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きみの棘ごと抱きしめたいのに
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本社の会議室で、速水は紙袋をひょいと泉に手渡した。泉は目を輝かせて「見ていいですか?」と早速デスクに袋の中身を並べ始めた。
「2冊もある。スパイスもたくさん……名前、高屋さんが書いてくれたんですか?」
いくつもの小瓶にラベルが貼られ、スパイス名が几帳面なカタカナで書かれてあった。
「おれじゃないんだ。味見しながら書いて貰った」
「まさかインドで?」と速水が高屋に尋ねると、「いや、ヒューゴに」と答える高屋の頬にさっと赤みが走ったが、泉は先輩二人からのインド土産に夢中で気が付かなかった。色とりどりの小瓶を手にとっては目の前に掲げて、瞳を輝かせている様子に、「料理というよりまるで薬剤師だな」と音川にからかわれながら。
それから土産話が始まり、最初はあちらのベンダーの様子や内情など仕事にまつわる話だったが、そのうちに雑談になり、高屋の口説かれ話へと流れていった。
「シラフで聞いてらんねえ」と大笑いの音川を、「次、インドに呼び出されたら音川さんたちに行ってもらうからね」と高屋が目を光らせた。
「うそだろ」
戦々恐々の様子の音川を指差し、「おれより絶対にモテる」と高屋が更に脅す。
「それはヤバいな」と速水が口を挟んだ。「こいつ、来るもの拒まず去る者追わずでさ、音川が歩いた後にはペンペン草一本も残らないと言われている。次は音川が原因でボイコットが起こるぞ」
「そんなに!?」と高屋が大げさに反応すると、「信じるなよ」と音川は泉に鋭く忠告した。音川にまつわるコッチ系の噂は、こうして速水によって作られてきたのだ。
「あっ、泉くんだけ?おれは信じていいの?」そう目ざとくつっこむ高屋を音川は「どのみち、高屋さんは騙されないだろ」と一瞥して、速水が調達してきたレシピ本を手に取る。
「僕は騙されやすいってことですか?」
「信憑性があると思わない?なんせ、音川伝説は事実を少し脚色しただけだからね」と速水が泉に釘をさすが、「事実無根だよ」と音川は更に食い下がる。
「なんだよ、いつもなら笑って流すくせに」
「教育係であるからには信頼度を上げておきたい」
泉は本人や速水と交流するうちにこういった噂は創作物であると気づき始めていたから、心底笑いながら軽口を交わす余裕ができていた。
「何を聞いても、音川さんへの信頼は変わりません」
泉はそうきっぱり宣言して、隣で『Fresh India』とタイトルにあるレシピ本をぱらぱらと捲っていた音川に「何か食べたいものあります?」と尋ねる。
「とりあえず全部」パタリと本を閉じた教育係の先輩から厳しいリクエストが出され、「頑張ります」と即答した。
その会話を聞いていた速水が、「おい」と音川に鋭く呼びかけた。「どういうこと?」
「どーもこーも」との適当な返事に、速水はメガネの奥の目を光らせる。
「音川さん、インド料理好きって言ってたもんね」と高屋が柔らかに口を挟んだが、恐らく場を和ませるためだったその助け舟は、鋭く「音川」と名指しする速水によって無駄となった。
「へーへーわかってるよ」
普段なら職場で決して見せない雑な返事で、音川がいかに速水に気を許しているかが見て取れる。
「どうせお前には今日説明するつもりだったから」
音川は会議室のモニターから伸びているケーブルを自分のノートPCに挿し、「これ見てみろよ」と泉が今回コーディングしたソースを映し出した。
「今回のサーバー用のプログラムだろ。これがどうかしたか?」
「俺が見ているものが、俺にしか見えないことは百も承知だ。それでも、このコードが持つ見事な秩序は分かるだろ?突き抜けて端正で、美麗で、おれはこんなものは今まで見たことがない」
泉は少し身を捩り俯いて顔を赤らめていた。目前でこうも褒められると自尊心よりも気恥ずかしさが勝る。しかし、隣にいる音川は泉の様子など眼中にないようだった。賛美の言葉を並べながら、自分のPCモニターの上で、まるで愛でるように長い指を滑らせている。あたかもその空間に立体物が存在しているかのように。
