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第9話
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シェムが魔法屋にやって来たのは夕方になってからだった。
「……イブ兄は?」
「奥の事務所で待ってます」
僕はシェムを事務所に連れて行き、イブの正面の席に座らせた。
シェムはテーブルにガラスの灰皿が置いてあるのを目で確認すると、兄の前で躊躇なく煙草に火をつけた。
明らかに機嫌が悪い。
しかめっ面のまま、煙をふう……と吐き出すと、シェムは不意に口を開いた。
「俺に何の用?」
するとイブは無表情のまま
「アスは……」
と口にした。
「アスとレヴィは……お前のところにいるのか」
シェムはすぐには答えない。
重い沈黙が続く。
「……いるよ」
シェムはイブと目を合わせることなく答えた。
「そうか……」
イブは静かに紅茶を一口啜った。
それから、重々しく本題を切り出した。
「父さんは今、とても危険な状態だ。正直、いつ死んでもおかしくない。内乱も激しくなってきている。息子の俺たちが争ってる場合じゃないんだ。頼むから、ユートピアに戻って来てくれ」
シェムは呆れたように
「今更?」
と呟いた。
「兄貴……。あの日、俺は兄貴の命令で同盟国との条約調印に行った。俺が公務を終えて帰って来た時、俺が見たのは血塗れで死んでる仲間たちの姿だった。
……あの光景が今も目に焼き付いて離れない」
シェムは感情を露わにすることなく、淡々と話した。
「兄貴は……いや、兄貴だけじゃない。父さんや叔父さん、叔母さん達だって、あの日魔族たちが殺されるって知ってて隠してたんだろ。俺の仲間を見殺しにしたんだ。
あの日から俺はずっと、アルストロメリア家が憎くて堪らない。王家がどうなろうが俺の知ったことじゃない」
「……それは悪かったと思ってる。お前にそう思われるのは仕方ない。でも、内乱を鎮め、ユートピアの平和を取り戻すにはお前たちの力が必要なんだ。このままだと、罪のない子供たちや貧しい魔族たちがたくさん死んでしまうかもしれない」
「平和の為……?白々しい。罪のない魔族を虐殺したり、境界に攻め込もうとしたりしてたくせに、よく言うよ」
イブは返す言葉に迷ったのか口を閉ざした。
また事務所に暗い空気が漂う。
すると、事務所の奥にある木の階段からひょこっと人影が現れた。それまで階段に座って魔法の杖の手入れをしていたルシフが、不意に立ち上がったのだ。
「ユートピアに帰った方がいいんじゃねーの?」
ルシフはそう言いながら、階段を下りてくると、事務所の隅っこで紅茶を淹れていた僕に杖を押し付け、テーブルの方へつかつかと歩いていった。
イブとシェムが警戒した目でルシフを見上げるのもお構いなしで、ルシフはテーブルの上のクッキーを一枚とって口に放り込んだ。
「うん、やっぱりベルが作ったクッキーが一番美味いな」
「ルシフ。それ、来客用に作ったやつなんですから、勝手に食べないでください。あとでルシフの分も作ってあげますから」
「うるせえ。お前が俺に甘いものをくれるときは嫌がらせだって分かってんだよ。去年のバレンタイン、『僕もチョコ作ってみたんです』とか言ってカレーのルー渡してきたの覚えてるぞ」
ルシフはクッキーを飲み込むと、改めてシェムに向き合った。
「お前は国に帰った方がいいと思う。王家が気に入らなくたって、お前が王子であることに変わりはねーし、お前だって国民を無駄死にさせたくはねーだろ」
「……そうだな……。でも……内乱を鎮めるとなると、第二部隊を率いて帰らなきゃいけない。もし、兄貴が言ってることが嘘で、第二部隊をユートピアで処刑する為の罠だったら……?」
「シェム……。俺は嘘なんて吐いてない」
「信用できるわけないだろ!!」
シェムが急に兄へ怒鳴ったので、僕とルシフはビクンッとして息を詰まらせた。シェムはハッと我に返ると
「悪い。大きな声出して……」
と俯いた。
「ずっと息苦しかった。国王の息子であることに重圧を感じてた。そんな俺にとって第二部隊は心が安らぐ唯一の居場所だったんだ。あいつらのことが大好きだった。それを奪っておいて、まだ信じろって言うのか?今も第二部隊は俺の居場所だ。今も第二部隊を愛してる。もう奪われるのは嫌なんだ。だからイブ兄。もうこれ以上、俺たちを傷つけないでくれ……」
シェムの声は今にも泣き出しそうだった。
「信じてもらえないと思うが……俺もお前を傷つけたいわけじゃないんだ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
「お前を、守りたかったんだ」
「……どういう意味だ……?」
シェムは潤む目でイブを睨みつけた。
イブは拳を強く握りしめると、シェムの目を見てはっきりと告げた。
「あの日……、母さんはお前を殺そうとしていた」
「は……?」
シェムが持つ煙草から白い灰がぱたりと落ちた。
