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秋
秋の道2
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私たちは片手に互いの手、もう片方の手にあつあつの鯛焼きを持ちながらゆっくり歩いた。
スーパーの前で買った鯛焼きは安かったのに尻尾まで餡がつまっていて、なんだか得した気分。初めて見る食べ物に不思議そうな顔をしていた幸記くんも、今は機嫌よく丸いお腹にかぶりついている。細い首に巻かれた私のストールは、本来の持ち主よりずっと似合っていた。
細い通りを抜けると、秋色に褪せた川沿いの道が目に入る。幸記くんと初めて出会った場所。なだらかな土手いっぱいに、すすきが棚引いている。
風に煽られて、波のように揺れる真っ白な穂。幸記くんは柔らかく目を細めて、水辺の風景をながめた。
「秋の音がする」
「秋の音?」
「うん。水とか、草の音。晴れてるからっていうのもあるけど、夏に来た時とは違うなって」
言われてみれば、さわさわと草の流れる音は夏よりも優しい。毎日歩いているのに、全然意識しなかった。
「幸記くんは、そういうことに気付くのが上手だね」
「見る機会が少ない分、ちゃんと見ようとしているからね」
切ない言葉を口にしながら、すこし誇らしげに笑った唇に、癖のない髪がこぼれる。
「えーっと、あの角を曲がった先が駅だっけ」
「そうそう、あ、今日はこっちの道行こ。ちっちゃい神社があるんだけど、紅葉がきれいなの」
「神社って、縁日やってたとこ?」
「うん、あんなに大きくないし、縁日もやってないけど」
今日、幸記くんが外出していた理由。
どこに、何の用事で行ったのか。気にならないといえば嘘になる。
でも、話したくないのは何となく伝わってきたし、無理に問い詰めて今の楽しい雰囲気を壊してしまうのは嫌だった。せっかく幸記くんと外を歩いているのに。
だから私は、せいいっぱい五感を使って秋の風景をさがした。特別じゃなくていい。ちょっと幸せになれるような、ホッとできような場所。
そんな風にあたりを見回すと、見慣れた町のあちこちに幸せのありかを見つけた。普段目をやらないだけで、美しいもの、安らぐものは日常にたくさんひそんでいるのだと今さら気付いた。
もみじをかぶったお稲荷さんにお参りして、太った茶トラ猫と遊んで、金木犀の香る石畳の路地を抜けて。
ちょっと特別な散歩道の終わりは、アパートとマンションにはさまれた公園だった。
あまり広くない敷地にあるのは、楕円形の砂場とすべり台のついたアスレチック、水色に塗られたブランコだけ。しかも、遊具はあちこち錆び付いている。
「まだあったんだ、ここ」
実は私がここにやってきたのは、数年ぶりだった。
小学生のとき今住んでいる町に引っ越してきた私は知らない道を探索しているうちにこの公園にたどりついて、以来親とケンカした日や、洋服に絵の具をつけた日なんかに、こっそり寄り道していた。
入口横のブランコに乗りたくて、でも一人で乗るのは恥ずかしくて我慢したのをよく覚えている。
「私方向音痴でね、すぐに道に迷っちゃうんだけど、この公園だけは何度行っても見つけることができたの」
それは、敷地の中央に目印が立っていたから。
黄色に染まった、一際大きなクヌギの木。空に向かってまっすぐ伸びる枝葉は建物のあいだから顔を出して、こっちで遊ぼうと手招きしているみたいだった。
年月が経って、アスレチックに保護用のゴムがついても、塗装が錆びても、長く伸びる木の影だけは変わらない。
何だか懐かしい人に出会ったようで、背を伸ばして木を仰ぐ私。横に立つ幸記くんも何も言わずにたたずんでいたけれど、やがて私の手をほどくと迷いのない足取りで歩を進め、クヌギに手を伸ばした。
「幸記くん?」
私の問いかけには答えず、厚い幹に手を這わせる。
時とともに硬くなった木肌をさぐる右手。目を閉じて額を寄せる横顔は、儀式のようにおごそかで、祈りのように澄んでいた。
澄み渡った空。ゆるやかにこぼれ、つもっていく黄色の葉。そして幸記くん。
胸に迫るほど清廉な空気に言葉をなくす私の前に「儀式」を終えた幸記くんが駆け寄ってきた。
「お待たせ。いい木だから、触ってみたくなって」
親しげな笑みからは、ほんの数十秒前までの張りつめた雰囲気は消えている。
「何かお願いごとでもしたの?」
「どうだろう。願ったような気もするし、励まされた気もする。でも、そんなことはいいんだ、どっちでも」
私にはわからない言葉を独り言のようにこぼして、また手を取る。さっきよりも強く。そして、
「秀二と何かあった?」
穏やかな口調で尋ねられて、私はあからさまに動揺した。手をこわばらせて奥歯を噛みしめると、幸記くんがからりと笑う。
「やっぱり。秀二もすぐわかる嘘つかなきゃいいのに」
「黒崎くん、何か言ってたの?」
「よく一人で考え事してるみたいだったからどうしたのか聞いたら、何でもないって。だけど、秀二がおかしくなる原因なんて桂さんかあの人に決まってるし」