「まあ、たしかにずば抜けて洗練されているが……それがどうしたっていうのかを聞いてるんだよ」
「良く見ろ。俺にも、お前にも、誰にも……こんなもの、書けないんだよ」
「そりゃあ書き手が変わればスタイルも変わるよ。しかし、音川にも無理だというのは信じられないね」
「同じ機能なら作れるさ。でもな、俺たちがやっていることは、機械に対する命令なんだよ。論理的で規則に従っていれば良いだけの。しかし、泉のコーディングは——完全な調和なんだ。美しくて精密な塔を土台から建てようと、まるでマシンと人間がお互いの可能性を丁寧に確かめながら、良いところを引き出していくことができている。このテクニックは模倣できるものではないし、学べるものでもない。
分かるか?俺らはどうあがいても秀才までにしかなれないが、泉は違う。だれも到達できなかったことをやり遂げる才があるんだ。そして、業界全体がこの恩恵を受けるときが必ず来る」
「……お前が哲学出身だったのを思い出したよ」と速水はため息交じりに呟いた。
「じゃあ具体的に言う。来月から泉は、正式に俺の直属になる。プロジェクト全てに串刺しで関わってくるから、速水、高屋さん、これからどんどん泉に情報を入れてくれ。泉は俺と同職、立場も同じだ。違うのは勤続年数だけ。それから——泉は俺の副業も手伝うことになった。週末は俺のマンションに通ってくれるらしいから、仕事以外でも共有する時間が増えるだろう。これで説明できたか?」
速水は暫くの間無言で、知る限り最も優秀なエンジニアである同期の男を、じっと見据え、頷いた。
「……それ、大丈夫なのか。お前の崇拝者たちは、まだ会ったこともないような新人に飛び越えられるわけだろう?」
「まあ、今のメンツは技術力重視で素直なやつばかりだから、まず反発は無いだろう。但し、客先との折衝において泉は経験がゼロだ」
「ああ、古い顧客は担当が代わるだけで反発しかねないよなぁ」
「そこは俺が完全にサポートしていくことになる。変な先入観を持たれないようにな。どんな理不尽な批判が来ようが、俺がすべて責任を持って対応するよ」
「そっか……音川さん、見つけたんだ……」
今まで黙って聞いていた高屋が突然呟いた。
少しため息交じりで、それは感嘆であり称賛の声に聞こえ、音川はハッとしたように目を見開いて高屋を見た。日焼けした顔で、目尻を下げてふんわりと優しい微笑みを投げかけてくる高屋と目が合う。
その落ち着いた様子から、恐らくだが同じような経験をしたことがあるのかもしれない、と音川は直感した。誰か、または何か、特別なものを見つけた経験が。
「俺は……」
今、いちばん大切なものは何かと聞かれれば、泉だと即答するだろう。
そしてきっと、この先もそれは変わることがない——
音川は頭のどこかで確信していた。
なにをしていても可愛くて、見ているだけで胸に温かさがじんわり広がり、常に傍にいて関わりたいと熱望させる。なりふりかまわず、抱きしめてしまいたくなる。
こんなに感情を揺さぶられることは今までになかった。
そして——それを押し潰さなければならないことも——
「うん。そうなんだ」
音川は、にこにこと微笑みかけている高屋に向け、きっぱりと宣言した。
4人それぞれが物思いにふけった様子で束の間沈黙する会議室に、コンコンコン、と鋭いノックの音が響いた。
返事をする前にドアは開かれ、隙間から「音川君、ちょっといい?」と本社のデザイナーである阿部が顔を覗かせる。
「なんだよ」
「出てこれる?第2会議室にいるから」
その有無を言わせぬ様子に、音川は速水と顔を見合わせた。今朝挨拶をした時には変わった様子は無かったから、恐らく緊急だろう。「ご指名ですよ」と速水がからかい、「何もしてねえぞ」と音川はしぶしぶ席を立った。
「泉、先に帰るなら鍵渡すけど」
「待ってます。まだ5時前だし」
「お、おい、まさかお前ら……」
速水が言い終わる前に音川は逃げ出すように部屋を出て、阿部が指定した会議室へ足早に向かう。背後で、「実は……」と泉の声が聞こえたから、説明は任せることにした。