「第二部隊の魔族を処刑すればお前は必ず取り乱す。処刑場に乱入するなり、母さんに歯向かうなり、何らかの行動を起こすだろう。そこでどさくさに紛れてお前を殺せば、第二王子が暴れるのでやむを得ず殺してしまった、という口実が出来上がる。それが母さんの目的だった。
俺はそうはさせたくなかった。それで、俺はあの日お前を母さんに内緒で国外に行かせた」
「だからって……俺の仲間を見殺しにしたのは変わらないだろ……」
シェムの表情には明らかに動揺の色が見えた。対してイブは極めて冷静に話を続けた。
「あそこで処刑を阻止しても、日を改めてまた同じことが起こる。それも、お前も第二部隊も全員殺されるという最悪な形でだ。
だが、処刑が終わってしまえば、お前を殺す口実はなくなる。そう何度も魔族たちにクーデターの疑いをかけ、虐殺を繰り返せば、母さんの方がでっち上げを疑われ、他国からの信頼は失墜するからな。一度虐殺事件が起こってしまえば、しばらくはお前の安全は保たれる。その為に、彼らに犠牲になってもらった」
「なんだよ、それ……あいつらが死んだのは、仕方がなかったってことかよ……。そんなの、許せる訳がない……。
俺は……そんな風に助けられるくらいなら、あいつらと一緒に死にたかった……!!」
シェムに掴みかかられても、イブが表情を変えることはなかった。
「お前の仲間がそれを望まなかったんだ」
とイブは言った。
「彼らは自分たちが殺される日を知っていた。
『我が主の為ならば、命など捧げてやりましょう』と、最初にそう言い出したのはザゼルだった。
魔族たちは皆、それに賛同した。
お前は彼らを仲間と呼ぶが、彼らにとってお前は護るべき主君だ。自分の命を投げ出すことに何の躊躇いもない……その忠誠心は見ていて恐ろしさを覚える程だった。
あの日、条約調印にザゼルたちがついていかなかったのはそういう理由だ」
「そんなの……嘘だ……」
シェムの顔がみるみる青ざめていく。
「母さんは予定通りに魔族たちを殺した。
だが、ザゼルだけはすぐに殺すことはしなかった。お前が昔からザゼルに一番の信頼を寄せているのを知っていたからだ。お前をおびき出す為に、じわじわと嬲り殺すつもりだった。
だけどやがて、お前がいないことに気がつき、途中で殺すのをやめた。
だから、犠牲になると最初に言い出したザゼルだけが皮肉なことに生き残ってしまった。
そのザゼルからしたら、お前に『一緒に死にたかった』と言われることほど辛いことはないだろう」
シェムはじっと我慢するように強く唇を噛み締め、兄の話を聞いていたけれど、遂に抑えきれなくなった涙が目からぽろぽろと零れ落ちた。
はぁ……と真っ先に溜め息を吐いたのはルシフだった。
「いい歳して泣くなよ。お前が自分を責める必要はない。お前の仲間は、自分の意思で、死にたいから死んだんだ。別に自分で殺したわけでもねーんだし……」
ルシフの言葉を聞いて、先生の顔がふっと頭に浮かんだ。
先生もそうだ。
自分の意思で、ルシフに『殺してくれ』と頼んで、死にたいから死んだ。
シェムの穢れのない涙を見ていると、先生の僕らへの想いもとても残酷なものである気がしてきた。
「イブ兄……、なんで俺たちがこんな思いしなきゃいけないんだ……王妃は俺の何がそんなに気に入らないんだよ……」
「何が気に入らないとか、そういう問題じゃない。母さんは、お前たちが生まれてきたこと自体を恨んでるんだ」
「は……?俺たちを生んだのは母さんだろ!?意味がわかんねえ……。大体さっきから、母さん、母さんってあの人は兄貴の母さんじゃないだろ……!」
「俺の母さんだよ」
と、イブは確かにそう言った。
「……え……?」
シェムの表情が困惑に包まれる。
「あれは俺の母さんだ。身体は間違いなくお前たちの母親だけどな」
「……どういうことだよ」
「母さんはずっと昔に死んだ。だが、肉体が無くなっても、魂が死にきれなかったんだ。恐らく誰かからそういう呪いをかけられていたのだろう。それで、お前たちの母親の身体を乗っ取ってしまった……」
「じゃあ……、つまり、イブ兄の母さんの魂が俺たちの母さんに取り憑いてるってことか……?」
「簡単に言えばそういうことだ」
「なんで、それを今まで俺たちに黙ってたんだよ……!?」
「言ったところでどうなる?」
「俺たちに言ってくれれば、成仏させる方法を一緒に探したりとか、出来ることがあったかもしれないだろ……!」
「母さんは王妃の肉体を人質にとっているんだぞ。成仏なんてさせようとすれば、お前たちの母親の肉体を壊して別の奴に取り憑くと脅してくる。
……母さんは復讐をしている最中だ。だから、少なくともそれが終わるまで王妃の身体から出てはいかないと思う。今まで散々こんなことはやめてくれと母さんへの説得を試みてきたが、全く歯が立たない」
「復讐って、何の復讐ですか……?」
僕はそう思わず口を挟んでしまって、しまったと思ったけれど、イブは普通に答えてくれた。
「まず、アルストロメリア家への復讐だ。母さんは自分の死後すぐに父さんが今の王妃と再婚し、3人の王子が生まれたことにひどく嫉妬している」
「それで、アスを拷問したり、レヴィを国外追放したり……というわけか」
