚で心を振るわせる低音域のあのしぶさ!ピアノ協奏曲向きじゃないかもしれないけど、でも私としてはピアノ曲は是非ベヒシュタインでお願いしたい!」
「そうですね。ベヒシュタインは音量が他のピアノメーカーに比べて小さいですから大きなホールで演奏される協奏曲にはあまり向いてないと言えますが、ベヒシュタインで奏でられるリストやドビュッシーのピアノ曲の美しさ……」
「リスト様は断然ベヒシュタインな訳で!」
「そうです、そうです。そう言えばフランツ・リストとベヒシュタイン氏は交友関係にあったんですよね……彼の超絶的な技巧に応えるピアノをベヒシュタインが作り上げたとか……」
「そうそう!昔のピアノって弦が弱かったのかハンマーの具合なのか、リストが演奏会でピアノを弾いてたら弦がブチブチ切れちゃって……」
「それを見たベヒシュタインが作り上げたのが……」
「このピアノ!ベヒシュタインが作ったピアノをリストが認めて、そこから二人の交友関係が始まったんですよっ!!」
「その他にもベ……」
「せんせ!もういいですかー!」
無我夢中で語られるベヒシュタイントークを中断させたのは「もういいですよ」の声が掛からずにハノンを三十八番まで弾き終えてしまった亜矢だった。そのままスケールに行くかどうか悩んだが、貴重なレッスン時間が削られている事実もあるので、珍しく興奮している理一を止める為に声を上げたのだ。
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