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1巻
1-1
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シンデレラがガラスの靴を落とさなかったら、どうなっていたのかな。
王子様は永遠に彼女を探し続け――いや、無理か。
きっと王子様はシンデレラを思い出にして国のため他の人と結婚し、シンデレラは義姉たちに老いた義母の面倒を押し付けられて、すれ違ったままだったはず。
けれど、これじゃ夢が無さ過ぎる。なら、ガラスの靴が脱げたのも、魔女がかけた魔法のひとつだった、というのはどうだろう。シンデレラが舞踏会に行くと決めた時点で、運命は彼女の味方をしていたのだ。そういう魔法を、もし自分にもかけて貰えたらと思うだけでワクワクする。
久我夏帆は、そんな妄想をしながら化粧を終えて立ち上がった。
「アンティークな家は今日も情緒に溢れています」
古い畳のぼこりと凹む所を爪先でぺこぺこと踏みつつ、中断していた妄想を再開させる。
王子様はずっと前からシンデレラを知っていたとすると、もっと良い感じかもしれない。
シンデレラに会うためだけに、王子様は大掛かりな舞踏会を開催する事を決めた。本当はドレスも靴も与えたかったけれど、彼女は王子様からの贈り物を受け取る事が出来ない。だから、魔法の中にひとつだけ現実をまぜる事を魔法使いにお願いした。
――もし彼女が途中で帰っても探せるよう、靴だけは本物にして欲しい。
そんな健気な王子の願いを、魔法使いは叶えた……と考えたら、その後の妄想の内容は魔法使いが活躍する展開になってしまった。妄想力はある方だが、恋愛に関しては不得意だ。
玄関ドアの向こうからしとしとと雨の音がする。夏帆は足首まである青のレインブーツを履き、お気に入りの傘を手に持った。
唯一の家族である父親も、今日は朝から仕事に行っている。
夏帆は父とふたりで住んでいる狭いアパートの部屋へ向かって「いってきます!」と元気に挨拶をし、颯爽と玄関を出た。
家から駅までは、歩くにはちょっと長い十五分弱の距離。夏帆は交通量の多いこの道路沿いの、広いきれいな歩道が好きだった。
いつもはビュンビュンとばす自転車が多いが、さすがに雨の日にはいない。危機感無くのんびりと歩けるのは雨の日の特権だ。
大きな水たまりを避け、蛇行して歩いていると、前から歩いてきた花柄の傘を差した五十代くらいの女が立ち止まった。彼女は胸を押さえ、みるみる顔を真っ青にしていく。
「だ、大丈夫ですか?」
夏帆は考えるよりも先に駆け寄っていた。近寄ると、血の気が無い女性が瞬きもせずに夏帆を凝視してくる。
「ええ、ええ。ありがとう」
彼女がちゃんと息をしていて、喋れる事にほっとした。
「とても顔色が悪いですよ。おうちの方に連絡出来ますか? 迎えに来て貰えますか?」
具合が悪そうな人を雨の中に放っておく事は出来ない。出社時間までには余裕があったので、夏帆は彼女の顔を覗き込む。
「私、一緒に待ちますから」
女性は品の良い化粧をしていて、着ている洋服からも経済的な余裕を感じられる。連絡さえつけば誰かがすぐに迎えに来てくれそうな気がした。
「ありがとう。でもね、大丈夫なの。お気持ちだけでじゅうぶん」
夏帆はじっと彼女の顔を見つめて「本当に?」としつこく聞く。嫌がられるかもしれないが、後で何かあった方が嫌だ。
「ええ、実はもう連絡はしていて、――む、息子が来てくれるの」
「そうですか! 良かった……」
差している傘が少しずれているせいで、女性の肩が濡れている。それに気付いて、夏帆はバッグからハンカチを取り出した。
「肩が濡れていますよ。春先とはいえ、まだ寒いから風邪を引かないように気を付けて下さいね」
なぜか茫然とした女に、無理矢理ハンカチを握らせる。その様子にまた不安になって、夏帆は聞く。
「本当に、一緒にいなくていいですか?」
我ながらしつこいと思いつつも、やはり心配だ。