とルシフが相槌を打つ。
「次に、魔族への復讐。母さんはかつて、前魔王と愛を誓い、婚約していたらしい。それをサタン帝国の都合で破棄され、それがきっかけで魔族たちを恨むようになったそうだ」
前魔王……ってことは……。
イブの母親が、僕の父と婚約してたってことか……。
「それから、魔法屋への復讐」
いきなり自分たちの名前が出て、僕とルシフは
「えっ……?」
と声を上げてしまった。
「知らなかったか?先代の魔法屋は、母さんの義理の弟だ。あの大魔導師はユートピアの筆頭貴族だった母さんの家で養子として育ったんだ」
「ええぇえっ!?」
と、つい大声で驚いてしまったが、よく考えたらそんなに不思議でもないか。
先生がエデンの騎士団長やサタン皇帝と仲が良いのって、シンプルに考えれば貴族階級の家で育ったからだよな。
「優秀すぎる弟のおかげで母さんは両親から疎まれて育った。それが原因で母さんはとにかく魔法屋を嫌っていて、弟子である君たちもこの世から消し去りたいそうだ。特に、魔王の子である君のことをな」
名指しされ、背筋がぞくりとする。
イブの母親にとって僕は、元彼の一人息子で義理の弟の愛弟子……。なんだかややこしいけど、僕の生い立ちが恨みを買っているのは間違いない。
「境界への侵攻も、境界教会の始末という目的だけでなく、君たちの命を狙ってのことだと思う。魔法屋の弟子が境界にいるという情報を得て、潰してやろうと考えたのだろう」
「完全に逆恨みじゃねーか……」
僕の代わりにルシフが舌打ちする。
「なんだかどんどん厄介なことになってきましたね…」
僕も深く息を吐く。
事務所がどんよりとした雰囲気になっていたそのとき。
ガチャッ、ガタン、ガッシャーン!!
店の方から物凄い音がした。
僕らは慌てて店を覗き込んだ。
銀色っぽい長髪の男が、よろよろと事務所の方へ向かってきていた。
シェムが駆け寄って、前のめりに倒れかけたその男を抱きとめた。
髪は乱れていて、服は血の色に染まっていた。
「ザゼル!?おい、どうした、一体何が……」
「……シェム、さま……。大変です……第二部隊が、襲われて……」
「襲われた……?誰に……」
シェムに支えられているザゼルの背中には、ドラゴンのような銀色の羽根が生えていた。これがザゼルの変化が解けた姿なのだろう。その羽根は左右非対称の形、というか片方は捥がれたみたいな歪な形をしている。
そしてもう片方の羽根に、敵襲によるものと思しき生傷がたくさんついてボロボロになっていた。そのボロボロの羽根と背中に、無数の小さな注射器が突き刺さっている。
僕はその注射器をじっと見つめた。
注射器には、鮮やかな赤い液体が入っている。
これって……。
僕はハッとしてシェムの腕を強く引いた。
「ザゼルから離れて!!」
シェムの支えを失い、ザゼルはその場に崩れ落ちた。
「何だよ突然……!!」
「あの注射器の中身……多分魔法使いの血液です」
ザゼルは僕のその一言に、衝撃を受けた表情を浮かべていた。自分の背中に撃ち込まれているものが何なのか、僕が言うまで分かっていなかったみたいだ。
「魔法使いの血液……?それの何がヤバイんだ?」
とルシフが聞いてくるので僕は答えた。
「魔族は契約者の血液を体内に採り入れることで力を解放できる。でも、契約者以外の血液を大量に注入されると、魔族の身体は順応できなくて、暴走してしまうんです……!」
そんなことを説明している間に、ザゼルの身体が痙攣を起こしたみたいにビクン、ビクン、と激しく震え始めた。
ザゼルがもがき苦しみ出す。
床に、ミシミシとヒビが入る。
「シェムさま……早く、私から、逃げ、て……うっ…ああ……っ……!!」
ザゼルの皮膚が硬くざらついた質感になっていき、羽根はメキメキと異様な音を立てながら大きくなっていく。
「ザゼル!!」
近寄ろうとするシェムを僕は乱暴に後ろへ突き飛ばした。
「下がって!!」
ザゼルの身体はむくむくと巨大化し、肌の色が変わり、尻尾が生え、手足が変形して……最終的にそれは、銀色の竜になった。
竜は雄叫びに近い鳴き声を上げると、僕たちに向かって蒼い炎を吐いた。
ルシフが僕から杖を奪い取り、結界のように魔法陣を張って、なんとか炎を防ぐ。
「おい、ベル!!ザゼルは元に戻るのか……!?」
「体内に入った血液の分の魔力が消耗されれば自我を取り戻すはずです……!」
「じゃあ、この暴走を食い止めながら時間が経つのを待てばいいんだな……!?」
「はい……!」
僕たちがザゼルの動きを抑えようとしていると、ドンドンと外から壁を叩く音がした。
窓から見えたのは町内会の人々だった。
「なんだ……?こんな時に回覧板でも渡しに来たのか…?見ての通り俺はそんな悠長なことしてる場合じゃねーんだよ……」
「回覧板にしては人数が多くないですか……?壁を叩く意味もわかりませんし……」
どう見てもそういう和やかなものではない。人々の目は虚ろで、動きは操り人形のよう。
こういうものをどこかで見たことがある。
ああ、そうだ。ゲームだ。
バイオハザードだ……!!
