そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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どこにもいない1

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「物心ついた時から、俺は両親と不仲だった」
 
 温度のない漆黒の目。
 ぬらりと雨脚を映す表面は、あの夏の夜を思わせた。
 
「親父は出来の悪い息子が許せなかったし、母親は俺を生んだことを後悔していた。身体が弱かったから、命を削ってまで生んだのがこれかって」
 
 揃ったまつ毛にたれ下がる雨粒が、瞬きと共に闇に消え入る。
 ひっそりした声は、けれど不思議と頭のすみずみまで届いた。
 
「人の機嫌を損ねるのが怖くて、同年代の子供とさえまともに話せなかった俺は、いつも兄の後ろをついて回っていた。俺を誰かと比べない、俺が「正しく」なくても無条件の愛情を注いでくれるのは兄だけだったから」
「え……」
「神様みたいな存在だった。いつも守ってくれる、いつも味方でいてくれる。俺が怪我をしたときは、自分が傷ついたみたいな顔して――」
 
 待って、と。つい制止の声をあげてしまった。だって、黒崎くんが何度も呼ぶ兄って。ずっと黒崎くんを守っていたのって。
 まさか。
 
「……征一」
 
 私の疑問に、黒崎くんはきれいな発音でこたえた。
 

「俺はずっと、征一だけを見て育ってきた」
 

 静かな声に、息が止まりそうになる。開きかけた唇を、私は咄嗟に右手で押さえた。
 
 征一さんが神様? 守ってくれた?
 どういうことだろう。今まで聞いてきた話とはまるで逆だ。
 
 私の知る征一さんは。黒崎くんの身体に、直視できないほど無惨な傷を残して、眼球すら焼こうとしたのは。
 
「仲のいい兄弟だったと思う。与えられるばかりの関係だったから自信ないけど。兄は親父が海外土産に買ってきた赤い飛行機の模型を持っていて、俺たちはよく、それに乗って旅をする話をした。細かいところまで作り込まれた飛行機を見ていると、どこにだって行けそうだった」
 
 遠い、遠いところを見るような眼差しに、ずっと昔に存在したのであろうやり取りを想像する。

 ぴかぴかに輝く機体を、同じくらい輝く瞳で眺める兄弟。プロペラに触れる小さな手。
 ささやかな、けれどかけがえのない幸せを乗せた風景は、思い描こうとすればするほど白く遠ざかっていった。雨にはばまれるように。冷えた空気に凍てつくように。
 
「いつか本物の飛行機に乗って、二人だけで遠い国に行くのが夢だった。……でも」
 
 カチ、と歯の鳴る音。
 
「何の期待もされていない俺と違って、兄は忙しかった。親父との外出に、たくさんの習い事。学校行事や友達からの誘い。一緒にいられる時間は日に日に短くなって、それはしょうがないことなのに、俺は抑えられないほどの苛立ちを感じていた」

 細い肩が震えたのは、きっと寒さのせいじゃない。黒く塗りつぶされた目に浮かび上がる奇妙な熱は、冷えた心を炙る悔恨のようだった。

 なぜそばにいてくれないのか。
 なぜ自分を見てくれないのか。
 自分にはこの人しかいないのに。
 
 兄には兄の事情があるのだと、頭ではわかっていても、幼い心は納得できなかったのだろう。
 胸につのる寂しさと鬱屈。やがて吹き出した負の感情は、想う気持ちと同じ強さで渦を巻いた。
 
「不安だった。どんどん新しい世界を知って大人になる兄が、俺から離れて行くんじゃないかって。玩具の飛行機なんてなくても、兄は色んなところに出かけていたから。誰にも求められない自分と比較して、嫉妬する気持ちもあった」
 
 とめどなく紡がれる言葉が、痛切な色を帯びる。
 
「10歳の、誕生日に。……朝から忙しそうにしている兄が、今日のことを忘れているんだと思った俺は、黙って例の飛行機を持ち出した」
 
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