ノックはせずに会議室へ入ると、阿部が神妙な顔で「さっき下で聞いたんだけど」と切り出した。この建物で『下』と言えば1階にテナントとして入っているショールームで、アシスタントの女性数名が常勤している。社交的であり姉御肌タイプの阿部は2~3年で異動となる彼女たちとすぐに打ち解けるようで、また速水は配偶者が元ショールーム勤務であり、出会いの少ない開発部内では「勝ち組」と呼ばれていた。一方音川は、あまねく全てのアシスタントと付き合っただの告白されただの、毎年のように新入社員間で噂になるが、本人から事実が述べられたことは一度も無い。
「どうしたんだよ、血相変えて」阿部の真向かいに座り、音川は身を乗り出した。
「それが……保木さんがね、夜間にこの辺りをうろついているらしいの」
「ハァ!?」音川が柄になく素っ頓狂な声を出した。
「阿部も見たのか?」
「私はまだ見てないし、社内からも聞いていない。でもショールームの子たちは全員が見ているって。うちは在宅か自由出勤だからタイミングが合ってないのか、本社は出社組が多いけど見て見ぬふりをしているのかもしれないけど」
「まああるだろうな」
「解雇された会社の周りをうろついて……何がしたいのかさっぱりよ。まだ音川君にしか言ってないから、どうするかは、判断して」
「他社からの目撃情報だけでは難しいよな……時間は分かるか?」
「だいたい19時から19時半までの間。場所は駅前か、駅までの道中で、特に繁華街の方で見かけた人が多い」
「退社時か……本社でも、特に女性は当面リモートワークにしてくれ。こっちもそうするから。人事部長には、頃合いを見て俺から話すよ」
「助かる。あと、デザイン部や泉くんに知らせるのなら慎重になってほしい。きっと責任感じたりするだろうから……」
「うん。そうだな」
「それじゃ、私は帰るわ。何かあったら知らせる」
「ああ」
阿部が去った後、独り会議室に残った音川の表情が一変する。阿部の前ではなんとか温和な態度で対応できたが——
泉の胸元についていた傷——首周りの締め痕——
音川は、思わぬ勢いで力強くデスクに肘をつき、頭を抱えた。ギリギリと無意識に奥歯を噛み締めており、微かな血の味が口内に広がる。
冷静になれ、怒りに飲み込まれるなと自分に何度も言い聞かせる。
(泉はしきりに俺を出社させようと誘っていた。それなのに、俺は面倒だと断って——まだ、できることはあるはずだ。必ず)
一方で会議室に残された速水は、どちらかと言えば言葉少なめな音川からは引き出せないようなあれこれを泉から聞き出そうという魂胆でいた。
「しばらく音川の家にいるの?」
「今のところ、今週はお世話になる予定です」
「泉って一人暮らし?」
「いえ、実家です」と泉は最寄りの駅名に続けて「家の問題ではなくて、あくまで僕の個人的な事情なんです」とだけ告げた。その断定的な言い方が少し気になったが、速水は追求を止めた。
個人的な事情と言うが、音川が介入したからには仕事に影響があるからではないか。速水が知る限り、音川は進んで自分から部下のプライベートに関わる人間ではない。当の音川は詳細を語る前に会議室を出た。それを、ここぞとばかりに泉に言わせるのは酷だろうし、それに泉には、音川の真意が把握できていないかもしれない。
「泉くん、尽くすタイプなんだね」高屋がにっこりと微笑む。
「どういう意味ですか」
「スパイス料理のレシピ本。音川さんのためでしょ」
「あ、いや、元々興味があったのと……、近々一人暮らしを始める予定なので、自炊の練習をしているんです。音川さんの家で作業させてもらうなら、食事の用意くらいはと思いまして」
赤くなった泉の耳に気付いて、高屋は更に目を細め、優しく見つめた。
「あのね、おれにも、美味しい料理を作ってくれる人がいるよ」
泉は、その慈愛に溢れた高屋の瞳を見てすぐに、高屋が今その人を思い浮かべているだろうと気が付いた。仕事では見せたことがない、濡れたような柔らかい光をたたえた瞳はとてもきれいで——
恋をしている人の瞳とはこういうものかもしれない。
真摯でいたくなり、「はい。音川さんの好物を作れるようになりたい、です」と素直に言い直すと、高屋の笑顔がさらに強くなった。