「ルシフ、これ……ゾンビじゃないですか!?」
「は!?ゾンビ!?なんでこのタイミングで!?」
「いや、もしかしたら、そもそも第二部隊を襲ったのもこのゾンビたちだったのかもしれませんよ……!」
ゾンビたちの壁を叩く音が激しくなる。
このままじゃ魔法屋が壊される……!!
「俺が外の奴らを食い止める」
イブがそう言って、魔法屋の2階へと階段を駆け上がっていった。
「食い止めるって、どうする気だ!!あんなゾンビ共を相手にするなんて無茶だぞ!!」
ルシフがイブに呼びかけたが、全く聞く耳を持たない。
「ザゼルは俺がどうにかする。魔法屋、お前らはイブ兄の援護を……!」
シェムが僕たちを押し退けて竜の前に立ちはだかる。
「お前一人でどうにか出来るのかよ……!」
「出来るとか出来ないとかじゃない。やるしかねーんだ。
俺は、ユートピア魔法軍第二部隊隊長で、こいつの主君だからな。
……今度は俺が、こいつを助ける番だ」
シェムは手のひらをザゼルの方へと向けた。
その手に大きな黒い魔法陣が現れる。
「出でよ、《鳥籠》」
シェムが唱えた通りに魔法陣から黒い籠が出現し、ザゼルを中に閉じ込めた。
ザゼルは籠を破壊しようとして暴れ出す。
シェムがぐっと手に力を込めると、籠はさらに頑丈な造りに変わった。
「早く行け!!」
そう叫んでシェムが僕らを突き飛ばすと、大きな鳥籠がもう一つ現れ、シェムとザゼルの2人だけを覆い、その中へは入れなくなった。
僕たちはイブを追いかけて階段を駆け上った。
2階へ、さらに屋根裏へ。
屋根裏部屋の窓は開け放たれていた。
カーテンが風に揺れている。
イブはRPGの勇者のように大剣を背負い、窓枠に足を掛けた。
マントが翻る。
人々が狂ったように蠢く中に、イブは躊躇なく飛び降りた。
僕は窓から下を覗き込んだ。
鞘から引き抜かれたイブの大剣は氷に包まれていた。
斬りつけられた人々が次々と氷漬けにされていく。
「ルシフ、僕たちも行きましょう!」
僕は顔を上げて振り返った。
ブシュッ。
何かグロテスクな音がした。
見ると、ルシフのズボンの右ポケットに、血がじわりと滲んでいた。
ルシフは血の滴る右足を見つめながら、そっとポケットから写真を取り出した。
その瞬間、写真の中から黒い鴉の大群がバサバサと飛び立った。
ルシフがビクッとして写真から手を離すと、写真は風に飛ばされていった。
鴉は迷うことなく一直線に窓の外へ出て行った。黒い羽が部屋の中に舞い、僕らは咄嗟に目を瞑る。
鴉が飛び去り、僕たちが目を開けたとき。
薄紫色に染まった夕暮れの空を背景に、ひとりの少女が窓に腰掛け、こっちを見つめていた。
フリルやリボンで飾られた黒いワンピースを纏っている。
写真に写っていた、あの少女だった。
不気味に漂う妖しさと途轍もない狂気を感じて、僕は一歩後ずさった。
彼女は微笑を浮かべ、部屋に降り立った。
不意に僕の後ろで紅い光がちらついた。
いつの間にかルシフが杖で魔法陣を描いていたからだ。
ルシフの目には只ならぬ殺気が籠もっていた。
魔法陣から紅い稲妻が走るのと同時に、少女もルシフとそっくりの……いや、ルシフ以上に複雑な魔法陣を描いた。
少女の魔法陣から放たれた閃光が、一瞬にしてルシフの魔法陣を突き破った。
ルシフの身体はふっ飛ばされ、壁際の本棚に叩きつけられた。その衝撃で、本がドサドサッとルシフの頭に降ってくる。
僕は思わずルシフに駆け寄ろうとしたけれど、足が錘をつけられたみたいに重たくなっていて、全く動かせない。
痛そうに頭を押さえるルシフの方に少女は歩み寄った。
少女は不気味な笑みをたたえたまま、ルシフの顎を撫でるように持ち上げ、そっと耳元で囁いた。
「久しぶりじゃのう、小僧」
そして、彼女はルシフの頬に優しく口づけをした。
「……イブ兄は?」
「奥の事務所で待ってます」
僕はシェムを事務所に連れて行き、イブの正面の席に座らせた。
シェムはテーブルにガラスの灰皿が置いてあるのを目で確認すると、兄の前で躊躇なく煙草に火をつけた。
明らかに機嫌が悪い。
しかめっ面のまま、煙をふう……と吐き出すと、シェムは不意に口を開いた。
「俺に何の用?」
するとイブは無表情のまま
「アスは……」
と口にした。
「アスとレヴィは……お前のところにいるのか」
シェムはすぐには答えない。
重い沈黙が続く。
「……いるよ」
シェムはイブと目を合わせることなく答えた。
「そうか……」
イブは静かに紅茶を一口啜った。
それから、重々しく本題を切り出した。
「父さんは今、とても危険な状態だ。正直、いつ死んでもおかしくない。内乱も激しくなってきている。息子の俺たちが争ってる場合じゃないんだ。頼むから、ユートピアに戻って来てくれ」