「ええ、大丈夫。ありがとう。もう行って下さいな。出勤途中でしょう? 遅刻したら大変だわ」
目を潤ませて感謝の言葉を述べられた上に心配までされると、さすがに居づらい。
「では、失礼しますね。お大事にして下さい」
これ以上はもう迷惑だろうと、夏帆は頭を下げて立ち去る事にした。
それでも迎えが来るかはどうしても確かめたくて、ゆっくり歩きながらちらちらと振り返る。
すると、どこから現れたのか、黒塗りの車があの女性の横に停車した。雨を弾き光る高級車に驚くと同時に、本当にすぐに迎えに来てくれた事にホッとする。
ハザードランプを点滅させた車の後部座席のドアが開いた。スーツにくるまれた長い腕が出てきて彼女の傘を手に取る。それを見た夏帆は、思わず声を上げる。
「……わ」
スーツには詳しくないけれど、生地の光沢が違うのがわかった。先程の女性が慣れた様子でさっと車に乗り込む。品が良さそうだとは思ったが、本当にお金持ちだったのだ。自分とは全く縁の無い世界に、夏帆はほぅっと息を吐く。ドアが音を立てて閉まり、車が横をすぅっと通り過ぎていった。
窓にスモークが貼られていて中は見えない。しかし中からは外が見えているはずだ。夏帆は笑顔でちょこんと頭を下げて、追い越していく車に話しかける。
「迎えに来て貰えて良かったですね」
自分の出番は終わったと、ふっと気を抜いた瞬間、強い視線を感じ辺りを見回す。
五、六年程前から、時々こんな風に誰かに見られている感覚があった。妄想が酷いせいで厨二病になったのかと焦っていたけれど、ここまで明らかに視線を感じるのは初めてだ。
今はあの車から見られている気がするが、確かめようのない事を考えても仕方がない。
「ま、いっか」
妄想と並んで、現実にすっと素早く戻る事も特技のひとつで、夏帆はすぐ仕事について考え始める。
今日の主なミッションは、引き出しに溜まり始めた営業部員の立替金伝票の処理。
日付やハンコが無いのは日常茶飯事で、なぜか領収書の原本ではなくコピーが添付されていたり、但し書きがいい加減だったりなど、一筋縄ではいかないものが多い。一枚一枚、確認していく作業は、地味だが大変だ。おまけに伝票の訂正は営業部員を捕まえて直接頼まないといけない。彼らのデスクに置くと、書類が埋もれてしまうのだ。
疲れていてたまに不機嫌な彼らではあるけれど、明るく元気にお願いすると伝票の処理スピードが早くなる。その事に気付いてから、夏帆はうまく仕事を回せるようになった。
いつも訂正して欲しい場所にメモ書きした付箋を貼っているが、今日は先日、文房具コーナーで見つけた、かわいい猫のスタンプも押してみるつもりでいる。
「でも、さすがに部長には無理かなぁ」
まず誰にあのスタンプを押してみようか。営業のメンバーを思い浮かべながら、夏帆は水たまりをジャンプして避けて、また気持ち良く道を歩き始めた。
――理想の世界と違っていてもいいじゃない。一緒に楽しい部分を数えよう。
昔、そう言った母と、住居としていた狭い部屋の冒険に繰り出した事がある。
そうして部屋の片隅にいた小さな蜘蛛をモンスターに見立てて、ふたりでキャーキャーと笑いながら怖がったのも良い思い出だ。それらの積み重ねが今の妄想力に繋がっている気がする。あれから夏帆は、つらい現実に負けないよう妄想で乗り切るようになった。
でも、そんな風に前向きでいる事が無理な時だってある。
『俺の青のタオルはどこだ』
裏紙を使って猫のスタンプを試し押ししていると、父親からメールが入ってきた。
仕事中だから無視しようかとも思ったが、そうすれば返事をするまでずっと送られてくる。それを考えると、重苦しい気分になった。
父子家庭、という環境で生きてきて得られたものは沢山あった。けれど、得られなかったものもある。その最たるものは、自分の時間。
『明日、洗濯するつもりだよー。晴れみたいだから』
語尾に笑顔の絵文字をつけるのも忘れない。
仕事後はいつも時間との戦いで、昨日は食料品の買い物を最優先にした。重い買い物袋を手に提げて帰りつき、洗濯物の山に手をつけようとはしたが、雨の天気予報に洗濯をやめたのだ。
『コインランドリーがあるじゃないか』
自転車で十分の所に確かにあるが、食事の用意をした後に行けば良かったという事だろうか。
『しっかりやって下さい』
「むかつく……」
どこまでも上からなメールに、思わず声に出して文句を言ってしまった。父は、何故か青のタオルにこだわりがある。なら自分で洗濯をしてとお願いをしても聞き入れられる事はない。
暗い気分に陥りそうになっていると、同僚で、部内一番の美人、石田美雪に肩を小突かれた。
「眉間の皺、ウケるんだけど」
「ええっ」
やばい、と夏帆が慌てて指で眉間をぐいと広げる様子に美雪が笑う。その笑顔に釣られて夏帆の頬も綻んだ。
「何、その猫スタンプ」
そう言いながら、美雪がレーズンサンドを二個手渡してくる。包装に書かれた有名菓子店の名前に、夏帆は目をキラキラさせた。
「え、なになに、貰ってもいいの。すっごく嬉しいんだけど」
「取引先からの手土産だってさ。夏帆を太らせようとしてるだけだから、感謝しない方が良いよ」
お土産のお菓子はポットやコーヒーが置いてある辺りに置くようになっていて、自らチェックしにいかないとありつけない。美雪はわざわざとってきてくれたらしい。
「ほんっとにこのレーズンサンドは美味しいよねぇ。いつもありがとう!」
素直に喜ぶ夏帆に美雪はまた笑って、裏紙に数十個は押してある猫スタンプを指でくるりと囲った。
「で、これ何」
「伝票訂正お願いします、の付箋に押そうかと思って」
夏帆がうきうきと紙を持って顔の前にかざすと、美雪は苦笑した。
「まぁ、夏帆がやればかわいさ倍増か……。てかさ、手渡しをしてるだけで十分だと思うよ。前任の小崎さんは、『営業は伝票を間違う上に、机に置けば埋もれさせて、そのくせ入金処理が遅れてるーって事務と経理に文句つけるのが許せん』って、最終的に訂正がいる伝票をディスプレイにセロテープで貼ってたじゃん」
「はは……」
以前、立替金の書類を担当していた小崎と営業の戦いは有名だった。そのせいで部内の空気が悪くなっていた事に頭を痛めていた上司が、小崎の後任として白羽の矢を立てたのが夏帆だ。
「明るくて元気で素直で従順って、面倒くさいものを押しつけられるよね」
「美雪さん、言葉をもう少し選んで貰えると嬉しい……」
思い当たる事があり過ぎて、夏帆は裏紙で自分の顔を隠す。確かに小学生の時から、人がやりたがらない係がよく回ってきた。
「人の事ばっか考えてないで、自分の事も考えなよ。そのスタンプはかわいいと思うけど」
「うん、ありがとう」
とはいえ、仕事なのだからやらないという選択肢は無い。とにかくやってみるという姿勢でやってはきたが、そうすると他人優先になってしまうのかもしれなかった。
……難しいなぁ。
柄にもなく考え込んでしまった夏帆の肩を叩いて、美雪が席に戻っていく。その手にレーズンサンドが無い事に気付いた。
「あれ、自分のお菓子は」
夏帆が慌ててレーズンサンドをひとつ差し出すと、美雪は首を横に振った。
「甘いもの食べて、その眉間の皺を伸ばしなさいよ。私はお金持ちだからいくらでもあのレーズンサンドを買えるの」
「あ、金持ちネタ。……いつもありがとう」
美雪はそう言って、よくいろいろなものをくれる。妹が自然派化粧品の店に勤めているという事で、内緒にしてねと言いながらテスターとして出していたせっけんなども、余裕の無い夏帆へわけてくれるのだ。
それなのに、と机の上に視線を戻した所、スマホが目に入って、父親とのやりとりを思い出した。夏帆は眉間に皺を寄せるのを堪えて溜息を吐く。
『タオルは明日の朝に洗います。ごめんね。今日は飲み会だから夕ご飯は冷蔵庫に入れています』
怒っても不貞腐れるだけなので、受け流すようになったのはいつからだろう。自分の事しか考えない人と一緒にいると、自分自身がなくなっていく。