あの人、が誰を指すのかは、聞かなくてもわかる。
「ケンカ?」
「ううん。そうじゃないけど」
スーパーの前で買った鯛焼きは安かったのに尻尾まで餡がつまっていて、なんだか得した気分。初めて見る食べ物に不思議そうな顔をしていた幸記くんも、今は機嫌よく丸いお腹にかぶりついている。細い首に巻かれた私のストールは、本来の持ち主よりずっと似合っていた。
細い通りを抜けると、秋色に褪せた川沿いの道が目に入る。幸記くんと初めて出会った場所。なだらかな土手いっぱいに、すすきが棚引いている。
風に煽られて、波のように揺れる真っ白な穂。幸記くんは柔らかく目を細めて、水辺の風景をながめた。
「秋の音がする」
「秋の音?」
「うん。水とか、草の音。晴れてるからっていうのもあるけど、夏に来た時とは違うなって」
言われてみれば、さわさわと草の流れる音は夏よりも優しい。毎日歩いているのに、全然意識しなかった。
「幸記くんは、そういうことに気付くのが上手だね」
「見る機会が少ない分、ちゃんと見ようとしているからね」
切ない言葉を口にしながら、すこし誇らしげに笑った唇に、癖のない髪がこぼれる。
「えーっと、あの角を曲がった先が駅だっけ」
「そうそう、あ、今日はこっちの道行こ。ちっちゃい神社があるんだけど、紅葉がきれいなの」
「神社って、縁日やってたとこ?」
「うん、あんなに大きくないし、縁日もやってないけど」
今日、幸記くんが外出していた理由。
どこに、何の用事で行ったのか。気にならないといえば嘘になる。
でも、話したくないのは何となく伝わってきたし、無理に問い詰めて今の楽しい雰囲気を壊してしまうのは嫌だった。せっかく幸記くんと外を歩いているのに。
だから私は、せいいっぱい五感を使って秋の風景をさがした。特別じゃなくていい。ちょっと幸せになれるような、ホッとできような場所。
そんな風にあたりを見回すと、見慣れた町のあちこちに幸せのありかを見つけた。普段目をやらないだけで、美しいもの、安らぐものは日常にたくさんひそんでいるのだと今さら気付いた。
もみじをかぶったお稲荷さんにお参りして、太った茶トラ猫と遊んで、金木犀の香る石畳の路地を抜けて。
ちょっと特別な散歩道の終わりは、アパートとマンションにはさまれた公園だった。
あまり広くない敷地にあるのは、楕円形の砂場とすべり台のついたアスレチック、水色に塗られたブランコだけ。しかも、遊具はあちこち錆び付いている。
「まだあったんだ、ここ」
実は私がここにやってきたのは、数年ぶりだった。
小学生のとき今住んでいる町に引っ越してきた私は知らない道を探索しているうちにこの公園にたどりついて、以来親とケンカした日や、洋服に絵の具をつけた日なんかに、こっそり寄り道していた。
入口横のブランコに乗りたくて、でも一人で乗るのは恥ずかしくて我慢したのをよく覚えている。
「私方向音痴でね、すぐに道に迷っちゃうんだけど、この公園だけは何度行っても見つけることができたの」
それは、敷地の中央に目印が立っていたから。
黄色に染まった、一際大きなクヌギの木。空に向かってまっすぐ伸びる枝葉は建物のあいだから顔を出して、こっちで遊ぼうと手招きしているみたいだった。
年月が経って、アスレチックに保護用のゴムがついても、塗装が錆びても、長く伸びる木の影だけは変わらない。
何だか懐かしい人に出会ったようで、背を伸ばして木を仰ぐ私。横に立つ幸記くんも何も言わずにたたずんでいたけれど、やがて私の手をほどくと迷いのない足取りで歩を進め、クヌギに手を伸ばした。
「幸記くん?」
私の問いかけには答えず、厚い幹に手を這わせる。
時とともに硬くなった木肌をさぐる右手。目を閉じて額を寄せる横顔は、儀式のようにおごそかで、祈りのように澄んでいた。
澄み渡った空。ゆるやかにこぼれ、つもっていく黄色の葉。そして幸記くん。
胸に迫るほど清廉な空気に言葉をなくす私の前に「儀式」を終えた幸記くんが駆け寄ってきた。
「お待たせ。いい木だから、触ってみたくなって」
親しげな笑みからは、ほんの数十秒前までの張りつめた雰囲気は消えている。
「何かお願いごとでもしたの?」
「どうだろう。願ったような気もするし、励まされた気もする。でも、そんなことはいいんだ、どっちでも」
私にはわからない言葉を独り言のようにこぼして、また手を取る。さっきよりも強く。そして、
「秀二と何かあった?」
穏やかな口調で尋ねられて、私はあからさまに動揺した。手をこわばらせて奥歯を噛みしめると、幸記くんがからりと笑う。
「やっぱり。秀二もすぐわかる嘘つかなきゃいいのに」
「黒崎くん、何か言ってたの?」
「よく一人で考え事してるみたいだったからどうしたのか聞いたら、何でもないって。だけど、秀二がおかしくなる原因なんて桂さんかあの人に決まってるし」
あの人、が誰を指すのかは、聞かなくてもわかる。
「ケンカ?」
「ううん。そうじゃないけど」
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