シェムは呆れたように
「今更?」
と呟いた。
「兄貴……。あの日、俺は兄貴の命令で同盟国との条約調印に行った。俺が公務を終えて帰って来た時、俺が見たのは血塗れで死んでる仲間たちの姿だった。
……あの光景が今も目に焼き付いて離れない」
シェムは感情を露わにすることなく、淡々と話した。
「兄貴は……いや、兄貴だけじゃない。父さんや叔父さん、叔母さん達だって、あの日魔族たちが殺されるって知ってて隠してたんだろ。俺の仲間を見殺しにしたんだ。
あの日から俺はずっと、アルストロメリア家が憎くて堪らない。王家がどうなろうが俺の知ったことじゃない」
「……それは悪かったと思ってる。お前にそう思われるのは仕方ない。でも、内乱を鎮め、ユートピアの平和を取り戻すにはお前たちの力が必要なんだ。このままだと、罪のない子供たちや貧しい魔族たちがたくさん死んでしまうかもしれない」
「平和の為……?白々しい。罪のない魔族を虐殺したり、境界に攻め込もうとしたりしてたくせに、よく言うよ」
イブは返す言葉に迷ったのか口を閉ざした。
また事務所に暗い空気が漂う。
すると、事務所の奥にある木の階段からひょこっと人影が現れた。それまで階段に座って魔法の杖の手入れをしていたルシフが、不意に立ち上がったのだ。
「ユートピアに帰った方がいいんじゃねーの?」
ルシフはそう言いながら、階段を下りてくると、事務所の隅っこで紅茶を淹れていた僕に杖を押し付け、テーブルの方へつかつかと歩いていった。
イブとシェムが警戒した目でルシフを見上げるのもお構いなしで、ルシフはテーブルの上のクッキーを一枚とって口に放り込んだ。
「うん、やっぱりベルが作ったクッキーが一番美味いな」
「ルシフ。それ、来客用に作ったやつなんですから、勝手に食べないでください。あとでルシフの分も作ってあげますから」
「うるせえ。お前が俺に甘いものをくれるときは嫌がらせだって分かってんだよ。去年のバレンタイン、『僕もチョコ作ってみたんです』とか言ってカレーのルー渡してきたの覚えてるぞ」
ルシフはクッキーを飲み込むと、改めてシェムに向き合った。
「お前は国に帰った方がいいと思う。王家が気に入らなくたって、お前が王子であることに変わりはねーし、お前だって国民を無駄死にさせたくはねーだろ」
「……そうだな……。でも……内乱を鎮めるとなると、第二部隊を率いて帰らなきゃいけない。もし、兄貴が言ってることが嘘で、第二部隊をユートピアで処刑する為の罠だったら……?」
「シェム……。俺は嘘なんて吐いてない」
「信用できるわけないだろ!!」
シェムが急に兄へ怒鳴ったので、僕とルシフはビクンッとして息を詰まらせた。シェムはハッと我に返ると
「悪い。大きな声出して……」
と俯いた。
「ずっと息苦しかった。国王の息子であることに重圧を感じてた。そんな俺にとって第二部隊は心が安らぐ唯一の居場所だったんだ。あいつらのことが大好きだった。それを奪っておいて、まだ信じろって言うのか?今も第二部隊は俺の居場所だ。今も第二部隊を愛してる。もう奪われるのは嫌なんだ。だからイブ兄。もうこれ以上、俺たちを傷つけないでくれ……」
シェムの声は今にも泣き出しそうだった。
「信じてもらえないと思うが……俺もお前を傷つけたいわけじゃないんだ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
「お前を、守りたかったんだ」
「……どういう意味だ……?」
シェムは潤む目でイブを睨みつけた。
イブは拳を強く握りしめると、シェムの目を見てはっきりと告げた。
「あの日……、母さんはお前を殺そうとしていた」
「は……?」
シェムが持つ煙草から白い灰がぱたりと落ちた。
「第二部隊の魔族を処刑すればお前は必ず取り乱す。処刑場に乱入するなり、母さんに歯向かうなり、何らかの行動を起こすだろう。そこでどさくさに紛れてお前を殺せば、第二王子が暴れるのでやむを得ず殺してしまった、という口実が出来上がる。それが母さんの目的だった。
俺はそうはさせたくなかった。それで、俺はあの日お前を母さんに内緒で国外に行かせた」
「だからって……俺の仲間を見殺しにしたのは変わらないだろ……」
シェムの表情には明らかに動揺の色が見えた。対してイブは極めて冷静に話を続けた。
「あそこで処刑を阻止しても、日を改めてまた同じことが起こる。それも、お前も第二部隊も全員殺されるという最悪な形でだ。
だが、処刑が終わってしまえば、お前を殺す口実はなくなる。そう何度も魔族たちにクーデターの疑いをかけ、虐殺を繰り返せば、母さんの方がでっち上げを疑われ、他国からの信頼は失墜するからな。一度虐殺事件が起こってしまえば、しばらくはお前の安全は保たれる。その為に、彼らに犠牲になってもらった」