夏帆はメールの送信ボタンを押しながら、レーズンサンドを齧った。
いつか父親と離れないといけないと感じていたが、そろそろその時が近い気がする。
力を込めずにポンッと押したスタンプはかすれも無く、インクも滲まずきれいで、夏帆はよしっと笑みを浮かべた。
夕方まで勢いよく降っていた雨は、部の飲み会が終わる頃にはやんだ。会社から程近いチェーンの居酒屋の狭い個室で行われた会は終始和やかで、皆楽しそうにしていた。
夏帆は自宅の最寄り駅で電車を降り、濡れた道を軽やかな足どりで歩く。人がまばらになると、傘の石突をコンクリートにコツンと打ち付け、ぐんっと拳を夜空に突き上げた。
先程の飲み会で女子社員の憧れである、営業部のエース小池久二にミスの無いデータ入力を褒められたのだ。
明日も頑張ろう、と考えて拳を突き上げたままでいると、その向こうに満月が見えた。
一軒家のブロック塀の上からハクモクレンの花を咲かせた枝が伸びている。その光景に、浮かれていた心がすっと落ち着く。
「そっか、そんな時期か」
ぽつりと呟く。この時期のある日、貧しくとも日常を楽しむ事を教えてくれた母がいなくなった。夏帆が小学校から帰り、鍵を開けると部屋は誰の気配も無くガランとしていて、いつも漂ってくる味噌汁の匂いも無かった。寂しくて玄関で靴も脱がずに膝を抱えて泣いた事をぼんやり覚えている。
『お母さんが帰ってきますように』と願った日々の鈍い痛みを、花の甘い香りを吸い込んで隠す。
父親に母親の事を聞いても答えてくれないまま、もう十年以上経つ。
その時からずっと、夏帆は父親とふたりで昭和感溢れる木造二階建てアパートに住んでいた。アパートは古いが、一階に住んでいる大家が管理人として共用廊下や階段を毎日掃除してくれるのできれいだ。
いつも何かと気にかけてくれる気の良い老夫婦が、夏帆は大好きだった。
そう、人生は悪い事ばかりじゃない。
角を曲がるとアパートに着く。黒塗りのピカピカ光った車と、それを怪訝そうに見ている大家夫婦の姿が目に入った。一日に二回も同じような黒塗りの車を目にするなんて、と夏帆は首を傾げる。
「ああ、夏帆ちゃん」
「こんばんは」
帰ってきた夏帆に近寄ってきたのは妻の加代だ。既に二十二時で、いつもなら寝ているのだろう、パジャマの肩にカーディガンをかけている。
「今ね、家を引き払うって、男の人が来てね。夏帆ちゃんが心配で」
「家を引き払う? うちが?」
覚えのない話に笑顔のまま固まってしまう。そんな夏帆の腕に、加代が触れる。
「私たちもそんな話を聞いていなかったから、驚いちゃって。またあの……」
嫌悪感で語尾を濁した加代の言葉の続きを、夏帆は穏やかに引き受ける。
「うちの父親が迷惑をかけているんですね」
良く言えば自由人の父親は、大家夫婦に嫌われているのだ。
夏帆は諦めと落胆を覆い隠すように深々と頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい」
「何か危険な事があったらいけない。俺も一緒に上がってやるから」
いつも寡黙な夫の孝蔵が、夏帆に向かって力強く言った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。いつもの事だから」
夏帆が寂しげに笑うと孝蔵と加代は顔を見合わせる。そう、いつもの事で、今日は黒塗りの車というオプションが付いているだけ。
「何かあったらすぐに叫んで、うちに駆け込みなさいね」
大家夫婦はいつもこうやって夏帆に親身になってくれる。助けを求めた事はないが、気にかけて貰えるだけで気持ちは楽になった。
「はい。ありがとうございます」
加代と孝蔵は目を合わせ、同時に溜息を漏らす。
「ほんと、こんなにちゃんとした良い娘がいるのに、なんでまた……」
孝蔵の悪気の無い言葉に、夏帆の気持ちはきゅっとなった。
「そんな良い子じゃありませんよ。夜分遅くにご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて、ふたりの心配を背に外階段を駆けるように上る。
