蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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風裂の廃寺

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廃寺の朽ちた門をくぐると、冷気が足元から這い上がってきた。
空気は重たく、湿っている。薄く霧が立ち込め、かすかに苔と焚き火の匂いが混じっている。

「ここから先は、結界が張ってある」

老婆が立ち止まり、背後を振り返った。

「これは……わしが張った結界じゃ。わしの近くにおらねば、力に弾かれて吹き飛ばされるぞい」

その目は冗談を言っているようで、まるで本気だった。

茗渓と怜綾は顔を見合わせると、黙って老婆のすぐ背後へついた。

内部へ足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わる。
まるで時の流れが滞ったような、静かで異様な空間――廃寺の中は暗く、そこかしこに崩れた瓦礫が転がっていた。

「わ……っ!」

思わず声を上げたのは茗渓だった。濡れた床に足を取られ、つるりと滑りかけたのだ。

その瞬間、彼女の身体を支えたのは、怜綾だった。

「っ、大丈夫か」

「う、うん……」

怜綾はしっかりと茗渓の身体を支え、元の体勢へと優しく戻す。

「足元が濡れている。気をつけろ」

「……ありがとう」

茗渓は顔を伏せた。
怜綾の腕の中に一瞬だけいたというのに、心臓の鼓動はやたらとうるさくなっていた。
彼に気づかれなかっただろうか――そんなことを思いながら、そっと唇を結ぶ。

怜綾もまた、無言で前を向いた。
抱きとめた彼女の体温が腕に残っている気がして、なんとも落ち着かない。

そんな二人をよそに、老婆は歩を進めながら、ぼそりと呟いた。

「ここはな……かつて“風裂の廃寺”と呼ばれ、陰陽師たちの“禁呪”の儀式が行われていた場所じゃ」

その声はどこか遠くの記憶を辿るようだった。

「月呪、命呪、封印、転生……冥月之書に記された術の幾つかは、ここで実際に試されたと言われとる。代償も大きくのう。命を落とした者も数知れぬ」

風が廃寺の梁を揺らし、どこかで古びた扉がギィと鳴った。

「ここは……呪いの生まれた地でもあり、呪いが還る場所でもある。お主たちが抱える“呪い”の真実――その欠片が、きっとこの奥に眠っておるじゃろう」

老婆の声に導かれながら、怜綾と茗渓は廃寺のさらに奥へと歩を進めた。

暗い中、濡れた石畳を踏むたび、ぴちゃりと音が響く。

だが二人の胸にあったのは、恐れよりも――確かな“決意”だった。

廃寺の奥へ進むごとに、空気は一層冷たく、重くなっていった。
どこかで蝋燭の火が微かに揺れ、壁には古びた呪陣が残されている。
削れた床板、血のような痕、歪んだ文様。
ここでかつて行われた「何か」が、今もなお、この場所に息づいているかのようだった。

「……これは」

怜綾が足を止め、壁に残された黒い手形のような痕に目をとめる。
それは生々しく、焼き付いた呪いの叫びのようだった。

「過去に何人もの者が、“それ”に触れようとしたのじゃ。だが……そのほとんどは命を落とした」

老婆が低く呟いた。

茗渓と怜綾は黙って頷き、さらに奥へ進んだ。

やがて一つの行き止まりにたどり着く。
古びた石壁――ただの壁にしか見えないその前で、老婆はぴたりと立ち止まった。

「ここじゃ」

「え……?」

茗渓と怜綾は顔を見合わせる。
そこには何の扉も、通路もなかった。ただの石の壁。だが――

老婆は静かに、両手のひらを壁に当てた。

「《……リィ・カン・イェ・ザオ・ル……》」

耳慣れぬ言葉が口からこぼれ落ちた瞬間――
壁全体が淡い光を帯び、空気が震えるようにざわついた。

そして――

眩しい光が、視界を覆った。

茗渓は思わず目を閉じ、顔をかばう。
次に目を開けたとき、そこに老婆の姿はなかった。

「え……?」

代わりに、そこに立っていたのは――
漆黒の羽を思わせる装飾がついた、深い黒の法衣に身を包んだ中年の女性。
その背はすっと伸び、長く流れる黒髪には、ところどころ白い糸のような筋が混ざっていた。
瞳は月光のような銀色に光り、どこか現実離れした存在感を放っている。

茗渓が息を呑み、つぶやく。

「……貴女は、もしかして……烏瓏(うろう)様……?」

その問いに、女性はふっと微笑んだ。

「如何にも。久しぶりに“その名”で呼ばれたわ」

その声は不思議な響きを持ち、耳の奥まで届くようだった。
長い時を超えて封じられていた何かが、今、確かに動き出した――
そんな感覚が茗渓と怜綾の背中を走った。

そして烏瓏は、振り返りながら静かに片手をあげる。

彼女の前にあった壁の一部が、重たい音を立てて横に滑るように動く。
現れたのは――月と蛇の紋様が刻まれた、古びた黒い扉。

蛇が月を絡め取るように這うその意匠は、禍々しくも美しく、どこか妖しさすら漂わせていた。

「ここに入る覚悟はあるか?」

烏瓏は二人を振り返り、静かに言った。

「お前たちの命運は、この先の扉に繋がっている」

その声に、茗渓も怜綾も、無言で頷いた。
そして、月と蛇の扉が、ゆっくりと開かれていった――
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