「なんだよ、それ……あいつらが死んだのは、仕方がなかったってことかよ……。そんなの、許せる訳がない……。
俺は……そんな風に助けられるくらいなら、あいつらと一緒に死にたかった……!!」
シェムに掴みかかられても、イブが表情を変えることはなかった。
「お前の仲間がそれを望まなかったんだ」
とイブは言った。
「彼らは自分たちが殺される日を知っていた。
『我が主の為ならば、命など捧げてやりましょう』と、最初にそう言い出したのはザゼルだった。
魔族たちは皆、それに賛同した。
お前は彼らを仲間と呼ぶが、彼らにとってお前は護るべき主君だ。自分の命を投げ出すことに何の躊躇いもない……その忠誠心は見ていて恐ろしさを覚える程だった。
あの日、条約調印にザゼルたちがついていかなかったのはそういう理由だ」
「そんなの……嘘だ……」
シェムの顔がみるみる青ざめていく。
「母さんは予定通りに魔族たちを殺した。
だが、ザゼルだけはすぐに殺すことはしなかった。お前が昔からザゼルに一番の信頼を寄せているのを知っていたからだ。お前をおびき出す為に、じわじわと嬲り殺すつもりだった。
だけどやがて、お前がいないことに気がつき、途中で殺すのをやめた。
だから、犠牲になると最初に言い出したザゼルだけが皮肉なことに生き残ってしまった。
そのザゼルからしたら、お前に『一緒に死にたかった』と言われることほど辛いことはないだろう」
シェムはじっと我慢するように強く唇を噛み締め、兄の話を聞いていたけれど、遂に抑えきれなくなった涙が目からぽろぽろと零れ落ちた。
はぁ……と真っ先に溜め息を吐いたのはルシフだった。
「いい歳して泣くなよ。お前が自分を責める必要はない。お前の仲間は、自分の意思で、死にたいから死んだんだ。別に自分で殺したわけでもねーんだし……」
ルシフの言葉を聞いて、先生の顔がふっと頭に浮かんだ。
先生もそうだ。
自分の意思で、ルシフに『殺してくれ』と頼んで、死にたいから死んだ。
シェムの穢れのない涙を見ていると、先生の僕らへの想いもとても残酷なものである気がしてきた。
「イブ兄……、なんで俺たちがこんな思いしなきゃいけないんだ……王妃は俺の何がそんなに気に入らないんだよ……」
「何が気に入らないとか、そういう問題じゃない。母さんは、お前たちが生まれてきたこと自体を恨んでるんだ」
「は……?俺たちを生んだのは母さんだろ!?意味がわかんねえ……。大体さっきから、母さん、母さんってあの人は兄貴の母さんじゃないだろ……!」
「俺の母さんだよ」
と、イブは確かにそう言った。
「……え……?」
シェムの表情が困惑に包まれる。
「あれは俺の母さんだ。身体は間違いなくお前たちの母親だけどな」
「……どういうことだよ」
「母さんはずっと昔に死んだ。だが、肉体が無くなっても、魂が死にきれなかったんだ。恐らく誰かからそういう呪いをかけられていたのだろう。それで、お前たちの母親の身体を乗っ取ってしまった……」
「じゃあ……、つまり、イブ兄の母さんの魂が俺たちの母さんに取り憑いてるってことか……?」
「簡単に言えばそういうことだ」
「なんで、それを今まで俺たちに黙ってたんだよ……!?」
「言ったところでどうなる?」
「俺たちに言ってくれれば、成仏させる方法を一緒に探したりとか、出来ることがあったかもしれないだろ……!」
「母さんは王妃の肉体を人質にとっているんだぞ。成仏なんてさせようとすれば、お前たちの母親の肉体を壊して別の奴に取り憑くと脅してくる。
……母さんは復讐をしている最中だ。だから、少なくともそれが終わるまで王妃の身体から出てはいかないと思う。今まで散々こんなことはやめてくれと母さんへの説得を試みてきたが、全く歯が立たない」
「復讐って、何の復讐ですか……?」
僕はそう思わず口を挟んでしまって、しまったと思ったけれど、イブは普通に答えてくれた。
「まず、アルストロメリア家への復讐だ。母さんは自分の死後すぐに父さんが今の王妃と再婚し、3人の王子が生まれたことにひどく嫉妬している」
「それで、アスを拷問したり、レヴィを国外追放したり……というわけか」
とルシフが相槌を打つ。
「次に、魔族への復讐。母さんはかつて、前魔王と愛を誓い、婚約していたらしい。それをサタン帝国の都合で破棄され、それがきっかけで魔族たちを恨むようになったそうだ」
前魔王……ってことは……。
イブの母親が、僕の父と婚約してたってことか……。
「それから、魔法屋への復讐」
