69 / 113
秋
どこにもいない1
しおりを挟む
「物心ついた時から、俺は両親と不仲だった」
温度のない漆黒の目。
ぬらりと雨脚を映す表面は、あの夏の夜を思わせた。
「親父は出来の悪い息子が許せなかったし、母親は俺を生んだことを後悔していた。身体が弱かったから、命を削ってまで生んだのがこれかって」
揃ったまつ毛にたれ下がる雨粒が、瞬きと共に闇に消え入る。
ひっそりした声は、けれど不思議と頭のすみずみまで届いた。
「人の機嫌を損ねるのが怖くて、同年代の子供とさえまともに話せなかった俺は、いつも兄の後ろをついて回っていた。俺を誰かと比べない、俺が「正しく」なくても無条件の愛情を注いでくれるのは兄だけだったから」
「え……」
「神様みたいな存在だった。いつも守ってくれる、いつも味方でいてくれる。俺が怪我をしたときは、自分が傷ついたみたいな顔して――」
待って、と。つい制止の声をあげてしまった。だって、黒崎くんが何度も呼ぶ兄って。ずっと黒崎くんを守っていたのって。
まさか。
「……征一」
私の疑問に、黒崎くんはきれいな発音でこたえた。
「俺はずっと、征一だけを見て育ってきた」
静かな声に、息が止まりそうになる。開きかけた唇を、私は咄嗟に右手で押さえた。
征一さんが神様? 守ってくれた?
どういうことだろう。今まで聞いてきた話とはまるで逆だ。
私の知る征一さんは。黒崎くんの身体に、直視できないほど無惨な傷を残して、眼球すら焼こうとしたのは。
「仲のいい兄弟だったと思う。与えられるばかりの関係だったから自信ないけど。兄は親父が海外土産に買ってきた赤い飛行機の模型を持っていて、俺たちはよく、それに乗って旅をする話をした。細かいところまで作り込まれた飛行機を見ていると、どこにだって行けそうだった」
遠い、遠いところを見るような眼差しに、ずっと昔に存在したのであろうやり取りを想像する。
ぴかぴかに輝く機体を、同じくらい輝く瞳で眺める兄弟。プロペラに触れる小さな手。
ささやかな、けれどかけがえのない幸せを乗せた風景は、思い描こうとすればするほど白く遠ざかっていった。雨にはばまれるように。冷えた空気に凍てつくように。
「いつか本物の飛行機に乗って、二人だけで遠い国に行くのが夢だった。……でも」
カチ、と歯の鳴る音。
「何の期待もされていない俺と違って、兄は忙しかった。親父との外出に、たくさんの習い事。学校行事や友達からの誘い。一緒にいられる時間は日に日に短くなって、それはしょうがないことなのに、俺は抑えられないほどの苛立ちを感じていた」
細い肩が震えたのは、きっと寒さのせいじゃない。黒く塗りつぶされた目に浮かび上がる奇妙な熱は、冷えた心を炙る悔恨のようだった。
なぜそばにいてくれないのか。
なぜ自分を見てくれないのか。
自分にはこの人しかいないのに。
兄には兄の事情があるのだと、頭ではわかっていても、幼い心は納得できなかったのだろう。
胸につのる寂しさと鬱屈。やがて吹き出した負の感情は、想う気持ちと同じ強さで渦を巻いた。
「不安だった。どんどん新しい世界を知って大人になる兄が、俺から離れて行くんじゃないかって。玩具の飛行機なんてなくても、兄は色んなところに出かけていたから。誰にも求められない自分と比較して、嫉妬する気持ちもあった」
とめどなく紡がれる言葉が、痛切な色を帯びる。
「10歳の、誕生日に。……朝から忙しそうにしている兄が、今日のことを忘れているんだと思った俺は、黙って例の飛行機を持ち出した」
温度のない漆黒の目。
ぬらりと雨脚を映す表面は、あの夏の夜を思わせた。
「親父は出来の悪い息子が許せなかったし、母親は俺を生んだことを後悔していた。身体が弱かったから、命を削ってまで生んだのがこれかって」
揃ったまつ毛にたれ下がる雨粒が、瞬きと共に闇に消え入る。
ひっそりした声は、けれど不思議と頭のすみずみまで届いた。
「人の機嫌を損ねるのが怖くて、同年代の子供とさえまともに話せなかった俺は、いつも兄の後ろをついて回っていた。俺を誰かと比べない、俺が「正しく」なくても無条件の愛情を注いでくれるのは兄だけだったから」
「え……」
「神様みたいな存在だった。いつも守ってくれる、いつも味方でいてくれる。俺が怪我をしたときは、自分が傷ついたみたいな顔して――」
待って、と。つい制止の声をあげてしまった。だって、黒崎くんが何度も呼ぶ兄って。ずっと黒崎くんを守っていたのって。
まさか。
「……征一」
私の疑問に、黒崎くんはきれいな発音でこたえた。
「俺はずっと、征一だけを見て育ってきた」
静かな声に、息が止まりそうになる。開きかけた唇を、私は咄嗟に右手で押さえた。
征一さんが神様? 守ってくれた?
どういうことだろう。今まで聞いてきた話とはまるで逆だ。
私の知る征一さんは。黒崎くんの身体に、直視できないほど無惨な傷を残して、眼球すら焼こうとしたのは。
「仲のいい兄弟だったと思う。与えられるばかりの関係だったから自信ないけど。兄は親父が海外土産に買ってきた赤い飛行機の模型を持っていて、俺たちはよく、それに乗って旅をする話をした。細かいところまで作り込まれた飛行機を見ていると、どこにだって行けそうだった」
遠い、遠いところを見るような眼差しに、ずっと昔に存在したのであろうやり取りを想像する。
ぴかぴかに輝く機体を、同じくらい輝く瞳で眺める兄弟。プロペラに触れる小さな手。
ささやかな、けれどかけがえのない幸せを乗せた風景は、思い描こうとすればするほど白く遠ざかっていった。雨にはばまれるように。冷えた空気に凍てつくように。
「いつか本物の飛行機に乗って、二人だけで遠い国に行くのが夢だった。……でも」
カチ、と歯の鳴る音。
「何の期待もされていない俺と違って、兄は忙しかった。親父との外出に、たくさんの習い事。学校行事や友達からの誘い。一緒にいられる時間は日に日に短くなって、それはしょうがないことなのに、俺は抑えられないほどの苛立ちを感じていた」
細い肩が震えたのは、きっと寒さのせいじゃない。黒く塗りつぶされた目に浮かび上がる奇妙な熱は、冷えた心を炙る悔恨のようだった。
なぜそばにいてくれないのか。
なぜ自分を見てくれないのか。
自分にはこの人しかいないのに。
兄には兄の事情があるのだと、頭ではわかっていても、幼い心は納得できなかったのだろう。
胸につのる寂しさと鬱屈。やがて吹き出した負の感情は、想う気持ちと同じ強さで渦を巻いた。
「不安だった。どんどん新しい世界を知って大人になる兄が、俺から離れて行くんじゃないかって。玩具の飛行機なんてなくても、兄は色んなところに出かけていたから。誰にも求められない自分と比較して、嫉妬する気持ちもあった」
とめどなく紡がれる言葉が、痛切な色を帯びる。
「10歳の、誕生日に。……朝から忙しそうにしている兄が、今日のことを忘れているんだと思った俺は、黙って例の飛行機を持ち出した」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる