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Appassionato-愛に生き

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 「サティって、ジムノペティが有名だけど、面白いタイトルの曲結構書いてますよねー、ほら、犬のためのぶよぶよとした前奏曲~とか。さすが音楽界の変わり者?」
 「この曲なんかは、フランス人のサティらしい曲ですよね」
 (話戻された)
 「昔から知ってたんですが、調べてるうちに歌えるようになりましたよ、男性版ですが」
 「あー、そうなんだー……」
 「えぇ。でも歌声を披露するのは恥ずかしいので歌いません」
 「あははっ、別に恥ずかしいことじゃないのに」
 「嫌ですよ。麻衣さんみたいに上手くないですから」
 そこで、曲が終わった。はずだったのだが、理一は再度弾き始める。
 「歌詞も自分で訳しました」
 音にあわせて、理一が歌うように語る。

  黄金の天使 陶酔の果実
  瞳の魅惑
  私のモノになって、お前が欲しい
  私の恋人になって欲しい
  私の苦痛を慰撫するために
  あぁ 女神よ 来ておくれ
  私は願う 二人して幸せになる
  あの貴重な時を お前が欲しい

  お前を後光で飾る
  お前の美しい髪
  その優雅なブロンドは
  偶像のブロンドと同じようだ
  私の心は、お前次第
  お前の唇が私の唇に
  お前の身体が私の身体に
  そして私の肉体全てがお前のモノとなってくれ!

  黄金の天使 陶酔の果実 

  そう、私はお前の瞳にみる
  神聖な約束を
  お前の恋する心は
  私の愛撫を恐れずに
  永遠に絡み合い
  同じ炎に燃え立ち
  愛の夢の中
  取り交わそう 私たち二人の魂を

  黄金の天使 陶酔の果実よ……


 「麻衣さんは綺麗な黒髪ですよね」
 ゆっくりと、理一が麻衣へと体を向ける。
 「ア、アリガトウゴザイマス」
 ピアノを前に、麻衣は動けなくなっていた。
 「可愛らしい曲調なのに、随分と情熱的だなって驚いたんです」
 「そう、ですね」
 「最近、良く弾くんです」
 「そ、ですか」
 「ねぇ麻衣さん」
 「なん…です?」
 穏やかな微笑みを湛えたままに、レンズ越し、柔らかな瞳がスッと細められる。その姿に、麻衣は視線を彷徨さまよわせた。
 「いえ……」
 少し悲しそうに眉尻を下げ、理一は自身の両腿りょうももをポンと叩いた。
 「始めましょうか。練習、あまり出来ませんでしたよね?ハノンは十五番までテンポは八十にしましょう」
 いつも通りの声で、メトロノームを操作する。
 「……は、い」
 そうして、いつも通りのレッスンが始まる。


    ♪     ♪     ♪     ♪     ♪     ♪


 「あー、これよかったら」
 なんだか気まずい空気のまま、時間通りに終わってしまったレッスン。麻衣は持ってきていた高級酒を理一に差し出す。
 「ウォッカですか」
 「えぇ、貰いモンなんですけど、私一人じゃ飲まないから」
 理一が、麻衣から酒を受け取る。
 「ん~、僕も一人の時は飲まないので……」
 受け取っといて何を言う。と思わんでもない麻衣。
 (実は、せんせと一緒に飲んでみたいなーなんて思って持ってきてたり)
 玄関前でシュミレーションした言葉は、麻衣の口からは出てきてくれない。
 「麻衣さんとお酒を飲んでみたいと思っていたんですよね。どうですか?麻衣さんも飲んだことが無いなら一緒に試飲でも」
 「あ…はい……」
 自分が言おうとしていた誘い文句。でも、今日それを口にしたら、この大切な関係が壊れてしまうのではないかとそう思っているのに、麻衣が保とうとする関係を、理一は壊そうとしている。
 麻衣にはそう感じられた。


