彼女の方が魅力的ですものね

ヰ島シマ

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31.亀裂 ― 2

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 湯浴み後、たった二時間のうちに十七回も書類を持って寝室を訪れたセルヴェンに、イリファスカは早くもノック音恐怖症になりかけていた。

 これは決して嫌がらせ目的で通っているわけではなく、セルヴェンとしては、なるべく自らが公務に励んでいる姿を見せることによって、イリファスカが抱える仕事への不安を軽減してやろうという……言うなれば親切心の表れであったが、イリファスカにしてみればいい迷惑であった。


 セルヴェンは病状説明の際、ケーレン医師から『奥様は仕事や人間関係の影響で、精神疾患しっかんを患っている可能性が高いです』と聞かされていた。
 “仕事”も“人間関係”も……全ての原因を作ったのは紛れもない自分である。
 負い目がまた少しセルヴェンの中で成長したが、セルヴェンにとって救いだったのは、自分の訪問をイリファスカが拒否せずに相手してくれることであった。

 イリファスカが本当に自分を嫌っているのであれば、どんな理由があれ、顔合わせを全て断るはずだ。
 、イリファスカも寝室でのやり取りを待ち望んでいるのだと―― ……セルヴェンはいつもの良くない物の考え方を働かせてしまった。

 自分は嫌われていない、恨まれていない……。
 一度そう思い込むと、セルヴェンは心身共に疲弊ひへいしているであろうイリファスカの、影を帯びた控えめな笑い方がとてもいじらしく、つやっぽく感じられ、庇護欲ひごよくを掻き立てられた。

 セルヴェンの取る行動は全て裏目に出ていたが、そんなことを本人は知るよしもない。
 イリファスカの方も初手で徹底的に突き放すべきだったが、今となっては後の祭りだ。

 噛み合わない二人のやり取りは続き、あっという間に夕食の時間を迎えた。


 セルヴェンが食堂へ行くと、ちょうど使用人による配膳はいぜんが終わったところだった。
 一人分しか用意されていない食卓というのは寂しいものだ。早くイリファスカの顔を見ながら食事を取りたいものだと、セルヴェンは無意識のうちに溜息をこぼしながら席についた。

 すると、壁のそばに立って控えていた使用人の女が、クスクスと笑い声を漏らしてセルヴェンに話し掛けてきた。

「お疲れですか?」

 おかしそうにこちらを見つめていたのは、従姪のピアスーだった。
 共に並んで立っているメリヒェルも同じく、セルヴェンを見て笑みを浮かべている。

「行儀見習いの……何という名だったかな? ソルマとエナーの子の……」
「やだぁ~っ! おじ様ってば名前忘れるなんて酷ぉ~い! 私ピアスーです! こっちはメリヒェル!」
「おじ様、お久しぶりですぅ~!」
「……久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はぁ~い! それはもう~! おじ様もお元気でしたかぁ?」
「……まぁ、そこそこな……」

 セルヴェンは年頃の子供が放つ異様な活力に辟易へきえきとしながらも、挨拶を返した。

 ソルマとエナーというのは、セルヴェンの従姉妹……それぞれの少女らの母親の名だ。

 以前は顔を合わせても他の使用人と同じように一礼してくるだけの子供達が、親戚とはいえ、やけに馴れ馴れしく絡んでくることを快く思わなかったセルヴェンは、最低限の会話で切り上げようと当たり障りのない言葉を掛けた。

「イリファスカの言うことはちゃんと聞いているか? 彼女を手本にすれば、将来王国内でも指折りの良妻になれるだろう。よく学んで帰りなさい」
「ププッ! おじ様ってば、皮肉がお上手なんですね! あたしせっかく見習いに来るんなら、第二夫人様が嫁がれた後の方がよかったなぁ~。伯爵家出身の夫人に習うのと、公爵家出身の夫人に習うのとじゃはくの付きが違うもん!」
「……なんだと?」

 耳障りな発言を受け、セルヴェンは鋭い目付きでピアスーを睨み付けた。
 一緒になって笑っていたメリヒェルは、セルヴェンの不穏な雰囲気を察してすぐさま笑みを消したが、ピアスーは声高らかにイリファスカをこき下ろし続けた。

