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優しさの奥にある疼き
しおりを挟む泉の視線は、無人となった脱衣所に縛り付けられていた。
音川の裸の上半身はつややかに光るほど水々しく、そしてスウェットパンツに手をかける仕草で——鼠径部のマーメイドラインがくっきりと現れてしまい、それは泉の下半身に身震いするほどの痺れを走らせた。
もし通話の呼び出しがかからず、『背中を流そうか』など体育会系のノリで(そんなことはあり得ないが)、裸の音川が浴室に入って来ていたなら、あの美しいグリーンの両目にシャンプーで目潰しをして逃げるか、一生湯船から出られなくなっていただろう。硬く反応した下半身が見られたりすれば、もう一巻の終わりだ。
ハァ、と泉は全身の緊張を解くために大きくため息をついた。
「冗談キツいよきみのパパ……。それにしても、どうしてあんなにかっこいいんだろ……僕も鍛えればあんなふうになれると思う?」
バスタブの角に陣取っているマックスに問いながら、蛇口から水を出して手に掬って差し出すと、満足気にゴロゴロと喉を鳴らして飲み始めだ。実家の猫と同じく、風呂場の水は特別美味しく感じるらしい。
泉はバスタブから出て、少しの間縁に腰掛けた。
まだ数分しか浸かっていないのにもう逆上せそうだった。彼の存在は刺激が強すぎる。
一方、仕事部屋にほとんど駆け込むように戻り通話を受けた音川は、デスクに両肘を付き、長身を折り曲げるようにして頭を抱えた。救いの神は課長だった。つい先程、連絡が欲しいとチャットを送っていたのが功を奏した。
「助かった……」
あのまま浴室にいればどうなっていたのか想像するのも怖い。
「なにが?」
「いや……折り返しの連絡をもらえたから」と誤魔化す音川に、「そりゃ音川君なら最優先でしょ」と課長はさもありなんとばかりに言い、本題に入った。
課長が音川に相談しているプロジェクトは、東京都内にあるT製薬会社の帳票出力システムの開発だ。すでに開発は終わりプロジェクトは最終段階にある。
この段階では、エンドユーザーが実際の業務に沿って作成されたシナリオに基づきシステムの全機能を運用しながら検証するのだが、そこで現場から不満の声が出てきた。万が一、それが通過すれば、システムを根本的に改修する必要が出てくる。最悪の事態だ。
当初からこのT製薬は、開発前のヒアリング時点から要望や優先順位が2転3転することがあった。そこで、内部統制や情報共有に要注意な顧客と判断し、弊社としては用心を重ね、1つの機能ができるごとにユーザー検証を行い、小石を積み上げるようにしてようやく完成まで漕ぎ着けたところだった——
以上が、課長の説明だった。
「その『不満の声』っていうのは?」
「一言で言うならベテラン社員の反発。まだ帳票が手書きで、FAXで当局に送信していた時代からこの業務に携わっている」
「単独で?」
「そうみたいね。誰も逆らえない、いや、逆らいたくないだけだな」
「ああ、」と音川が納得の声を漏らした。
過去に別の大手製薬会社と仕事の経験があり、そこも古い体制が根強くてずいぶん苦労させられた覚えがあった。
最も手間取ったのは、システム検証中にユーザーから「ここが想定と違います」と非常に細かい指摘が上がってくるが、その『想定』とやらが返ってくるまでに時間が掛かることだ。しかも、対応後に「やっぱり元に戻してください」とあっさり撤回することもしばしばで、具合が悪くなってプロジェクトから外れたエンジニアもいる。
ようは、ベンダーは黙って言われたことを遂行すれば良し、みたいな古い文化が染み付いているのだ。他の業種、たとえば医療機関とも仕事をしているが、製薬会社がぶっちぎりでこの傾向にあるのが奇妙だと音川は常々感じていた。
「うちとしては改修は是が非でも避けたいんだろ?」
「その通り。開発期間に1年間掛かってんだからさ、とてもじゃないけどたった一人の『理由なき反抗』で無にされてたまるかっての」
「だいぶ言われてるみたいだね」課長の投げやりな口調に苦労が滲んでおり、音川はシンパシーを表す。
「その問題の人物はシステムを使うユーザー側でさ、最終の動作検証で突然現れたんだけど……発言のほとんどがパワハラに該当すると言っても過言じゃない。ベンダーを人として扱わない世代からの負の遺産だよ。だから、うちの優秀な開発陣には対応させたくなくて。あ、音川君なら平気ってわけじゃ……」
「なにを今更」
「だよね。いつもトラブルの収束を任せてごめん。百戦錬磨の音川君の腕で、なんとか方向を戻して貰えればと。面倒な頼みなのは分かってるんだけど」
「いや、それが俺の仕事だから」
実際のところ、音川の知識に裏付けされた堂々とした態度は、どんな状況下でも対面交渉において絶大な影響を与える。相手次第で様々なアプローチを使い分ける術を持ち、また仕事で誰かにそれを利用されることも全く厭わない。
「かっこよ……」
「だろ」
「その自信が頼りになるよ。先方に赴くならさ、泉君も連れて行ってくれる?」
「そのつもり。開発に参加するだろうし」
「良いホテル取っていいから。手間料ってことで」
「いや……日帰りかな」
「相変わらず真面目だねぇ。俺なら満喫するけどね、夜の東京を」
「一人ならそれもいいだろうが、泉がいるからな。教育上よろしくない」
「へぇ?いつからそんな厳格な教育係になったの?」課長は片眉を上げてみせた。
「貴重な人材だからな」
「面倒臭がってたからてっきり放任主義かと。泉君、CTO直々の指導を受ける価値があるでしょ」
「知ってたんだな」
「最初の採用面接でね。あの時は……俺の力不足で、美大卒だからってんでデザインに取られちゃったんだよ。デザイナーとしても良かったから、あの保木さんの事件の後は転職されてもやむなしだったんだけど、開発に来たいって言ってくれてさ」
「よく残ってくれたよ、本当に」
「音川君をメンターに付けたのはお詫びというか俺の後悔の証ってわけ。最高の環境を与えたくて」
「なるほどねえ。じゃあ特別扱いありきでの異動なんだな。あ、そうだ。特別ついでに、泉の開発環境をテレワーク用に持ち出していいか?総務を通すと手続きに時間がかかるだろ?」
「まあ2週間は掛かるね。うん、いつでもいいよ。来週、泉君の出社の日にでも……」
「いや、俺が行く」音川は課長が言い終わる前に宣言した。「週明けまでには取りに行くから。問題ないよな」
「そりゃ音川君なら。総務には伝えておくよ」
「助かる」
通話を終えると、T製薬のプロジェクト担当者宛に、対面での打ち合わせを提案した。わざわざ出向いて行くことでこちらの誠実な態度も伝わると思いたい。
そして音川はチラリと仕事部屋のドアに目線をやった。部屋の向かいは浴室だ。
奇妙な感覚だった。
まず、平日の朝から自宅の浴室を部下が使っているこのシチュエーションが現実離れしている。
これは、泉を放っておきたくなかった音川の願望が見せている妄想で、本当はあのまま喫茶の前で別れており、第三者が見れば自分は一人でいつも通り仕事しているのではないか。
ちょうどその時、ざぶり、と浴室の方から水音がして、「やっぱり現実だった」と音川は急いで立ち上がり寝室に向かった。
入浴中に寝具の用意をするつもりだったが、頭から抜け落ちてしまっていた。素早い速度でベッドシーツを交換し、客用の枕と掛け布団を出す。バッサバッサと空気を送り込んで夏用の薄い羽毛布団を膨らませ、エアコンの温度を下げておく。
ベッドを整え終わりリビングへ行くと、音川が用意したTシャツとハーフパンツを着た泉が大あくびをしているところだった。目尻にたっぷり溜まった涙を指で拭っている。
寝不足のところに温かい入浴とくれば、もう睡魔に抗えるわけもない。
「お風呂、ありがとうございました」
「いいよ。ほら、ここに来て」
音川は泉をソファに座らせ、自分は向かい合う形でコーヒーテーブルに腰掛けた。
「痛くない?」
顎の先に指を添えて軽く上を向かせると、泉は素直に従った。
首周りの皮膚が裂けているところを丁寧に消毒し、絆創膏を貼る。
「他に怪我は?」
「ない、です……」
泉は申し訳なさげな細い声で言うと、音川が貼った絆創膏にそっと触れた。
そうすると、保木に対する悔しさ、憎らしさ、不安……自分の中で渦巻いていたそれらネガティブな感情までもが、音川によって蓋をされたようで、嬉しくて、くすぐったい。まるで音川の指先に、何でも直してしまう万能薬が付いているかのよう。
その間、向かいに腰掛けていた音川は、微かに微笑んでいる泉にどうしようもないほどの痛々しさを感じていた。
痛がって傷をこさえた原因の相手を罵ったりする方がまだ元気を感じられるのに、絆創膏に指を当てて微笑んでいる様子が余計に儚げで、いますぐ抱きしめなければ消えてしまいそうだった。
しかし、それは行き過ぎた情だ。