    ♪     ♪     ♪     ♪     ♪     ♪


 「ぷあー、中々」
 ボトルの中身は、半分以下まで減っていた。互いにロックで飲んでいる。麻衣は一見すると酔っていないように見えるが、赤くならないだけで普通に酔う。逆に、頬を赤く染めているが理一はまだまだ素面シラフと言える。
 「あ~、この歌~」
 レッスン前に理一が弾いていたあの曲だ。飲み始めはピアノ曲だけが納められたCDを無造作に流していたが、最近コレクションを始めたと、理一が歌曲集にかえていた。
 理一が普段通りだったことと、アルコールが回っていることで麻衣はレッスン前の事態を忘れていた。
 陽気な声で、麻衣が歌う。

  J'ai compris ta détresse,
  Cher amoureux,
  Et je cède à tes vœux,
  Fais de moi ta maîtresse.
  Loin de nous la sagesse.
  Plus de tristesse,
  J'aspire à l'instant précieux
  Où nous serons heureux: je te veux.
 
  Je n'ai pas de regrets
  Et je n'ai qu'une envie:
  Près de toi, là, tout près,
  Vivre toute ma vie.
  Que mon cœur soit le tien,
  Et ta lèvre la mienne:
  Que ton corps soit le mien,
  Et que toute ma chair soit tienne!

  Oui, je vois, dans tes yeux
  La divine promesse,
  Que ton cœur amoureux
  Vient chercher ma caresse.
  Enlacés pour toujours,
  Brûlés des mêmes flammes,
  Dans des rêves d'amour
  Nous échangerons nos deux âmes.


 「さすが、ですね」
 「えへへ~」
 褒められて素直に喜ぶ麻衣。実は、大好きな曲で楽譜は持っていないがCDを聴き倒したのでなんとなく歌えるようになっていた。その為、細部は間違っているのだが『歌は楽しく!』が信条なので、一人で歌ってるぶんにはいいか。と思っている。たった今、理一に披露してしまったが……
 「もう一度お願いします」
 いつの間にかCDが止められ、理一がピアノの前にいた。
 「はいさー!」
 麻衣はグラスを片手に理一の隣に立つ。
 そうしてもう一度、愛を歌う。


    ♪     ♪     ♪     ♪     ♪     ♪


 「女性版ですよね?」
 「うん~」
 麻衣はだらしなくピアノに寄りかかっていた。
 「どんな歌詞でしたっけ」
 「え~?えっとね、私的には男性版に対する返歌かなぁ~あんたの想いに応えてあげるわ!見たいな。ほら、男性版は、お前が好きだー!って感じじゃない?」
 身を乗り出して理一を見ると、柔らかく微笑まれた。
 「ねぇ、麻衣さん」
 理一が居住まいを正して麻衣を見つめる。
 「ん~?なんですかー、せんせ」
 麻衣はとろんとした瞳で理一の目を見つめ返した。

 ――お前が欲しいジュ・トゥ・ヴ――

 言われた言葉が頭に浸透するのに時間が掛かった。
 「んん?そうですね、ジュ・トゥ・ヴですね」
 結局、良くわからないまま答える。
 そんな麻衣に、理一は苦笑いを浮かべた。
 「あなたが、欲しいんですよ。麻衣さん」
 いつも通りの柔和な笑顔。けれど、レンズ越しの瞳は熱い、熱い熱を孕んでいる。
 「…ぁ……」
 まるで、薄いガラスが割れるような、粉々に砕けるような音が身の内に響いた。
 壊れてしまった。
 保っていたかった関係が、壊れてしまった。
 そっとグラスを譜面台の右板に置いて、理一の腰掛けている椅子に右膝をかけた。
 「あなたが欲しい」
 チェロのような優しい声が、麻衣の心を誘惑する。
 そっと、麻衣は理一の眼鏡を外した。
 「あなたが欲しいです、麻衣さん」
 弦が、苦しげに震える。チェロが啼いている。
 自分の眼鏡も外した。
 途端に理一の輪郭がぼやける。
 けれど、それはすぐにはっきりとして見えた。
 するりと理一の後頭部に両手を回して、麻衣は吐息を漏らす。
 「もう一度、言って?」
 壊れてしまったから、もう我慢しなくていい。
 壊したくなかったのは、別れという結末が怖かっただけだから。
 「ジュ・トゥ・ヴ……麻衣さん……」
 そうして、いささか乱暴に互いの息を絡め合った。
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