そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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涙2

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 私は喉を反らして、高い位置にある顔を見上げた。
 ずっと悲しい嘘ばかりついてきた唇。周りにある美しいものを、見ないようにしてきた目。奪った自分が、何かを求めることは許されないのだと。
 
「……わからないよ」
 
 多分、本音も苦しみも全部、カーテンで隠してしまうつもりだったのだろう。傷ついて、耐えて、また傷ついて。だけど、何もかも覆うことはできなかった。
 
「これまで、黒崎くんがどんな罪を背負ってきたか。どんな気持ちで生きてきたか。私なんかには絶対わからない。だけど、黒崎くんがずっと幸記くんを大切にして、守ってきたことは知っているよ。征一さんが大好きだったから、何をされても我慢してきたこと、何年ものあいだ謝り続けていたことも。だから」
 
 数メートル先に見える小さな広場。
 忘れもののように据えられたベンチに歩み寄って、私はもう一度、暗く長い夜道を背負って立ちつくす彼を見た。
 
 
「私は、これまでじゃなくてこれからの話をしたい」
 
 
 言葉とともに、眼下の風景に視線を向ける。低い柵の向こうには、色とりどりの光に飾られた街並みが見えた。
 
 眩く輝く大きなツリー。
 木々を彩る金色のライト。
 波のように流れては消えるイルミネーション。そして、家々の窓に灯るあたたかな光。
 この華やかな風景の中には、たくさんの人の生活が存在している。笑う人、泣く人。満たされた人。孤独な人。星の数ほどの喜びと悲しみが混ざり合って、空の下で息づいている。幸福も罪悪も、すべて飲み込んで。
 
 それでも。
 だからこそ。
 街は美しかった。
 
「…………」
 
 黒崎くんが一つ、歩を進める。足取りは頼りない。張り詰めた心身に、風穴が空いたように。
 街の明かりが徐々に足元を照らしだして、現れた顔は怒っているようにも、泣きたいようにも見えた。
 
「……これからなんて、ない」
 
 放心した声だった。
 
「あるよ。黒崎くんが避けていただけで。ずっと目の前にあったんだよ」
 
 痩せた右足がふらつく。
 崩れ落ちるようにベンチに座って、彼は遊園地にも似た夜景を見下ろした。

 死ぬほど求めて、やっとの思いで我慢してきたものが、喉元までせり上がっているのだろう。苦しいと言えなかった唇が、ほんのわずかに開いて堪えるように息を吸った。
  
「俺は征一にひどいことをしたんだ。勝手に勘違いして、嫉妬して、取り返しのつかない怪我を負わせてしまった」
 
 ぎこちない呼吸が肩を震わせる。
 
「傷を負うたびに、心のどこかで安心してた。自分がやったことと、少しは帳尻が合うんじゃないかって。ただの自己満足で、本当は恨む力すら奪ったのに」
「……」
「幸記が俺に笑いかける度に、怖くなった。俺のやったことが知られたらどうしようって。罪悪感から逃げたくて、絶対に兄と呼ばせなかった。俺達は対等な存在だから名前で呼び合おうって。最低だろ」
 
 膝をきつく握りしめる両手。
 
「心のなかで何を言おうが、何度悔いようが意味なんてない。わかってた。謝りたかった、二人に。でも口にすれば兄も弟も両方失いそうで、怖くて、結局自分のためなんだ、俺は。いつも」

 懺悔すれば、征一さんは自らの負った傷の正体と、生涯埋められない欠落を知っただろう。幸記くんは、大切な人が起こした事故と、それによって引き起こされた悲劇に胸を痛めただろう。
 
 だから言えなかった。
 謝れない苦しさも、一人で抱えるほかなかった。
 
「……そんな風に」
  
 呟きにすら満たない声。
 見開かれた漆黒の目に街の明かりが映り、次の瞬間、輝きはしずくとなって目尻から頬へと流れ落ちていった。
 
 
「そんな風に逃げ、て。嘘ばかりついていたから……いつの間にか、動けなくなっていた」

 
 ぱらぱらと、降り始めの雨のようにこぼれる心の澱。
 
 苦しみ。悲しみ。嘆き。後悔。
 黒崎くんが何年も胸に抱えていた想いが、心を蝕む棘が、血膿が、洗い流されていく。
 嘘偽りのない涙。大切な人を思う気持ちから生まれたそれは、光の粒のようだった。瞬いては夜に溶ける追憶の痛み。

 私は涙で濡れた大きな手に自分の手を重ねて、高い位置にある肩にそっと寄りそった。
 
「ちゃんと、いるよ」
「……」
「黒崎くんは、どこにもいないって言ったけど。ここにいる。不器用で、あんまり話してくれなくて、でも優しくて。私の好きな黒崎くんは、ずっと私のそばに存在してたよ」
 
 罪は消えない。
 征一さんに起こった事故も、幸記くんの抱える痛みも、無かったことになんてならない。
 それでも、黒崎くんに少しでも自分自身を赦してほしかった。だってずっと、罰を受けてきたのだから。心と身体の痛みを引き受けてきたのだから。
 
 
 
 私たちはたくさん話をした。
 ほとんどは、黒崎くんの小さいころの話。征一さんが旅行に出るのが嫌で泣いて困らせたとか、二人で自転車に乗る練習をしたとか、借りた本がなくなって家中を探したとか。
 
 何でもない、けれどかけがえのない昔話を語りながら、黒崎くんは征一さんを「兄さん」と呼んだ。長いあいだ胸に仕舞っていた呼び方は少したどたどしくて、けれど愛情に溢れていた。
 
 今はもう、増えることを止めてしまった思い出。
 それでもあと少しで年は明けて、数ヶ月先には春が待っている。草木が芽吹いて、花が咲いて。
 だから私は黒崎くんに「これから」の話をした。数日後のクリスマス、お正月、卒業式に、桜の季節。幸記くんと三人で桜を見たいと言うと、黒崎くんはほんの少し黙って、いい場所を知っていると教えてくれた。
 
 黒く澄んだ瞳は、もう濡れていなかった。
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