蘭妃は冷宮生活を満喫中!〜呪いの猫皇子とフシギ生活〜

明夏 向日葵

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茗渓の体に鉄の刃が振り下ろされようとした、その刹那——

「ッ!」

鋭い金属音と共に、飛来した何かが短剣を弾き飛ばした。

「……何?」

雨魘が目を見開く。その足元に落ちたのは、朽ちた木製の杖。

「お主、いい加減にせい!!」

重く響いたその声に、雨魘の背がびくりと震える。

「し、師匠……!? なぜ、ここに……っ」

影の奥から現れたのは、怒気に満ちた烏瓏。背筋を正したその姿は、齢を重ねた身でありながら、霊圧に満ちていた。

「どうしたもこうしたもあるか! どこまで悪の道に堕ちれば気が済むのじゃ、雨魘!」

「ですが、これは……呪いを完成させるために必要な……!」

「馬鹿者!!」

杖を突き、床を叩く音が響く。空気がびりびりと震えた。

「人の命を弄ぶことが、“完成”などと呼べるものか! お主はいつから“愛”を切り捨てたのじゃ!」

言葉の応酬の裏で——怜綾は駆けた。

薄暗い室内の奥。鉄の椅子に縛られ、ぐったりとうなだれている茗渓の姿を見つけた瞬間、胸の奥を鋭く掴まれたような痛みが走った。

「……茗渓……!」

返事はない。彼女の顔には汗と血が滲み、腕や足には痛々しい痕が刻まれていた。

(……すまない、来るの遅くなって…。)

腰に携えた剣を抜き、鉄の鎖を一気に断ち切る。

がしゃん、と鈍い音を立てて鎖が床に落ちたその瞬間、怜綾は、茗渓の細い身体をそっと腕に抱き上げる。

「……こんなになるまで、耐えてくれたんだな……」

彼女は気を失っているが、眉根にはまだ微かな苦しみの痕が残っていた。

「もう……大丈夫だ。必ず、俺が守る」

そう囁くように言いながら、怜綾はその身をしっかりと抱え直し、烏瓏と雨魘の言い争いが響く中、迷いなくその場を後にする。

——手に抱く大切な人を、二度と失わないために。

幽蓮殿の古びた扉が開かれ、怜綾は茗渓を腕に抱えたまま、屋敷を後にしようとした。

だが——

「逃がしはせぬ……!」

その声とともに、背後から飛来する一閃の光。雨魘が投げ放った短剣が、まっすぐに茗渓の背を狙っていた。

「茗渓!!」

怜綾が振り返るより早く、閃光が空を裂いた。

「甘いぞ、小僧!」

風を裂いて飛んだのは、烏瓏の繰る呪術の光。

短剣は空中で見えぬ壁に弾かれ、火花を散らして地に落ちた。

「……行くのじゃ! 怜綾!」

怒声と共に、烏瓏は杖を突き立てた。

「ここのことは、わしに任せておきなさい。そやつには……少々きつい罰が必要なようじゃ!」

「……っ! 分かった!」

怜綾は一度だけ振り返り、深く頭を下げた。

「……ありがとう」

そして、愛しい人をしっかりと抱き直し、屋敷の闇を後にした。

夜の闇に沈む山道を、怜綾はただひたすらに駆けていた。

月光に照らされて揺れる白衣の裾。腕の中には、今にも消え入りそうな微かな息遣いの茗渓の姿。

「……茗渓」

その名を呼んでも、返事はない。閉じられたままのまぶた。血に染まった袖。触れた頬は、まるで霜夜のように冷たかった。

「しっかりしろ……茗渓……っ! もう少しで……もう少しで、怜花宮に戻れるから……!」

だが、歩を進めるごとに、彼女の呼吸は浅く、弱くなっていく。

怜綾の胸の奥に、冷たい恐怖が広がった。

(……いやだ)

胸が締めつけられる。耐えがたいほどの後悔が波のように押し寄せる。

「……君が、いなければ……」

声が震え、視界が滲む。

「呪いなんて……もう、どうだっていい……黒猫のままで消える運命でも、構わない……!」

白衣の裾を握りしめ、怜綾はその場に膝をついた。腕の中の茗渓は、かすかに唇を動かすような素振りを見せたが、すぐに力を失うように沈黙した。

「お願いだ、茗渓……」

怜綾の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。

「死なないでくれ……」

その声は、かすれながらも真っ直ぐだった。

「愛してる……茗渓。……君がいなければ、俺の人生に、何の意味もないんだ」

頬を伝う涙が茗渓の額に落ちる。

そして——

怜綾は、そっと茗渓の頬を包み、その唇に静かに口づけた。

深い祈りと、魂を捧げるような想いを込めて。

「……どうか、目を覚ましてくれ」

木々の隙間から、まるで奇跡のように一筋の月光が降り注ぐ。

その光が、ふたりをやさしく包み込んでいた。

茗渓の唇に触れたその瞬間——

空気が震えたような感覚が怜綾の体を包む。

風はぴたりと止み、木々のざわめきさえ、遠くに引いていったかのような静寂が訪れた。

月光が一層強くなり、まるでこの一瞬を祝福するかのように、光の粒が空中を舞い始める。

怜綾は、そっと顔を離すと、静かに囁いた。

「……目を覚ましてくれ、頼む。」

その言葉が風に溶けたとき——

怜綾の腕の中で、茗渓のまつ毛が微かに揺れた。

「……れ、い……?」

かすれた声。けれど、確かに聞こえた。

「茗渓!」

怜綾は思わず声をあげる。瞳を見開いた茗渓が、朧げながらも怜綾を見つめている。

「……あなた……なのね?」

「そうだ、俺だ。」

その瞬間、怜綾の胸の奥に何かが音を立てて崩れ、そして解き放たれるような感覚が広がった。

——そのときだった。

怜綾の身体を、淡く、けれど確かに強く包み込む“光”が現れた。

最初は、胸元から金色の光がふわりと溢れ、次第にその光は四肢へ、髪へ、全身へと広がっていく。

まばゆいほどの金光が、夜の闇を裂くように周囲を照らす。

「な、に……これは……」

茗渓は怜綾の変化に目を見張った。

その光の中で、怜綾の身体が柔らかく震えたかと思うと——

猫耳が、すうっと溶けるように消えた。

尾を成していた毛並みがふわりと空へほどけ、跡形もなく消えていく。

残されたのは、一人の青年——"怜綾”としての、本来の姿。

その瞳は人のものでありながら、深い慈愛と、猫の力の名残を湛えて静かに輝いていた。

「……人に……戻った?」

手を開く。指を握る。触れた自分の肌は、もう黒い毛に覆われてはいない。

それを見て、怜綾は息をのんだ。

「……愛隠の呪が……解けた……」

その言葉を呟いた怜綾の頬に、ふたすじ、涙が流れ落ちる。

茗渓は、まだ身体に痛みを残しながらも、微笑んだ。

「よかった……呪いが解けて……」

「……ありがとう。君が……救ってくれたんだ」

怜綾は、茗渓の額にそっと触れる。優しく、愛しげに。

「もう二度と、君を離さない」

弱々しくうなずく茗渓をそっと抱きしめ、怜綾は夜の空に輝く星を見上げた。

呪いは解かれた。

しかし、戦いはまだ終わっていない。

茗渓を抱きしめた腕に力を込めながら、怜綾は静かに誓った。

「今度は……すべてを守り抜く」

金色の光はなおもふたりを包み、夜明けは、確かに近づいていた。
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