負傷した部下の手当を引き受けた上司として、適切ではないことぐらいはまだ判断できる。
音川はコーヒーテーブルから腰を上げた。
「寝室は仕事部屋の隣だ。シーツも変えてあるし、好きなだけ寝ていいから」
「ベッドまで使わせてくれるんですか?」
「うん。たぶんマックスがもう待ってるから、邪魔なら部屋から出しておいて」
「それは嬉しいです。一緒に寝たい」
「マックスが喜ぶよ」
「……あの、」
「ん?」
「ご迷惑おかけして、すみません」
「何言ってんの。さ、寝ろ寝ろ。何も考えんな」
音川は、洗い立ての泉の頭をひと撫ですると仕事部屋へ戻った。泉がくしゃりと顔を崩して笑顔になってくれたので、正しい行為だったようだ。手のひらに感じたその柔らかな感触が消えないうちにPCに向かう。
泉がケガという実害を被ったことは大変に憂慮すべきことである。
しかし、事情によっては泉の力になれるかもしれないという『期待』を、どうしても打ち消すことができない。そんな自分の卑劣なエゴを恥じと感じているのに、同時に、現在進行系で泉に逃げ場を提供しているという事実に悦に入る。
彼に関わること全てが、面倒の対局にあるように感じられる。
責任者である音川自らが、会社の人間のプライベートに関わらないスタンスを保持することで、部署全体にもその文化を根付かせてきた。
——俺は、時間をかけて構築したものを自ら解体するような非生産的行為に手を染めているのか——
少しだけ開けてある仕事部屋のドアから、マックスが入ってきて音川の思考は頓挫した。デスクにヒョイと飛び上がる長毛の友を撫で、「泉のそばに居てあげて」と声をかける。マックスはまるで「了解」とばかりに音川の顎にゴツンと頭突きをして喉を鳴らし、足取り軽く部屋から出て行った。
それから音川は昼休み返上で課長の件を資料にまとめてそれを内部に展開し、東京出張の計画を立て、そしてついでに月曜日の年休取得を申請をした。
更に音川は速度を上げて仕事に取り組み、20時には残すところ火曜の出社のみという状態まで終えた。東京のT製薬からは返答が来ており、面会可能とのことだった。
時間が遅いため一旦それへの返信は保留し、音川は社用PCを落とす。
無音になった部屋に、「帰れなくて……」と絞り出すような悲痛な泉の声が耳にぶり返す。
ならば、帰さなければいいだけのことだ。
***
降って湧いた3連休——実際は無理矢理作ったものだが——の余裕で、仕事を終えた音川はソファにだらりと伸びて、好物のラム酒を1杯、2杯、と怠惰に重ねていた。空腹ではあるが、どうせなら泉と食べに出るつもりだった。自分が酔いつぶれる前に寝室から出てくればの話だが。
時計の針が21時を周り、それにしてもよく寝るなと思い始めた時、マックスがトコトコと軽い足音をさせながらリビングへ入ってきた。その後ろから、すり足気味で素足の泉が目をこすりながら続く。
「寝た……」
「寝たねえ」
「何時……?」
「21時」
「そんなに?あ、お腹、空いた……かも」泉は身体をくの字に曲げて腹に手を置いた。
「俺もだよ。出かけようぜ」
「こんな時間に?」
「行きつけの居酒屋なら開いてるよ。焼き鳥が美味いんだ」
「い、行きます!」
急に目が覚めた様子の泉は、顔を洗ってくると言いリビングを離れ、音川は店に電話を一本入れてからグラスの中身を飲み干した。
真夏のねっとりとした夜の道をふたり、空腹に急ぎ足でめざすは、駅の南口にある柳通りだ。
「音川さん、いい匂いがする」と泉が音川の肩口に顔を寄せる。
「汗臭いの間違いじゃないの」今夜も間違いなく熱帯夜で、外へ出た途端に汗が滲んだ。
「違います。甘いような、なんだろ」
ラム酒だろうか、と音川は心当たる。匂うほど飲んではないつもりだったが、汗と共に身体から抜けていっているのかもしれない。
「泉が好きな匂い?」
「はい。酔いそうな、花みたいな」
おそらくラムだ。そんなに寄ってくる程好きな匂いなら、一瓶飲み干すか、頭から被っておくんだった。
焼鳥屋の引き戸をガラリと開けると大将が威勢の良い声で、「入って入って!ほんとによう、真夏に焼鳥を食う客の気が知れないね」と白く燃えている炭火を前に大汗をかきながら、しかしまんざらでもなさそうな笑顔を向けてくる。肉付きの良い丸い頬が炭火の熱で赤く火照って、相当暑そうだ。
席につくなり2人ともハイボールを注文し、ドリンクと共に電話で注文しておいた串の盛り合わせが運ばれてくる。