音川を想う自分の瞳も、同じように濡れていればいいのに。
泉と高屋がニコニコと微笑み合っていると、レシピ本を捲っていた速水が、「ん?」と訝しんだ。「料理するっつっても、あいつの家、食器すらないだろ」
「音川さんが『投資だ』と言って調理器具や食器を全部揃えてくれたんです。なので、作れるようになりたいというか、ならなきゃな、と」
「自分では使わないのに?」
「それは、僕が一人暮らしする時に持って行くようにと言ってくださって……」
「へー…。あいつ、ちゃんと暮らせてるのか。泉君の世話もできてる?」
「家は整理整頓されていてきれいです。マックスさんが長毛だから床掃除は頻繁にしていて、お風呂も洗ってくれて、布団も敷いてくれます……食事は、朝はモーニングで、昼と夜は僕が作らない時はデリバリーとか飲みに連れて行ってくれます。今日もそうですが、服も音川さんのを……」
「お、おお、そうか。で、仕事環境は?音川の直属なら今後はフルリモートだよね」
「僕用のデスクとチェアを、音川さんが買ってくれて。副業用だと思いますが。あ、あの……どうかしましたか?」
とうとう速水のメガネの奥の瞳はかっぴろげられ、高屋もまんまるの目になっていた。
「おれ、間違ってた。音川さんが尽くすタイプだ」
「俺の知らない音川だ……」
速水は思いっきり首を傾げた。
音川が部下のために一人暮らし用のあれこれを買ってやるなんて、意味が分からない。デスクなどは副業を加味するとまだ理解できるが、さすがに調理器具は私用も私用だ。
『投資』というからには音川にメリットがあると算段したに違いないが、速水にはそれが何で、どう回収するのか想像が及ばなかった。
泉が能動的に『音川の常識』を突破して仕事に限定しない関係を築いたのか、それとも……これまで部下に対して一定の距離を置いていた音川が考えを変えた……?
いや、先ほど、泉が書いたソースコードを眺めている時の音川は、陶酔したような目でPCの画面をそっと、まるで飴細工のような儚いものに触れる時のような繊細な手つきでなぞっていた。あれは、尋常な様子では無い。
であれば。
親友として、また同期のエンジニアとして、速水なりの答えを導き出した。
(音川が一方的に泉の才能に惚れたか——とうとう、公私の区別もつかなくなるほど)
ガチャリとドアが勢いよく開けられ音川が会議室に戻ってきた。
ここからもう少し突っ込んだ話が聞けそうだという感触があったのを邪魔され、速水と高屋は若干消化不足だ。
「阿部ちゃん、大丈夫そう?」
音川は心配気に尋ねてくる高屋を「問題ないよ。ちょっとした野暮用」と軽くいなしてから、「そうだ。木曜に、泉と俺とでT製薬に行ってくる」と話題を変えた。
「なんかあったの?」
「課長からヘルプ要請」
「T製薬と言えば……おれの前の職場がDXを担当していたよ。まだ継続してるんじゃないかな」高屋は何かを思い出すように天井付近に視線をやる。
高屋の元職場は北米に本社を置くシステムコンサルタントの日本法人だ。スタッフには帰国子女や外国人が多く、合理的にどんどん進めることが正義だった。そのため時折、大手の日本企業が持つ独特の『見えないルール』にぶつかる。意思疎通ができない、と困惑する。そこで駆り出されるのが高屋のような日本人スタッフだが、社内外との板挟みであり気苦労が絶えない激務だ。
「アメリカ本社からコンサルを呼んで常駐させてるはず。ほら、T製薬はニューヨークとベルリンにも大きな支店があるから、まとめて請け負うつもりらしい。日本のT製薬には日本支社から通訳兼ねた担当が一人付いてるはず」
「へえ、詳しいね。その本社のコンサルってどんな人?」
「そうだね、事前に知っておいて損はないか。とは言えおれも一度仕事したことがある程度だけど、とにかく優秀さには太鼓判を押せる。ただ、日本企業と上手くやれる人かどうかは疑問だ。超効率重視のアメリカ人で、ハイクラスの白人にままあることだけれど、やっぱりアジア人をどこか小馬鹿にしているよね。少し強引に押せば言いなりになると思っている。もちろん表面上は大親日家だよ」
