そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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ホタルの棲む川4

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「不思議だね。夜なんて息苦しくて全然好きじゃないのに、今は気持ちが落ちつく気がする」
 
 独り言のように呟いた幸記くんが、細い指を前へと伸ばす。
 何かを求めるように宙をすべった白い残像。
 
 その瞬間。
 目の前を光の帯が走った。
 
「あ………」
 
 幻かと思うような一瞬のまたたき。
 思わず目をしばたかせると、まるで消え入る光が暗闇を開く鍵だったかように
 
 川辺で
 草むらで
 岩の隙間で
 
 数えきれない程の光がいっせいに舞い始めた。
 
「ホタル……」
 
 黄と緑に明滅しながら、尾を引いて舞うホタル。光は幾筋にも重なり、絡まり、眠ったようだった風景に一瞬の明かりを与える。
 
 この世のものとも思えない風景に、無意識のままふらりと立ち上がろうとすると、幸記くんのくれた忘れ草が耳元から滑り落ちて。
 
「あっ」
 
 あわてて手を伸ばしても間に合わず、おぼろげに浮かぶ橙の花はひらひらと清流へと落ちていった。
 
ゆっくりゆっくり、ホタルの光を受けながら。
 
「ごめん、せっかく幸記くんが」
「いいよ」
 
 行き場を失った手を胸にあてて謝る私に、幸記くんは前を眺めながら微笑んだ。
 
「あの花は本当にすぐ散ってしまうんだ。だから、故郷の川に流れるのも悪くないんじゃないかな」
 
 大人びた声でそう言うと「それより見て」と宙を見上げる。
 つられて上を見ると、空を覆う雲はいつの間にか切れていて、ぽっかりと浮かぶ月と幾千もの星が私たちを見下ろしていた。
 
 頭上には満天の星。
 目の前には闇に舞うホタル。
 
 ただただ目を奪われる光景に、黒崎くんはどうしているんだろうとそっと顔を横に向けると、黄の光に照らされた黒い目は何かを懐かしむようにおとぎ話めいた風景を眺めていた。
 
「黒崎くん」
「……………」
 
 寂しいとも悲しいとも違う。言い様のない痛みが胸にこみ上げるひそやかな沈黙。

 私はなぜか、黒崎くんがどこかに行ってしまうような気がして。
 
「ここに来る計画を立てたのは、黒崎くんなんだよね」
 
 なんでもいいから話をしなきゃと言葉を続けると、滑るように視線が動いた。
 
「どうしてホタルを見ようと思ったの?」
「…………」
 
 いつも通り、何も言わない黒崎くん。
けれど、闇に消えてしまいそうだった目は私を見てくれた。ちゃんと見てくれた。
 そして。
 
「……昔、約束したんだ」
「約束?」
「ああ…………もう、ずっと前の話」
 
 水面に映る光を見下ろしながら。
 小さく、小さく。
 
「…………そっか」
 
 耳をこらさなきゃ聞こえないような声にそれ以上何も聞けなくなって、私はただ横で膝を抱えた。
 蚊に刺されるかなとかバスの時間は平気かなとか、小さな思考はすべて白光へと散って。



 あの時の黒崎くんは、果たせなかった約束と、つぶれそうな胸の痛みを抱えて夜を照らすホタルを眺めていたのだろう。
 夢のようにきれいな光。優しい水の音を、あの人に知ってほしかったと悔やみながら。
 
 何もかもがもう遅いのだと絶望に嘆きながら。
 
 それでも。
 例えすべてが悲しい思い出から生まれた出来事だったのだとしても。

 あの日見たホタルは本当に綺麗だった。
 
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