下駄

紫 李鳥

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「井川、行くぞ」

「はいっ!」

 井川がクリーニングから出したばかりのコートを手にした。


 森崎の家に行くと、黒いビニール袋を、ソファの横に置いていた。

「どういうことですか」

 山根が訊いた。

「電話で言った通りですよ。刑事さんに電話するちょっと前、玄関のブザーが鳴ったんで行ってみたら、誰も居なくて、金が入ったこの袋があったんですよ。ビックリしたのなんのって」

 井川より後方に居た山根は、森崎の名演技に噴き出しそうになるのを堪えていた。

「で、メモか何かありましたか」

 井川の手前、山根は真剣な顔をした。

「あん、あ、いぇ」

 台本にはなかった山根の質問に森崎はあたふたしていた。それがまた可笑おかしくて、山根は噴き出しそうになった。

「で、金は全額戻ったんですか」

 山根が真面目な顔に戻した。

「はい。一千二百万、ピッタリありました」

「うむ……」

 山根は考える顔をすると、几帳面にメモを取っている井川を横目に、森崎と目を合わせてOKサインのジェスチャーをした。



「どう言うことですかね?」

 ハンドルを握った井川が腑に落ちない顔を向けた。

「うむ……。分からんが、金が戻って、本人も被害届を取り下げたんだ。事件解決と言うことになるだろ。打ち上げて呑むか?」

「そうですね」

 井川が白い歯を覗かせた。



 居酒屋で呑んで帰った山根は、上機嫌の酔漢すいかんだった。

「おーい。親父さん、金が戻ったそうだ」

 ネクタイを外しながら杏子に教えてやった。

「えっ?」

 杏子が訳の分からない顔を向けた。

「……自分の金を用意したんだろ。いいとこあるじゃないか。親父さんに感謝しろよ」

「フン、自分の不始末だもの、当然じゃない」

 冷たく吐き捨てた。

「そんな冷たいこと言うなよ。可哀相に。……ちょっとおいで」

 山根が手招きした。

「何よ?わっ、臭い」

 杏子が鼻をつまんで臭いを手で払った。

「キムチ鍋食べてきた」

「わっ、酒臭い。お腹の子も臭いって言ってるわ。ね、箪笥たんすに背広入れないでよ。他のに移るから」

 杏子は嫌な顔をして、寝室から出て行った。

「チェッ。あの頃の色気はどこに行ったのでせう・・……。“女は弱し、されど母は強し”か」

 山根は欠伸あくびをすると、布団に潜った。



 ――式は杏子の家で執り行われた。署長夫妻に仲人を頼むと、山根は井川を筆頭に数名の上司と同僚を招いた。杏子の方は、春代ら句会の会員を数名招いた。娘の晴れ舞台のために奮発したのか、森崎は真新しいスーツを着ていた。だが、それをひけらかすこともなく、壁際の座卓の隅で石仏せきぶつのようにじーっとして、時々、寿司や仕出し弁当を突っついていた。

「あれっ、森崎氏が居ますよ」

 酒で顔を赤くした井川が余計なことに気付いた。杏子と森崎が親子だと言うことは伏せていた。正直に喋って、わざわざ余計な邪推をさせる必要もない。

「ああ。女房が主な会員を招いたからな。だから、ほら、春代女史も居るだろ?」

 紋付袴もんつきはかまの山根はまるで、襲名披露しゅうめいひろうの親分みたいな貫禄かんろくを見せていた。

「……なるほど。どうりで知った顔があるわけだ」

 井川は納得すると、署長の女房と語らう角隠つのかくしに白無垢しろむくの杏子に顔を戻した。

「……綺麗ですね」

 つくづくと言った。

「……いつもああやって、おしとやかに角を隠してくれてるといいんだが……」

 山根が愚痴ぐちをこぼした。



 皆が帰った後、森崎だけが残り、寂しそうに升酒を傾けていた。そんな森崎に、杏子は声の一つも掛けてやらなかった。森崎はおもむろに腰を上げると、二人の前にやって来た。

「……ご結婚、おめでとうございます。……お幸せに」

 森崎は俯いたままで、頭を下げると、ゆっくりと背を向けた。

「……野菜をたくさん食べて。風邪予防になるから」

 杏子が森崎の背中に声を掛けた。森崎は足を止めると、背を向たままでお辞儀をした。

「……寝る前に、牛乳を飲むといいわ。骨を丈夫にするから」

 杏子の更なる言葉に、森崎は再びお辞儀をした。

「……子供が生まれたら、……連れて行くから」

 杏子は涙を溜めて、精一杯の言葉を掛けた。森崎はゆっくりと頭を下げると、客間を出ていった。憂いに沈んだ横顔の杏子を、山根は優しく抱き寄せた





 ――金太郎の腹掛けを手土産にした森崎が杏子の家に訪れたのは、青葉の頃だった。


 吾子あこ抱きて
 そっと手を添ふ
 野菊かな


 のちに山根が詠んだ句である。――








  完
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