続けざまにテーブルいっぱいに小鉢や刺し身が並ぶのを見て「音川さんといるといつも満腹になるんですけど」と泉は満足気な表情で、裏腹に不満を述べる。「ここは常連なんですか?」
「うん。毎晩とまではいかないけどね」
「いつも外食で?」
「料理できねえからなあ」
「僕、何か作りましょうか?」
できんのかよ、と笑い飛ばす音川に、今ちょうど自炊の練習をしていると泉はやや胸を張る。
「見ただろ、うちのキッチン」
「見ました。使った形跡がない」
「一人暮らしで料理なんて、非効率だ」
「まあ、それは一理あります。でも、僕ら若手の場合、一人暮らしで毎日外食してたら破産しちゃいますよ」
「そんなことはない」と音川は即打ち消した。「心配しなくても今まで通り朝はモーニングに来ればいいし、夜も……いつでも連れて行くよ」
泉の頬に、酒のせいではない赤みがサッと現れた。
「ほんと、ですか?」
「ああ」
「それはとても嬉しいんですけど……。僕、一人暮らしをしながら自炊というのに少し憧れがあって。それに……す、好きな人に、手料理を振る舞ってみたいというか……」
「へぇ、そうなんだ」
音川は手にしたグラスを少し振って氷をなじませると、くいと飲み干して通りがかった店員にお代わりを頼んだ。
少しだけ勇気を出してみた泉からすれば、まるで伝わらずに完全に他人事のように受け流され、大きな肩透かしだ。
「音川さん、大阪の人なのにタコ焼きも作れないんですか?」
「あっ、何だよ急に」
「じゃあ好物を教えてください」
「なんでも好きだけど……敢えて挙げるなら、スパイスが効いたものかな」
「ああ、そうでしたね」
「それで思い出した」
音川が頼んだ栗焼酎のグラスがテーブルにごとりと置かれる。
「盆明け、東京出張だから」
「出張?いつ決まったんですか?」
「今日。日帰りのつもりだが、泊まりの方がいい?」
泉は小首を傾げてキョトンとした表情になった。「僕も一緒に、ですか?」
「そうだよ。どのみち開発に加わってもらうつもりだしね。それに、前に高屋さんが言ってただろ、スパイス料理の店が沢山ある所。時間があれば行ってみないか」
「行きます。で、テイクアウトにしましょう」
「は?」
「新幹線がインドの匂いになりますが、たくさん買い込んで、音川さんの家でのんびり食べたい」
「そりゃまあ……そうか。電車の時間を気にしながら食いたくねえな」
「じゃ、決まり……着替え取りに帰らなきゃ」そう泉が言うのを「ちょっと待て」と音川が遮った。「俺の認識が合ってるなら、出張に行くのも帰るのも、俺の家から、だよな?つまり、少なくともそれまできみは俺の家にいるということで……」
泉の空になったグラスの中で氷がガチャンと音を立てる。
「あ……僕、勝手にそう思ってしまって。なんでだろ」と後半は独り言のように小さくつぶやき、泉は口元に手をやって考えこむ。
(奇遇というか、共感覚ってこういうことなんだろうか)
音川はとっくに空にしてしまった自分のグラスを両手で包み、なぜもう空なのか分からないような無垢な顔をしてため息をついた。
「一人暮らしの話だけど」と音川はジェスチャーだけで店員にお代わりを頼みながら切り出した。「そのケガの原因と、なにか関係あんの?」
「あ、いえ、ないです。ただ、早く一人暮らしをした方が、今回のようなことがあっても家族に迷惑掛けずに済むというか……」
「ふーん」と音川は低く反応した。家族に害が及ぶような事態だということだ。
駅での怯えた様子がフラッシュバックする。
相当、面倒なことに巻き込まれているのかもしれない。
「あの、もちろん音川さんにも迷惑を掛けたくは無いんですが……」
「そうじゃなくて。俺を頼ってくれてると思っていい?」
「は、はい……!」泉は、深く頷いて答えた。
「言っておくが、俺はきみを帰すつもりは無い。問題が解決するまで、いや、少なくともその傷が消えるまでは俺のところに居て欲しい」
その言葉は、泉の瞳にじわりと熱いものを滲ませた。
眼の前にいる憧れの上司は顔色一つ変えず強い酒をロックで何杯も重ねている。顔に出ないだけで中身は酔っていないとも限らないが、酔って適当なことを言う男ではないはずだ。
「ありがとうございます……僕、洗濯でも掃除でも何でもします」
「そんなのは間に合ってるよ。俺としては、きみが普段どんな風にコードを書いているのか見られるだけでも役得だ。……で、さっきの話だが」
