そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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レミングの自殺3

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「もう5時半だ、そろそろ帰るか」
「あ、そう……だね」
「日原、鞄は」
「大丈夫、隣に置いてるから」
 
 美術室に置いていた鞄を持って廊下に出ると、黒崎くんは壁にもたれて携帯を操作しているところだった。
 目が合った瞬間、顔に広がった気まずそうな表情。
 
(待っててくれたのかな)
 
 と浮かれかけて、すぐにその発想は前向きすぎると首を振る。待っていたより帰り損ねたのほうが正しいだろうから。

 でも、ささやかな成り行きが嬉しい。携帯を仕舞ってこっちを見てくれたのが、どうしてこんなことくらいでと思うほど。

 かけ足の鼓動が、新しい気持ちを連れてくる。
 
「あの、お待たせしました」
「……別に待ってたわけじゃ」
「黒崎くんって、車には乗らないんだね」
「乗るわけないだろ。大した距離でもないのに、馬鹿らしい」
 
 階段を下りながら交わす会話はごくごく普通で、さっきの淘汰の話が嘘みたいだった。かつ、と靴が鳴る音が重なるたびに、心まで近付くような気がして。
 
「黒崎、くん」
「何」
「ありがとう。今日、手伝ってくれて」
「…………」
 
 人のいない外廊下。数歩先を歩く黒崎くんは、少し、ほんの少しだけ視線を伏せて。
 
「別に。借り、返しただけだから」
  
 いつも通りの無愛想な声。けれど、そこに不機嫌そうな響きはない。曲がった襟を指先で直して、何か言いあぐねているみたいだった。
 
「借りって、私なにかした?」
「……わかってないのかよ」
「ごめん、全然」
 
 私が黒崎くんに? むしろ助けてもらってばっかりな気がするけど。傘のこととか、保健室とか。
 全く心当たりがなくて、きょとんと首をかしげていると。
 
「わっ」
 
 ポンと肩をはたかれて、反射的に首をすくめる。
 
「朝のこと」
「あさ?」
 
 骨ばった大きな手がほんのわずかに強張って、


「……………ありがとう」
 

 消え入りそうな声で囁かれた、お礼の言葉。
 突然のことに目を見開く間もなく黒崎くんの顔は離れていって、私が顔を上げたときにはもう、沈みかけた夕日に照らされるうしろ姿しか見えなかった。
 
 朝。
 朝のこと。
 最初は言葉の意味がわからなくて、数秒後、点が線につながる。
 
(……そっか)
 
 黒崎くんは、私が女の子と黒崎くんの喧嘩に割って入ったことを言っているんだ。余計なことしたかもって思ったけど、黒崎くん、喜んでくれたんだ。
 
 胸に染み入るあたたかい気持ち。足が、身体が、なんだか軽くて、嬉しいのだと気付いた。
  
「あの、あのね、私も、もう一つお礼言わなきゃ」
 
 追いかけて、呼びかける。
 胸が、不思議なほどドキドキしていた。
 
「保健室のことありがとう。心配してくれたのも」
「覚えてたのか、あれ」
「声、聞こえたから。半分くらい夢のなかだったけど」
「……余計なことするんじゃなかった」
「黒崎くん、親切だよね。嬉しかった」
「そういうこと、真顔で言うな」
 
 低いトーンでしゃべる横顔は、なんだか困っているみたいで。やっぱり不器用で優しかったんだ、私の思った通り! とか言ったら、きっと怒られてしまうだろうけど。
 
(良かった)
 
 良かった、話ができて。
 届かないと思っていた影に、ようやく追いつけて。



 あたたかい春の夕暮れ。
 不意に訪れたちょっとだけ特別な放課後が、私と彼の関係を変えた日。胸の奥に、小さな想いが生まれた日。
 
 あの日の、嬉しいような、気恥ずかしいような気持ちは、今でもよく覚えている。
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