いきなり自分たちの名前が出て、僕とルシフは
「えっ……?」
と声を上げてしまった。
「知らなかったか?先代の魔法屋は、母さんの義理の弟だ。あの大魔導師はユートピアの筆頭貴族だった母さんの家で養子として育ったんだ」
「ええぇえっ!?」
と、つい大声で驚いてしまったが、よく考えたらそんなに不思議でもないか。
先生がエデンの騎士団長やサタン皇帝と仲が良いのって、シンプルに考えれば貴族階級の家で育ったからだよな。
「優秀すぎる弟のおかげで母さんは両親から疎まれて育った。それが原因で母さんはとにかく魔法屋を嫌っていて、弟子である君たちもこの世から消し去りたいそうだ。特に、魔王の子である君のことをな」
名指しされ、背筋がぞくりとする。
イブの母親にとって僕は、元彼の一人息子で義理の弟の愛弟子……。なんだかややこしいけど、僕の生い立ちが恨みを買っているのは間違いない。
「境界への侵攻も、境界教会の始末という目的だけでなく、君たちの命を狙ってのことだと思う。魔法屋の弟子が境界にいるという情報を得て、潰してやろうと考えたのだろう」
「完全に逆恨みじゃねーか……」
僕の代わりにルシフが舌打ちする。
「なんだかどんどん厄介なことになってきましたね…」
僕も深く息を吐く。
事務所がどんよりとした雰囲気になっていたそのとき。
ガチャッ、ガタン、ガッシャーン!!
店の方から物凄い音がした。
僕らは慌てて店を覗き込んだ。
銀色っぽい長髪の男が、よろよろと事務所の方へ向かってきていた。
シェムが駆け寄って、前のめりに倒れかけたその男を抱きとめた。
髪は乱れていて、服は血の色に染まっていた。
「ザゼル!?おい、どうした、一体何が……」
「……シェム、さま……。大変です……第二部隊が、襲われて……」
「襲われた……?誰に……」
シェムに支えられているザゼルの背中には、ドラゴンのような銀色の羽根が生えていた。これがザゼルの変化が解けた姿なのだろう。その羽根は左右非対称の形、というか片方は捥がれたみたいな歪な形をしている。
そしてもう片方の羽根に、敵襲によるものと思しき生傷がたくさんついてボロボロになっていた。そのボロボロの羽根と背中に、無数の小さな注射器が突き刺さっている。
僕はその注射器をじっと見つめた。
注射器には、鮮やかな赤い液体が入っている。
これって……。
僕はハッとしてシェムの腕を強く引いた。
「ザゼルから離れて!!」
シェムの支えを失い、ザゼルはその場に崩れ落ちた。
「何だよ突然……!!」
「あの注射器の中身……多分魔法使いの血液です」
ザゼルは僕のその一言に、衝撃を受けた表情を浮かべていた。自分の背中に撃ち込まれているものが何なのか、僕が言うまで分かっていなかったみたいだ。
「魔法使いの血液……?それの何がヤバイんだ?」
とルシフが聞いてくるので僕は答えた。
「魔族は契約者の血液を体内に採り入れることで力を解放できる。でも、契約者以外の血液を大量に注入されると、魔族の身体は順応できなくて、暴走してしまうんです……!」
そんなことを説明している間に、ザゼルの身体が痙攣を起こしたみたいにビクン、ビクン、と激しく震え始めた。
ザゼルがもがき苦しみ出す。
床に、ミシミシとヒビが入る。
「シェムさま……早く、私から、逃げ、て……うっ…ああ……っ……!!」
ザゼルの皮膚が硬くざらついた質感になっていき、羽根はメキメキと異様な音を立てながら大きくなっていく。
「ザゼル!!」
近寄ろうとするシェムを僕は乱暴に後ろへ突き飛ばした。
「下がって!!」
ザゼルの身体はむくむくと巨大化し、肌の色が変わり、尻尾が生え、手足が変形して……最終的にそれは、銀色の竜になった。
竜は雄叫びに近い鳴き声を上げると、僕たちに向かって蒼い炎を吐いた。
ルシフが僕から杖を奪い取り、結界のように魔法陣を張って、なんとか炎を防ぐ。
「おい、ベル!!ザゼルは元に戻るのか……!?」
「体内に入った血液の分の魔力が消耗されれば自我を取り戻すはずです……!」
「じゃあ、この暴走を食い止めながら時間が経つのを待てばいいんだな……!?」
「はい……!」
僕たちがザゼルの動きを抑えようとしていると、ドンドンと外から壁を叩く音がした。
窓から見えたのは町内会の人々だった。
「なんだ……?こんな時に回覧板でも渡しに来たのか…?見ての通り俺はそんな悠長なことしてる場合じゃねーんだよ……」
「回覧板にしては人数が多くないですか……?壁を叩く意味もわかりませんし……」
どう見てもそういう和やかなものではない。人々の目は虚ろで、動きは操り人形のよう。
こういうものをどこかで見たことがある。
ああ、そうだ。ゲームだ。
バイオハザードだ……!!