「じゃあますます音川なら都合がいいじゃん」と速水が指摘するので、「俺は日本人だ」と音川は一言添えた。
「出張は、もしかしてそのDX部からの呼び出し?」
「いや、どうだろう。確かにうちが担当している開発案件はDX化の一環ではあるが、向こうのリーダーとやりとりした感じでは、内部のユーザーに対してシステムサイドからの強い意見が欲しいということだ」
「ああ、T製薬は歴史が長いから……反発があるのかもね。何をするにも、お伺いを立ててやんなきゃいけないらしいよ」
高屋は、T製薬と現在のDX担当ついて知る限りのことを音川と泉にインプットしながら、懐かしさに軽く微笑んでいた。前職を懐かしく思えるのは、今の職場が自分に合っているからだろう。完全に過去のものと割り切って考えることができる。いい糧になったと言える。
「これくらいかな、おれが知っていることは」と締めくくる高屋に、「ついでに」と音川は東京にあるというイスラム横丁について聞き出した。高屋は待ってましたとばかりに雑居ビルに入っている食堂を紙に地図を書いて教えた。
「この店は住所も何もネットには載ってなくて、日本語は通じるけど音川さんならまず英語で接客されると思う」
中華だろうかカレーだろうがタイ料理だろうがコンビニだろうが、外国人の店員には常に英語で接客される音川には慣れたことだった。
「おすすめは断然パニプリ。出張は日帰り?」
「そ。新幹線の時間があるからテイクアウトしようという泉の提案だ。高屋さん、情報提供のリワードとして何か買ってこようか?」と音川がニヤリと笑うと、「やめてくれ!当面カレーは見たくない!」と高屋は血相を変えて首を横に振った。
音川は上げて笑い、席を立った。泉は土産の礼を丁寧に述べてから、音川に続いて会議室を出ると階下にある自社へと戻って行った。
「分かってんのかね」
それまで黙って高屋と音川のやりとりを聞いていた速水はドアが閉まるのを待ちかねたようにそう呟いた。
「なにが?」
「音川。自分がやってることの意味をさ」
高屋は立ち上がり、ケーブルなどを所定の位置に戻しながら、少し無言でいた。
音川の好物を作りたいと言った泉の素直さが胸に刺さっていた。恐らく泉のそれは、少し前の高屋同様に……同性への、憧れを超えた感情だ。
身に覚えがあるからこそ、泉にも、その気持ちを大切にして欲しいと思う。
だが——本社でも音川のモラルの高さは有名だ。いつでも気さくでフェアな態度だから好感度は非常に高いが、中身はガチガチの堅物である。
それだからこそ、泉は慎重にならなくてはならない。音川の辞書には社内恋愛などの言葉は存在しないはずだ——
泉の心境を想像すると、震えるほど怖い。
「おれは音川さんのことをまだよく知らないからなんとも言えないけど、泉くんへの優しさが、一時的なものじゃないといいなと思うよ」
「でもさ、泉は飼い猫じゃなく1人の人間だ。自分の家もある。いくら世話を焼いても、猫みたいに慕ってずっと傍にいてくれるわけじゃないってこと」
「ああ、なるほど。そっちなんだ。速水君は音川さんの方が傷つくんじゃないかと心配してるんだね」
「あんなに……誰かに入れ込む音川は初めて見るよ。その相手がたまたま部下でさ、立場上、突き放さなくてはならないとなったら……正解が分からねえよな。まあ音川には戦ってもらいましょうかねえ」
「えっそうなの?」
「俺は常日頃から、音川の聖人君主振りが不憫でならんのよ。実際、俺が作った音川伝説の真逆でさ、来るもの皆拒む。俺が開発にいた頃はショールームや客先からのお誘いも多かったが、にっこり笑って完全にシャッターを下ろすんだ。あいつ、あのままだと本当に猫に看取られるぞ。でも本人が変わらない限り、周りはどうしようもねぇよ」
高屋は、速水が核心的な言葉を敢えて避けているのを感じ取った。速水と音川の付き合いは長く、親友であるからこそ視えるものがあるのだろう。音川にはやはり、恋や愛といった個人的な……感情が無いのかもしれない。
一方、自社に戻った音川は早々に「帰るぞ」と泉に声を掛け、その場でタクシーを手配した。阿部から聞いた状況では19時前後を外せば問題ないように思われたが、用心に越したことはない。