……今日も良い日だから、大丈夫。
昼間、同僚とコンビニで面白がって買ったお菓子のおまけが四葉のクローバーだった。美雪にはレーズンサンドをふたつ貰って、飲み会では営業部のエース小池に褒められた。
お父さんを叱って、それから眠れば良い。そうすれば明日はいつもの朝が来る。
「ただいま。お父さん、いる?」
どきどきしながら玄関に入って電気をつけると、三和土から上がった所で父親が正座をしていた。
「わっ!」
思わぬ場所にいた父に、驚きのあまりよろける。
作業着姿の父親・弘樹は、いつもの無邪気な笑顔を浮かべた。
「夏帆、喜べ! 金持ちになれるぞ!」
「は?」
何かと場の空気を読めない父親だが、これは酷い。夏帆はまだ妄想と現実の違いはつく。
「お父さん、夢を見てないで現実を見て。家を引き払うって何なの。大家さんが心配してたよ。とても良くして下さっているのに、迷惑をかけるのは駄目だよ」
弘樹の不機嫌のボタンを押さないように言葉を選ぶ。彼は一度へそを曲げてしまうと面倒くさい。
「今から大家さんに謝りに行こう。あの黒塗りの車はうちと関係ないよね?」
「なんだ、高級車でも停まってるのか」
夏帆の心配もどこ吹く風、弘樹は上機嫌だ。ひとまず、あの車はうちとは関係がないらしいとわかって安心しかけて――すぐ、ドキッとした。
キッチンの奥にある六畳間で、男が壁に寄りかかって立っているのが視界に入る。
古い家で天井が低いとはいえ、鴨居に隠れて顔が見えない程の長身。体に合ったスーツが高級品だという事は生地の質感でわかった。
「お父さん……、お客様が来てるの……?」
輝く黒塗りの高級車の持ち主かもしれないと、冷汗が額に浮かんだ。
この状況に、あんな車なんて、怖い職業に就いている人を連想してしまう。ドラマでよく見る展開に、夏帆は自分を守るみたいに腕を抱きながら、視線で男を示した。
「どちら様なの……」
「夏帆、あの人と結婚しなさい。お前の母さんの婆さんと知り合いだから、心配する事はないよ」
生まれて初めて、父親から母方の祖母の話をされた。しかも、結婚の話と一緒に。
言葉で頭を殴られたような衝撃を受けた。心臓がドクドクと打ち始め、体はどんどん冷えてくる。
「大家にはもうここを引き払うと話をしている」
「引き払うって本当だったの!? それに、何、急に、結婚」
知らない男と結婚という現実感のない展開に、何が何だかわからず夏帆は唖然とした。
父親の弘樹は正座をしたまま、唾を飛ばす勢いで話し続けるが、夏帆の頭には何も入ってこない。だが、次の言葉で否応なく現実に引き戻された。
「お父さんの借金を肩代わりしてくれたんだ。良い人だろう?」
結婚と借金というふたつの言葉の前に力を無くして、気付くと肩を玄関の壁に預けていた。
「待って、借金って……、全部でいくらなの」
総額を知りたかった。自分の奨学金の返済もあるが、働いているし、どうにかなるかもしれない。
「一千万だ」
「いっ……」
まるでスーパーで売っている野菜の値段を言うような軽い口調に、体から力が抜けてずるずるとその場に座り込む。
玄関に入る前に、今日も良い日だと囁いていた自分の声が遠くに聞こえた。どうしよう、どうにかしなければ、という思考がぐるぐる頭の中を回って、うまく考えがまとまらない。
ただ、頭の片隅にとても冷静な自分もいて「父親を甘やかしては駄目だ」と自分を諭してくる。ここで夏帆が借金を返せば、同じ事を繰り返し続けるだろうと。
「自分で返さないと、ダメだよ」
体に力を入れて、なんとか父親を見上げて声に出す。
「いいんだ。あの人はもう身内なんだから」
意気揚々とした台詞に泣きそうになった。開き直りという言葉を体現している父親に目の前が暗くなるが、気弱になっている場合じゃない。まずは迷惑をかけている相手に謝罪しなければと気持ちを奮い立たせる。恐らく結婚うんぬんは父が勝手に言っているのだ。
