無いもの貸し升!損料屋

紫 李鳥

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 その頃、裏長屋では、遊び人安吉やすきちの刺殺死体が、湯屋ゆやから戻った内縁の妻、おえんによって発見された。

 岡っ引きの兵治へいじは、下手人げしゅにんとして、隣の住人、太助を引っ張った。

 太助は、安吉にお金を貸していたという、お苑の証言により、借金を返さない安吉に逆上して包丁で刺した、と兵治は見た。

 一方、太助のほうは、

「俺は殺ってませんよ、風邪で寝込んでたんですから。それにお金も貸してません。何かの間違いですよ」

 と、風邪で寝込んでいたことと、お金の貸し借りはなかったことを主張した。

 だが、お苑の証言を鵜呑みにした兵治は、聞く耳を持たなかった。



「……ごめんください」

「あいよっ!」

 外股で奥から出てきたお沙希は、お稲の顔を見た途端、慌てて内股に変えた。

「これはこれは、いらっしゃいませ」

「お金、遅くなって申し訳ございません」

 お稲は深々と頭を下げた。

「あっ、あれね?なんか要らないそうです」

「は?」

 巾着を出したお稲が唖然あぜんとした。

「番頭さんいわく、鍋に杓子しゃくしが付いて十九文だそうです」

「……でも」

「ほんとにほんとに。さあさあ、しまってしまって」

「ありがとうございます」

 お稲が頭を下げた。

「……太助さん、お元気ですか」

「……」

 途端、お稲の顔がくもった。

「どうかしたんですか……」

「……しょっぴかれました」

 お稲はつらそうに下を向いた。

「えっ!どうして?」

 お沙希は、丸い目を更に丸くした。

「……殺しで」

「えーっ!だ、誰を」

 お沙希は、めまいを覚えた。よりによって、好きになった男が人殺しだなんて。この恋は成就できないのかと、一瞬、手にした刃物を首に近づける己れの姿が目に浮かんだ。

「隣に住んでいた安吉という遊び人を」

「……」



 お稲から概要を聞いたお沙希は、早速、安吉とやらの身辺調査を始めた。――

たちの悪い男だったわよ。みんなで言ってたのよ、“触らぬ神にたたりなし”って。ね?」
「そうそう。それより、濡れ衣で太助さんがしょっぴかれて、お稲さんも気の毒よね」

 井戸端で洗濯中の丸髷まるまげ二人は、確かな情報の提供者のようだ。

「……なんで、濡れ衣だと?」

 地味めの小紋で島田に結い、化粧で老け顔にしたお沙希は、太助の親類を装うと、冷静を努めた。

「だって、いい男だもの。私があととお若かったら、もう放っておかないんだけどね」
「あたいだってそうだよ。うっとりするような色男だもん。人殺しの顔じゃないわよ。あんたもそう思うだろ?」

「ええ。で、お苑という女のほうは?」

 お沙希が訊いた途端、二人は目配せすると、

「どれどれ、洗濯もんを干さないと」

 いそいそと腰を上げた。

 ……何かあるな。自分で調べるしかないか。お沙希は外股で番屋に向かった。――



「あ、〈無いもの貸し升〉のお嬢さんじゃねぇですか。こりゃ、どうも」

「こりゃどーもじゃねぇよ。おう、兵治。太助をしょっぴいたらしいが、確固たる証拠はあんのか?」

「……そりゃ、あるさ。お苑の証言よ」

「その、お苑とやらは内縁の妻らしいじゃねぇか。そんな女の証言は信憑性しんぴょうせいに欠けるんじゃねぇか?」

「……けど」

「けどじゃねぇよ。本人は風邪で寝てたって言ったろ?」

「……なんで知ってんですか?」

「なんでって、太助のおふくろがうちに来て、鍋を借りに来た理由を教えてくれたからよ」

「……の振りをした可能性もあるじゃねぇですか」

「こう見えても、私の目は確かだ。あら~、めんこいわね~って言われてた頃から、いろんな人間を見てきたんだ。太助は人殺しの顔じゃねぇ。私が保証するよ。早く、お縄をほどいてやりな」

「……けど」

「けどじゃねぇよ。太助を家に帰さねぇと、お前さんの秘密を隣近所に言いふらすよ」

「えー?それだけはやめてよっ!」



「太助、おかえり。よかったね、無罪放免になって」

 お稲は嬉しそうに太助を迎えた。

「ああ。だがどうして、突然、無罪になったんだろ……」



 一方、太助が無罪になったことを知ったお苑は、苦虫を噛み潰したような顔で、切歯扼腕せっしやくわんした。

 お苑は、年の頃は二十五、六ってとこだ。鼻筋が通ってっから、ま、いい女の部類だ。

 仕事はってぇと、盛り場の矢場で矢場女をしてましてね。

 矢場ってぇのは、楊弓場ようきゅうばのことでして。客が、二尺八寸(約85センチ)の楊弓で、九寸(27センチ)の矢を射るわけですな。

 矢場女ってぇのは、客の射った矢を拾ったり、「当たり~」と声をあげ、矢を戻したりするんですが、ま、この矢場女は色を売っているという噂も無きにしも非ずでして。――


「お~、こりゃあ、めんこいのう。名は?」

 矢場の店主は、面接に来たお沙希を見てご満悦だ。

「おサッキーと申します」

「うむ……、斬新な名じゃのう」

「はい。サッキも言われました」

「……で、どうしてまた、矢場女になろうと?」

「はい。父ちゃんも母ちゃんもいません。親戚に預けられて、はや二十年。私を育ててくれた叔母おばさんに、感謝・感激・雨・アラレちゃんです。そこで、叔母さんの教育方針で培った奉仕の精神が、何か人の役に立ちたいという、燃えたぎる情熱を――」

「で、なんで、矢場女になろうと?」

「ステキな人に射止められたくて」

「ん~、粋だね。じゃ、明日から頼むよ」

「合点でい!」

「……」

 作り話とは言え、おしとやかだったのは最初のうちだけだ。ったく、最後には地が出ちまって、も。店主も呆れ顔だ。
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