「せめて出会いが逆ならよかったですよねぇー。伯爵家が図々しく縁談を持ち掛けたんでしょ? あっちが必死になってお願いしてきたから、おじ様も好きでもない人に初婚を捧げる羽目に――」
「その第二夫人というのは私の部下のミフェルナ・マレイのことを言っているんじゃないだろうな?」


 憤りを隠さないセルヴェンのあからさまな態度を前に、ピアスーはやっと自分で自分の首を絞めている状況に気が付いた。

 きっとセルヴェンも悪口に乗ってくるだろうと疑わなかった少女は、予期せぬ反応にうろたえた。

「え……あの……あれ……? なんか……違うっぽい感じ、ですか……?」
「その砕けた口調をいい加減正しなさい。先程から癇に障る。いいか? ここではっきりさせておくが、私の妻はイリファスカただ一人だ。第二夫人など娶る予定はない。世間でくだらない噂が流れているらしいが、所詮は作り話だ。屋敷の人間であれば当然イリファスカの味方をしているものと考えていたが……まさか低俗な話題を真に受けているとはな」

 椅子に腰掛けたセルヴェンから注がれる、心底軽蔑したような容赦のない視線に困惑したピアスーは、とにかく湧き上がってくる焦りをそのままセルヴェンにぶつけた。

「だっ、だって……新聞に載ってることなのにっ!! おじ様だって今までおばさんに冷たかったくせにっ!?」
「“おばさん”だと? まさか侯爵夫人であるイリファスカをそう呼んでいるんじゃないだろうな? 一介の使用人の分際で」
「ぶっ……分際っ―― !? いくらなんでも酷すぎますっ!! あたしたち親戚同士なんですよっ!? おじ様どうしちゃったのっ……いきなり人が変わったみたいっ!! あの女に何か弱みでも握られたんですかっ!?」
「ピアスーやめなよっ……!」

 セルヴェンはピアスーが指摘した自らの問題点には触れず、大人げなく彼女の失言だけを責め立てた。
 反論に熱くなるピアスーもピアスーで、服の袖を引っ張ってたしなめてくるメリヒェルの手を振り払い、なおもセルヴェンに食って掛かった。

 立場の違いもお構いなしに負けん気を働かせる幼い従姪に対して、セルヴェンはさらなる大人げない発言で二人をひるませた――。


「お前達の母親は最悪だった。私はずっと行儀見習いの受け入れを断っていた。私もイリファスカも仕事が忙しく、よその子供の面倒を見る余裕がなかったからだ。なのにお前達の母親ときたら、断っても断っても何十通としつこく手紙を寄越し、挙げ句の果てに王都の職場まで押しかけて連日研究の邪魔をした。最終的には私の両親に泣き付き、妻の同情心を買ってお前達を押し付けてきたんだ。イリファスカは『女子の世界は複雑なものだから』と言って、お前達のために私に頭まで下げたんだぞ? 彼女に言われて仕方なく折れたというのに……イリファスカに感謝こそあれ、品のない呼称を付けるなど、親が親なら子も子だな。やはり行儀見習いなど預かるのではなかった。今からでも家に送り返してやりたい気分だ」

 実に忌々いまいましそうな面持ちで放たれる恨み節に、ピアスーはがく然とした様子でブツブツと呟きながら、瞳を揺れ動かした。

「なにそれっ……そんな話聞いたことないしっ……!? それにっ……だって……おじ様が部下の人と結婚するって言うからっ、あたしだって勘違いしてっ……!!」
「私は自分の口からそのような発言をしたことも、噂を肯定したこともない。妙な話が出回ったせいで迷惑しているんだ。そのうち、記事を書いて広めた新聞社や関係者を洗いざらい探し当てて潰してやるつもりだ。……まさかとは思うが、お前達が面白おかしく盛った話が外部に流出して、このような事態を引き起こした……なんてことはないだろうな?」
「違っ、あたしたちじゃな―― ムグッ!?」
「ア、アタシ達が行儀見習いにやって来た時にはっ、もうそういう噂が屋敷内で流れてましたっ! 今ほどの規模ではないですけどっ……だから噂を流した犯人は別にいるんですっ! 信じてくださいっ!」

 メリヒェルはピアスーがこれ以上セルヴェンの腹の虫をつつく前に、友の口を後ろから抱え込むように両手で塞いで、代わりに弁明した。


 セルヴェンは爪先でコツコツと食台を叩き、神経質な音をかなでると、わざとらしい溜息を深々と吐いて言った。

「……お前達の無礼はソルマ達に伝えておく。長らく家を空けていた私も悪かったが、当主の不在時はその伴侶となる者が屋敷の頂点に立つということは、幼子おさなごでも分かるはずだ。不勉強が過ぎるぞ……下がりなさい。滞在中はその顔を見せないように努めてくれ」
「はい……グスッ……」

