そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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レミングの自殺1

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「日原」 
 
 そう名前をよばれた私が顔を上げなかったのは無視したからじゃない。空耳だと思ったから。

 放課後の美術準備室。先生に頼まれて本の整理をしていた私。白っぽくよごれた窓の向こうでは、熟れたオレンジ色の夕日が沈み始めていた。
 こんな時間に、こんな場所へ来る人なんていない。そう思ったから気にせず作業を続けたのだけど。
 
「……日原」
 
 もう一度、今度は少し苛立った声で呼ばれて、ようやくダンボールの山から顔を上げる。と。
 
「……」
 
 次の瞬間、停止する思考。
 油の匂いを含んだ、なまぬるい空気。そろそろ夏服の生徒が増えているというのに、きっちり着込まれたブレザー。
 立っていたのは、
 
「わ……忘れ、もの?」
 
 黒い革鞄を持って、私を見下ろしている黒崎くんだった。

 
 
(な、なんで黒崎くんがここに……!?)
 
 どきりと跳ねた鼓動が、一気に騒ぎ始めてこめかみを揺らす。聞こえるんじゃないかと心配になるほど大きな心臓の音。
 朝のやり取りから何度も頭の中で思い浮かべてきた顔。けれどこんな風に話しかけられるなんて想像もしていなくて。
 
 どうしよう。なんて返事しよう。
 言葉が見つからなくて、緊張だけが風船みたいにふくらんでいく。
 
 ……というか私、なんでこんなに緊張しているんだろう。
 
「あ、あの……」
 
 よろよろと立ち上がって、乾ききった唇を舐める。
 
「先生に用ならもう帰ったけど……」
 
 なんとか当たり障りのない言葉を口にして、30センチ以上高い位置にある目を見上げたけれど、黒崎くんは黙ったままだ。
 
 そのまま。 
 十秒。
 二十秒。
 三十秒。
 ……どんどん積もる時間が気まずい。

 重たい沈黙に耐えられず、何の考えもないまま口を開こうとした、時。
 
「………雑用?」
 
 言葉とともに、長い指がハードカバーの背表紙をなぞった。
 
「え?」
「だから、また押し付けられたんだろ。雑用」
 
 言葉の意味がわからず首をひねること数秒。ようやく雑用が本の整理のことだと気付いて手を叩く。要領の良くない私は何かと用事を頼まれることが多くて、今日にかぎらず日授業の準備だとかノートの回収だとかをよく手伝っていた。
 
「押し付けられたわけじゃないよ、ちょっとお願いされただけ」
「そういうのを押し付けられたって言うんだよ」
「そうなのかな。でも、おかげで綺麗な本をいっぱい見られるし。不幸中の幸いっていうか」
「…………」
 
 呆れたように目をふせて、丸っこい花瓶に生けられたヒマワリが表紙の画集を手に取る。
 やがて薄い唇がわずかに開いて。
 
「……馬鹿だな」
 
 こぼれ落ちた小さな声は、あざ笑うとか、軽蔑するとかじゃなくて。うまく言えないけど……優しい声だった。
 
「でも、先生が本を抱えて大変そうにしてたら手伝おうかなって気にならない?」
「全然」
「ほんの十分くらいでも?」
「手伝ったところで、何の得にもならない」
「だけど、黒崎くん傘貸してくれたよね。自分が濡れちゃうだけなのに」
「……その話はもういい」
 
 分厚い美術書を棚にしまいながら、ぽつりぽつりとしゃべる私と黒崎くん。
 私のことを馬鹿だって言ったはずなのに、大きな手はしっかり整理を手伝ってくれていて(指摘すれば帰ってしまいそうだからなにも言わなかったけど)。
 
 不思議。
 あれだけどう話そうかと悩んでいた黒崎くんと、今、普通に会話している。
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