そして消えゆく君の声

厚焼タマゴ

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それが罰であるのなら2

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「慌てなくても大丈夫だよ」
 
 それまで無言で立ち尽くしていた征一さんが、青いチェックのハンカチを取り出した。糊のきいた布地で血を拭い、おだやかに微笑む。
 
「出血が多いから大怪我に見えるけど、じきに止まる。さっき家に連絡を入れたから、すぐに車が迎えにくるだろうし」
 
 拭きそこねた赤い飛沫が、曇りのない笑みに水をさしていた。かざされた新しい携帯には、歪曲した室内が映っていて。
 
「………っ」
 
 気がつけば、私はそれを叩き落していた。
 
 目を丸くした征一さんを睨みつけて、荒い息を吐く。
 冷静な口調、車が来るという言葉にホッとしなかったと言えば嘘になる。でも、早鐘を打つ鼓動に押し出されたのは安堵の息ではなく、悲鳴じみた叫びだった。
 
「あなたが、さ、刺したんじゃないですかっ」
 
 語尾が震えた。
 胃がきりきりと痛んで、無意識に手を握りしめた。声の衝撃で涙腺がこわれたのか、急に涙があふれて、息がつまる。
 
「なんで黒崎くんを苦しめるんですか? お、大怪我に見えるって、大怪我ですよっ、血が出て、痛くて、でもあなたをかばってるんじゃないですか、なのにっ」

 叫んでも怒っても無意味だ。わかっている。
 
 だけど他にどうやって、この怒りを、心を押しつぶす悲しみを、ぶつけたらいいのかわからなかった。
 
 ぬぐってもぬぐっても止まらない涙で、手がべたべたになる。全身を震わせる鼓動が苦しくて、うまく息ができなくて、ひたすら嗚咽する私を征一さんは笑顔の消えた目で見つめていたけれど。
 
「――――」
 
 やがて白い上靴が一歩近づいて、場違いなほどあたたかい手が額に触れた。
 はりついた前髪をすいて、子供にするみたいに優しくなぜる。驚いて顔を上げると、深く澄みきった目と視線が合った。
 
「……泣いているから」

 荒ぶる気持ちが、動きを止める。
 征一さんは床に膝をついて、ぜえぜえと息を吐く黒崎くんの肩を引いた。うつむいた頭を胸に抱えて、顔にハンカチをあてる。
 
「秀二」
「……ッ……」
「秀二、もうすぐ迎えがくるから」
 
 いたわる言葉と顔に飛んだ血、どこかうつろな目。不揃いな要素をより合わせた横顔は不安定で、調律の狂ったピアノを連想させた。
 ずれた音しか出ない鍵盤で、正しい楽譜を弾こうとしている。

「今日は、笑ってくれないんだね」
  
 額を押さえて、征一さんはわずかに眉を寄せた。伏目になって、長いまつ毛が影を作る。苦痛を堪えるような表情に、おずおずと横に座った私を一瞥すると、淡々と続けた。

「僕は時々、強い頭痛を感じることがあるんだ」
「……頭痛?」
「どう説明すればいいかな。突然立っていられない程の痛みに襲われて、過剰に自己を守ろうとする。これは僕自身の意思というより、過去の体験に関係した条件反射のようなものだと推測しているんだけど」
 
 他人事めいた説明は、けれどどこか痛々しく響いた。

「初めて秀二に傷を負わせた時もそうで、気がついた時には「そう」なっていた。でも秀二は昔みたいに笑ってくれて、だから僕は、これは幸せに至る方法かもしれないと考えた」
 
 腕の中の黒崎くんが、何か言おうと唇を開く。けれど、吐き出されたのは今にも消えてしまいそうな細く弱々しい呼気だけだった。

「今の自分は底の抜けた器のようなもので、どんな経験も心をすり抜けてしまうけど、弟が笑ってくれるなら、いつか奇跡が起きるんじゃないかって。弟の幸せは、僕にとって何より大切な、かけがえのないもののはずだから」

 指の長いしなやかな手が、黒崎くんの大きな手を包みこむ。大事そうに、慈しむように。
 
「君の、僕が秀二を苦しめているという言葉を僕は否定できない。苦痛というものがわからないから。でも、少しでも昔のように二人で笑い合える可能性があるのなら、諦めることはできない」
 
 秀二が心から幸せだと笑ってくれることを、諦められないんだ。
 
 穏やかに内面を吐露して、征一さんは私の目を覗き込んだ。きっと、寂しいものを見るような眼差しを向けているであろう瞳を。

「僕が、悲しんでいるように見えたかな」
 
 そしてまた、いつもの笑顔を浮かべる。
 
 
「本当は、何とも思っていないんだ」
 
 
 やわらかに微笑む顔は、子供みたいにあどけなかった。

 
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