「ルシフ、これ……ゾンビじゃないですか!?」
「は!?ゾンビ!?なんでこのタイミングで!?」
「いや、もしかしたら、そもそも第二部隊を襲ったのもこのゾンビたちだったのかもしれませんよ……!」
ゾンビたちの壁を叩く音が激しくなる。
このままじゃ魔法屋が壊される……!!
「俺が外の奴らを食い止める」
イブがそう言って、魔法屋の2階へと階段を駆け上がっていった。
「食い止めるって、どうする気だ!!あんなゾンビ共を相手にするなんて無茶だぞ!!」
ルシフがイブに呼びかけたが、全く聞く耳を持たない。
「ザゼルは俺がどうにかする。魔法屋、お前らはイブ兄の援護を……!」
シェムが僕たちを押し退けて竜の前に立ちはだかる。
「お前一人でどうにか出来るのかよ……!」
「出来るとか出来ないとかじゃない。やるしかねーんだ。
俺は、ユートピア魔法軍第二部隊隊長で、こいつの主君だからな。
……今度は俺が、こいつを助ける番だ」
シェムは手のひらをザゼルの方へと向けた。
その手に大きな黒い魔法陣が現れる。
「出でよ、《鳥籠》」
シェムが唱えた通りに魔法陣から黒い籠が出現し、ザゼルを中に閉じ込めた。
ザゼルは籠を破壊しようとして暴れ出す。
シェムがぐっと手に力を込めると、籠はさらに頑丈な造りに変わった。
「早く行け!!」
そう叫んでシェムが僕らを突き飛ばすと、大きな鳥籠がもう一つ現れ、シェムとザゼルの2人だけを覆い、その中へは入れなくなった。
僕たちはイブを追いかけて階段を駆け上った。
2階へ、さらに屋根裏へ。
屋根裏部屋の窓は開け放たれていた。
カーテンが風に揺れている。
イブはRPGの勇者のように大剣を背負い、窓枠に足を掛けた。
マントが翻る。
人々が狂ったように蠢く中に、イブは躊躇なく飛び降りた。
僕は窓から下を覗き込んだ。
鞘から引き抜かれたイブの大剣は氷に包まれていた。
斬りつけられた人々が次々と氷漬けにされていく。
「ルシフ、僕たちも行きましょう!」
僕は顔を上げて振り返った。
ブシュッ。
何かグロテスクな音がした。
見ると、ルシフのズボンの右ポケットに、血がじわりと滲んでいた。
ルシフは血の滴る右足を見つめながら、そっとポケットから写真を取り出した。
その瞬間、写真の中から黒い鴉の大群がバサバサと飛び立った。
ルシフがビクッとして写真から手を離すと、写真は風に飛ばされていった。
鴉は迷うことなく一直線に窓の外へ出て行った。黒い羽が部屋の中に舞い、僕らは咄嗟に目を瞑る。
鴉が飛び去り、僕たちが目を開けたとき。
薄紫色に染まった夕暮れの空を背景に、ひとりの少女が窓に腰掛け、こっちを見つめていた。
フリルやリボンで飾られた黒いワンピースを纏っている。
写真に写っていた、あの少女だった。
不気味に漂う妖しさと途轍もない狂気を感じて、僕は一歩後ずさった。
彼女は微笑を浮かべ、部屋に降り立った。
不意に僕の後ろで紅い光がちらついた。
いつの間にかルシフが杖で魔法陣を描いていたからだ。
ルシフの目には只ならぬ殺気が籠もっていた。
魔法陣から紅い稲妻が走るのと同時に、少女もルシフとそっくりの……いや、ルシフ以上に複雑な魔法陣を描いた。
少女の魔法陣から放たれた閃光が、一瞬にしてルシフの魔法陣を突き破った。
ルシフの身体はふっ飛ばされ、壁際の本棚に叩きつけられた。その衝撃で、本がドサドサッとルシフの頭に降ってくる。
僕は思わずルシフに駆け寄ろうとしたけれど、足が錘をつけられたみたいに重たくなっていて、全く動かせない。
痛そうに頭を押さえるルシフの方に少女は歩み寄った。
少女は不気味な笑みをたたえたまま、ルシフの顎を撫でるように持ち上げ、そっと耳元で囁いた。
「久しぶりじゃのう、小僧」
そして、彼女はルシフの頬に優しく口づけをした。
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