 メリヒェルは顔を真っ赤にして震えるピアスーの口元から手を離すと、彼女が反論する前にその腕を引いて、食堂の外へと駆け足で出ていった。

 涙をポロポロとこぼして先をゆくメリヒェルとは違い、ピアスーは遠ざかるセルヴェンを横目でギロリと睨み返しながら、獣のように肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。

 彼女もユタル家令同様、セルヴェンが己の所業を棚に上げて自分達を叱りつけたことを腹立たしく思っていた。
 知りたくもなかった母の嫌がらせじみた行動や、蔑みの対象であったイリファスカの温情により、侯爵家に身を置いてもらえたということ……何より、自分を可愛がってくれるはずの伯従父から、強い口調で責め立てられたことが、十代前半の少女には到底受け入れ難い出来事であった。


 未熟なピアスーは、それでも己の傲慢さをかえりみようとは考えなかった。
 自分にも悪いところがあったと振り返る謙虚さがあれば、――。


 ……悪いのは全部、家を空けていたセルヴェンだ。第二夫人の噂が作り話ならば、早くにそう否定してくれればよかったのに。
 自己主張の足りないイリファスカも悪い。ずっとおどおどしているから、『ああ、この人は馬鹿にしていい人なんだ』と勘違いしてしまったではないか?
 分が悪くなるとすぐに下手に出るメリヒェルも悪い。彼女のせいで、まるで自分達の方に非があるみたいな空気が流れた。

 『悪いのはあたしじゃない』……ピアスーはそうやって、他者へのなすり付けで心の平穏を保つのに一生懸命だった。










 セルヴェンは少女らが食堂を去った後、軽く舌打ちをしてから、背後に控えていた人物を名指しで責めた。

「ユタル、後で覚えておけよ」
「なっ……わっ、私のせいだとっ!?」

 自分に火の粉が降りかからぬよう、終始セルヴェンの席の後ろで息を潜めて突っ立っていたユタル家令は、突然話を振られて動揺した。

「俺にも非があるのは認める。だが、たかが子供二人をあそこまで付け上がらせたお前の罪は重い。手紙の一件は忘れてやるが、それとは別に罰を与える。今はイリファスカに負担をかけたくないからな……来月、いや再来月いっぱいまでは屋敷に留まることを許そう。次の職を探しておけよ。無論、紹介状など書かんからな」
「そっ……そんなっ……!!」

 セルヴェンは野良犬でも追い払うかのように、ユタル家令に向かって“シッ、シッ”と手を振ると、静かに食事を取り始めた。

 ユタル家令は奥歯を噛み締めながら、それでもきっちりと一礼をしてから食堂を後にした。

 廊下をズカズカと大股で進み、急いで自室に戻る。
 普通使用人は地下の大部屋で同僚と寝食を共にするが、家令である彼には個室が与えられていた。
 こぢんまりとした部屋だが、一人になれる空間があるだけ他の者よりずっとマシだった。


 自室に着いたユタル家令は、荒々しい動作でベストを脱ぐと、そのまま部屋の真ん中に置かれたソファーへと勢いよく投げ捨てた。

 セルヴェンの発言全てが、『どの口が言うんだ』と怒りを燃え上がらせるものであったが……今考えるべきは、ふた月後に迫った解職の日だ。

 とうとう明確な時期まで告げられてしまった……イリファスカのお陰でなあなあで済ませられたのに、ピアスーがいらぬ面倒を起こしたせいで、結局職を失う羽目になった。

「あの小娘どもめ……!」

 ユタル家令が近くの作業台に拳を叩き付けると、辺りに“ドンッ!”と鈍い音が鳴り響いた。
 窓のない真っ暗な地下の一室で、怒れる男の荒い息遣いがこだまする……と、その瞬間――。





「何を苛立っておいでですか?」





 背後から投げ掛けられた声に、ユタル家令は心臓が飛び出るかと思った。

 慌てて振り返ったその先には……先程ベストを投げ付けた、無人だったはずのソファーに、体格の良い一つの影が腰を下ろしていた。
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