音川は、すぅっとグリーンの目を細めて泉を射るように見つめた。
「きみが手料理を振る舞いたい相手とは、誰のこと?」
「えっ今?そそんなの言えるわけ……」
酒で火照っている耳をますます赤くする泉を見据えたまま、音川は「ああそう」と呟くと届いたばかりのグラスをまた一気に空ける。「若いねぇ」
「そう、かな……でも何か役に立ちたくて……たぶん他に敵うものはないから……」
胸にズクンとした痛みを感じて音川は顔をしかめた。
ごく最近、自分も同じような思考を持ったはずだ。できることがあれば何でもしてやりたいと——
泉にも、そういう相手がいるのであれば——
「分からなくもない」
「音川さんにも……誰か……」消えそうなほど細い声だったが、音川には聞こえたようだった。
「ん?ああ、誰か、というより」音川は代打を急いで探した。「マックスがそうだなって」
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「まあ……ね。さすがに手作りのフードをあげたいと思ったことはないが。いやでも料理が好きならそうなったかもしれん。そう考えると、俺はしてやれることが少ない気がするな……最近は俺より泉に懐いてるようだし、危ない」
「寝ている間も、ずっと一緒にいてくれたみたいです。寝癖付いてた」
「だろ。これでさらに泉があいつに美味いものを食わせたらどうなることやら」
「音川さんも料理をしてみるとか?」
「まさか!人間一人でも非効率だと思うのに、猫のためだけに?万が一何か作って不味かったらどうすんだよ」
「そのリスクはありますね。感想が聞けないから一発勝負ですね」
「そうだな。泉には、俺が人間を代表して練習台になってやるよ。評価は辛口と甘口のどっちがいい?」
唐突な音川の申し出に、一瞬泉は戸惑ったがすぐに立て直した。
「普通でお願いします。でも音川さんち……包丁もないのに?」
「それも今日まで。明日、色々買い揃えに行こうぜ」
本命から練習台の役を申出されるなんて不本意極まりないが、泉は言いたいことを飲み込んで、代わりに明るい返事をして見せた。
今それを言ったところで、何か事態が好転するとは思えない。それどころか、泊めてくれるという音川の好意を誤解して舞い上がってしまった粗忽者になるのが落ちだろう。
胃袋を掴む、という言葉がある。音川の舌を唸らせることができたなら、その時には本番の舞台に上がってもらえるかもしれない——
未来への淡い期待は、泉の心をふっと軽くさせる。
音川といるといつもそうだ。
「そういえば音川さん、あのリビングの隣の部屋。僕が最初にお邪魔した日にも、デスクなんてありましたっけ?」
「いや」
「模様替えですか?仕事部屋の移動とか」
「そういうわけじゃない。まあ、あれだ。泉が使えばいい、かなと」
「わざわざ購入してくれたんですか?」
「副業、手伝ってくれるんだろ?うちで作業する機会があるかもしれないからね」
「あ、ありがとうございます。何から何まで、すみません。その上、調理器具まで揃えてもらおうとしてる……」
「いや、外食が減らせるならそれくらいの投資はしますよ。それに、きみはまだ腰痛の怖さを知らないからそんな遠慮がちなことが言えるんだ。腰痛はね、この世の地獄みたいな苦痛と絶望を与えてくる。経験者として、良い姿勢で仕事をするためのデスクとチェアは不可欠なんだ。あのデスクは俺が仕事部屋で使っているものと同じで昇降式だ。会社と同様、立って作業もできる。そもそも俺らの仕事は座り仕事の中でも特殊だろ?リモートだと外部から誰かに声を掛けられることもないから、集中したまま何時間も同じ姿勢で、同じ画面を見続けて、まるで指先だけが動く石像のようになってしまう。先日、泉がうちのリビングの床に座って、コーヒーテーブルで作業する姿ね、あれは思い出すだけで俺の腰がズキズキ痛む」
「僕、音川さんが時々めちゃくちゃ喋るやつ好きです。いい声だし」
「俺の話聞いてる?」
「聞いてますよ。そんなに痛いんですか?」
「うん」と短く頷くと、音川はテーブルに目を走らせて料理が平らげられていることを確認すると、店員を呼んで会計を済ませた。
「続きは帰り道で話してやる。そこらの怪談よりもゾッとするはずだ。熱帯夜にはちょうどいい」
「うわぁ。た、楽しみです」
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