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レイディ・ニコラ、忘れ得ぬ夜に君と、偽りの愛を

「ええと、いつものむぎゅううう、は、やめたほうがよろしいかしら?」

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「オ・ル・ブ・ラ・ン・ト、でございます」
 こころなしか執事の顔が緊張の度合いを増している。空気がやたらめったらに重い。まるで腹に重石を溜め込んだかのようだ。
「お怪我をなさっておいでとのこと。同行の方もどうぞこちらへ。御屋形様ミロードがお見えでございます」

 執事は皺深い顔をしゅうう、としなびさせてチェシーを見やった。いかにも空を使った様子が失せ、代わりに内心をまるで伺わせない動作で慇懃にいざなう。
 存在を聞いていないわけでもあるまい。何か含むところがあるのだろう。チェシーはひそかに肩をすくめる。

「戦利品だ。慎重に扱え。くれぐれも素手で触るなよ」
 ぞんざいに腰鞄をはずし、放り投げる。執事は無言で受け取った。


「ニコル、ご苦労だったな」

 館に入ると、正面の階段から、豪奢な金の刺繍をほどこした深緑の上着をゆったりとはおった男が降りてくるところだった。ニコルの義理の父、大アーテュラス卿である。

 傍に、手に白い扇子を持った女性を付き添わせている。

 春の花をふんだんに散らしたオリーブ色のローブ。三角に高く結い上げた金髪の先に、黒地に花柄のレース帯を巻き付け、腰の辺りまでくるくるとカールさせなびかせた様は、まるで別注のかつらのようだ。

「義父上、義母上。ニコル・ディス・アーテュラス。ただいま帰参仕りました」

 ニコルは胸に拳を当てて敬礼する。アーテュラス卿は当初、どこかにこにこ、いそいそと子煩悩な顔を見せてはいたものの、一見してひどい負傷であると見抜いたか、すぐにいかめしい顔に変わった。執事を呼び寄せる。

「挨拶は良い。すぐ医者に診せなさい。あとのことは私にまかせて」
「まあ、ニコルさんの足が。足が。どうしましょ、あなた、とんでもなく大変ですわ……あああ、すっごく痛いんじゃありませんこと?」

 階段を駆け下りてきた金髪の女性は、ニコルに飛びつこうとして、ぴた、と足を止めた。

「ええと、いつものむぎゅううう、は、やめたほうがよろしいかしら?」
 ニコルの足に巻かれた包帯よりも、なぜか背後に立つチェシーの顔色をちらちらと伺っている。

「義母さまのせっかくのお召し物が汚れますので、また、後ほど。それより」
 ニコルは痛む足をこらえながら、ぎごちなくレディ・アーテュラスの前に膝を折った。手を取ってかるく口づける。それから立ち上がって耳にくちびるを寄せ、ひそひそと秘密の言葉をささやき入れた。

「ええ、ええ、それぐらい分かってますわ。いじわるね」
 レディ・アーテュラスが、おっとりと優しそうな青い瞳をまるく見開いて不満そうに言いかける。

 黒燕尾の執事が慇懃に空気をさえぎった。
「ニコルさま、お部屋へどうぞ。医者を待たせてございます」

「うん、ありがとう」
 ニコルは礼を言ってから、階段を二、三段上がった。チェシーのことを思い出し、振り返る。

 チェシーの立つ位置から見上げると、ちょうどニコルの背後は階段の踊り場になっていた。巨大な肖像画が掛かっている。

 薔薇の瞳。母と赤子の絵だ。光と影のやわらかな陰影が、窓から薔薇十字のかたちとなってかげり落ちている。背景は深紅のベルベットクッションを積み上げたソファ。ローゼンクロイツの紋章が模様として描き込まれている。膝に眠る赤子の手には、赤と、青と、白の光。

「絶対待っててくださいよ、チェシーさん。僕も行きますからね、査問会」
 ニコルは、なぜか急に心もとなくなって念を押した。チェシーはうなずく。
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