そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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彼の告白1

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 目が覚めた時、一番最初に目に入ったのは間接照明の埋め込まれた天井だった。
 次いで皺の寄ったシーツと大きな窓。ブラインドは一番上まで引き上げられていて、清廉な光が部屋を照らしている。
 
(朝だ……) 
 
 身体を起こして、私はガラスの向こうに広がる緑をながめた。
 白くかすむ山に、鳥の声。嵐のような夜が明けてやって来た朝はとてものどかで、まるで昨日のことが夢だったみたいに感じられる。
 けれど、抱きしめられた腕の強さも涙のぬくもりも、ちゃんと身体に残っていて。
 
(……黒崎くん、すこしでも楽になってくれたかな)
 
 昨晩の黒崎くんは最後まで一言もしゃべらず、ただ小さく身を震わせて、心の隙間から溢れ出すような微かな涙を滲ませた。
 
 いつも堅く閉ざされていて、決して開くことのなかった心の扉。その向こうには身体と同じ、もしからしたら外傷以上に赤く爛れた傷が存在しているのかもしれない。
 
 たくさんの傷を抱えて独りで血を流していた黒崎くんが、初めて痛いのだと教えてくれた。ほんの僅かな時間でも、泣いてくれた。
 
(要さんの言う事情のことはわからないけど)
 
 痛みを我慢するよりは、思いきり泣くほうが気持ちが軽くなるはず。
 きっとそうと頷きながらベッドから降りると黒崎くんはまだ眠っていて、その穏やかな寝息に微笑みながら私は洗面所へと向かった。


 
 木製の分厚いドアを開くと、中には先客がいた。
 
「あ」
 
 小さなガラスコップに水を注ごうとしていた幸記くん。私に気付いて手を止めると、コップの底と蛇口のぶつかる音が耳を擦った。
 
「おはよう。なにしてるの?」
「ううん、なんでもない」
 
 いかにも取りつくろった感じの笑顔を浮かべて洗面台に置いた袋を鞄にしまったけれど、一瞬見えたそれが病院でもらう薬袋であることは明らかで。 
 
「薬、だよね」
 
 思わず眉を寄せると、幸記くんは否定するように手を振って細い肩を竦めた。
 
「薬と言えば薬だけど、ただの頭痛薬」
「頭痛薬?」
「うん。頭痛持ちみたいですぐ痛くなってさ」
「そうなんだ……」
 
 私も夜更かしすると頭がズキズキする体質だけど、朝から薬を飲まなきゃいけないほどよっぽどきついんだろうな。
 
「薬ばっかり飲んでると心配させるから、黙ってたんだけど」
「そうなんだ……慣れない場所で泊まって疲れたのかも」
「うーん、たしかにソファの寝心地はよくなかったけど」
 
 あ、それって。
 
「ごめん、私が――」
「そこまで」
 
 昨日のことを謝ろうとした私を片手で制すと、幸記くんはしっかりものの委員長みたいに可愛く口をとがらせた。
  
「あんまり謝ってばっかりなのは良くないよ。こっちが気疲れするし」
「そ、そうだね」
「それにさ、俺楽しかったよ。ホタルを見たのはもちろんだけど、外泊なんて初めてだったし」
 
 赤い枠に飾られた鏡に、線の細い横顔が映っている。丸い目も小さな鼻もピンクの唇も、丁寧に作られた人形みたいに小作りで。
 
「ありがとう。いい思い出になったよ」
 
 伏し目がちに微笑んだ幸記くんの声はとても静かで、まるで最後の別れのようだった。
 
「そんな、大げさだって」
 
 だから私は、首を振って苦く笑った。幸記くんの言葉を笑い飛ばしたかった。
 
「いい思い出なんてこれからいくらでも作れるよ。秋の山は一面が赤や黄色に染まるし、冬には雪で木や地面がキラキラ光るの」
 
 なんの自由もなく、広いお屋敷で花を育てていた幸記くん。
 もっともっと、色んな場所を見てほしい。この世に数え切れないほど存在するきれいな風景を、一緒に見たい。
 
「また出かけよう、三人で。今度はちゃんとスニーカー履いてくるし」
 
 謝ってばっかりなのはいけないって言われたけど、これくらいなら冗談の範囲内だよね。
 幸記くんも、ちょっと笑ってくれたし。
  
「桂さんはさ、本当にいい人だよね」
 
 おかしそうにくすくす笑う顔には年相応の幼さが滲んでいて、なんだかホッとする。
 大人びた表情もいいけれど、幸記くんはまだ十四歳なんだから。もっと自分を出して、わがままに振る舞ってほしい。それが許されない場所で生きていたんだって、わかっているけど。

 カツンと関節で鏡を小突いて、幸記くんが続けた。
 
「昨日からずっと言おうと思っていたことがあるんだけど、今言ってもいい?」
「ん?うん、どうぞ」
 
 私に? なんだろう。
 心当たりがなくてひょいと顔を寄せると、大きな目がギクリと見開かれる。
 
「あ、ごめん。近い?」
「いや、大丈夫。あのさ」
 
 横に逃げかけてまた戻ってきた瞳に、決意に似た色が走る。その一瞬の光が消える前に、幸記くんは私の手を取った。
 か弱いと思っていた手は、私の手をつつみこめるほど大きかった。
 
 何か特別な儀式みたいに、そっと指に力をこめて。そして。


「俺、桂さんが好きなんだ。恋愛とかそういう意味で」

 
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