「すいません、父がご迷惑を」
夏帆が顔も見えない男に謝ろうとすると、父親がそれを機嫌良く制した。
「いいんだよ。身内っていうのはな――」
「そこまでだ」
凛とした低い声に、夏帆はなぜか安心した。怒っているのでもなじっているのでもない、冷静な声色だったからだろう。
立ったまま話を聞いていた男が、頭を下げて鴨居をくぐってきた。
「想像以上だな」
独り言ちた男の、視線を外せなくなる程整った顔立ちに衝撃が走った。目鼻立ちがはっきりしていて、長い睫毛が縁取る目には肉食獣のような強さと静けさが宿っている。髪は黒くて短く、額を全て見せる髪型。真っ直ぐな眉に自尊心の強さが見て取れるようだ。
狙われればきっと逃げる事など出来ない。そんな野性味を感じさせる大人の色香に釘付けになる。
男は夏帆と一瞬だけ視線を合わせたが、すぐに逸らした。彼の素っ気ない態度に、こんな状況で見惚れてしまった自分が恥ずかしく思えて俯く。
男は夏帆がいる玄関に近寄りながら、流れるような動作でスマホを操作し耳にあてた。
「ああ、俺だ。もういい」
男は父親の真後ろに立ち、鋭く光る目で夏帆を見下ろす。高い鼻梁が作る影のせいか、えもいわれぬ不安に襲われた。
「……あの、どちら様、でしょうか」
もういい、とはなんだろう。父親と自分はどこかへ連れていかれるのではないか、という不安に、夏帆は震える。
頭に思い浮かんだのは大家夫婦の顔だった。彼らに助けを求めたかったが、父親に借金があると知った以上、無関係な老夫婦を巻き込めない。
「ああ、羽成さん。これが娘の夏帆ですよ」
父親の媚びへつらうような口調にショックを受けて、夏帆の息が止まった。その様子を見て取ったのか、男はとても柔和な笑顔を向けてくる。
「俺は羽成義信といいます。驚かせて悪かったね。大丈夫かい」
義信は娘を指差す弘樹を無視して、自己紹介をしてくれた。
「羽成、さん」
「はい。久我夏帆さんで間違いありませんね」
こくこくと頷くと、彼もひとつ頷く。
「夏帆、年上の男は頼りがいがあるぞ」
父親も、いなくなった母親より年上だったはずだ。だが、夏帆が物心ついた時には、父親はあてにならず母親が働いていた。
「……お母さんは、お父さんを頼りにしてたの?」
「親に口答えをするもんじゃないぞ」
純粋な疑問に不機嫌そうな答えが返ってくる。
「だって」
夏帆がまた口を開きかけると、鍵をかけ忘れていた玄関ドアが開いた。ビクリと体を震わせた娘を気にした様子も無く、弘樹が膝を押さえながら立ち上がる。
「まぁまぁ、終わり良ければ全て良しだ」
振り返るとスーツ姿の男がふたりもいて、夏帆の体はガクガクと震え始めた。手を握り合わせて震えを止めようとしても止まらない。
このまま借金のカタに水商売をやらされるのか、あるいは海に沈められてしまうのか。サスペンスドラマで得た知識が夏帆の頭の中をぐるぐる回る。
「立てますか」
義信は弘樹を押しのけて、夏帆の冷たい手を上からそっと握ってくれた。
「あ……」
それだけで、夏帆の震えが少し収まる。そのまま義信に立ち上がらせて貰い、父親の横を通って家に上がった。当たり前みたいに肩を抱かれて、彼に寄り添うように立つ。
義信は玄関の外で立っている男に指示を出した。
「頼んだ」
「了解です」
「後は若いふたりでってヤツかな!」
場の重い雰囲気にそぐわない、弘樹の明るい冗談が空回りする。
「お父さん……」
背広姿の男ふたりが弘樹の両腕をがっちりと掴むのを、夏帆は映画でも見るように眺める。やめて、待って、という言葉が出てこない。
「ああ、夏帆、後でな!」
後なんてない。そんな事は夏帆でもわかるのに、弘樹は笑顔だ。ドアが閉まって義信がドアの鍵をかけると、静かな部屋にふたりきりになる。
「……父は、どこへ連れていかれるの」
「今の職場を辞めさせて、寮付きの仕事場に移す。ここには帰さない」
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