「さっき、速水たちに言ったことは本当だから。来月には俺の直属として待遇が変わる。一人暮らしの家賃なんて余裕で賄えるようになるよ」
「僕、昇給するんですか」
「そこそこの技術手当が付く。詳しくは部長との面談で確認して」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ。きみが開発に来てくれて、心底ありがたいと思ってる。最初は少し苦労するかもしれない。だから、どんな些細なことでも俺に話してくれ」
「はい!」と泉は元気よく返事をした。
「一人暮らしの物件は、まだ決めてないんだろ。新しい額面を見てから探し始めてもいいと思う……あ、タクシー来たって」
「タクシー?どこか行くんですか?」
「いや、悪いけど先に帰ってくれるか。これ、かざすだけだから」
音川は泉の手にカードキーを握らせ、あたかもボディガードのように肩に手を添えて社屋のエントランスまで付き添い、そのままタクシーに押し込んだ。
運転手に行き先を告げ、泉には「必ず家で待ってて。遅くならないから」と念を押す。泉はやや戸惑ったが、ここまで強引な音川は珍しく、大人しく従うことにした。
その足で音川は本社があるフロアへと戻り、速水を捕まえた。本社がどこまで保木のことを把握しているのか確かめるためだ。
「保木さんのことだけど」休憩室に自分たち以外の姿が無いことを確認してから音川が切り出す。
「阿部の話、それだったんだろ」と速水は即答した。昔から、速水のこの打てば響くような応答に頼もしさを感じる。
「知ってたのか」
「奥さん伝てでな。先週、たまたまショールームに差し入れに来た時に聞いたらしい」
「そんなに話題になってんの?」
「保木さんはショールームでもナンパで有名だったから」
「阿部が、本社の社員からはまだ目撃情報は上がっていないと」
「俺達も帰国したばかりだからな」
「うーん」と音川は両手を頭の後ろで組んだ。「できるだけ早く見つけたい」
「見つけてどうすんの?」
音川の脳裏には泉の首の傷がありありと浮かんでいた。
「泉が、保木に遭遇した可能性がある」
「まさか……例の被害者じゃなくて、泉を狙ってうろついてんの?」
「両者じゃないかな。もし彼女だけを探しているとしても、泉を見かければ居場所を問い詰めるだろうし、同じことだ」
「それが起こったと?」
「たぶんね。先週末に……泉がケガをしていて。本人からの説明はまだ無いままだが、実家には心配をかけたくないから帰れないと言っていた。保木に付きまとわれているんだとしたら、合点がいく」
「おまえが泉を泊めている理由はそれか」
音川は頷いた。「泉はここが地元だから、たとえば家族とか友達とか恋人とか、そういう個人的な事情だと思っていたが……。保木が絡んでいるとなると話は変わってくる」
「家に帰れないほど警戒するなんて、よっぽどだぞ」
「泉の首には内出血の後が強く残っていた。保木に、どんな目に遭わされたのか……」
そう低く伝える音川の双眸を見て、速水は悪寒に震えた。
これまで事務的な口調での応対で気が付かなかったが、音川の眼底がギラリと光り、瞳は透明なガラス玉のようで感情の欠片も映されていない。
怒りならまだ分かる。しかし、これは遥かに怒りを超えた非情な目だ。
もしこの状態の音川が保木を捕まえたら……何をするか速水にも想像がつかない。
「帰りに繁華街を見ておくから、音川はもう帰れ」
「それなら俺が……」
「焦るな。まだそうと決まった訳じゃない。鏡を見てみろよ。獲物を前にした吸血鬼みたいな顔してんぞ。それに本当に保木が原因なら、泉はなぜおまえに相談しない?」
返事代わりに舌打ちして片手で顔に庇を作る音川に向けて、速水は続けた。
「部下にそこまで入れ込んで……良いのか?」
「良いわけがない」
「ならどうして」
「泉は……特別なんだ」
「有能な技術者として、か?」
ぽとりと落とされた問いに、音川は一瞬の迷いを持ったがすぐに速水と視線を合わせた。
「……俺の個人的な感情だ」
「そうか……分かった」
「いや、うん」
速水は音川の肩をポンと叩き「本音が聞けてよかったよ」と言い残して会議室を去った。
どんな問題や相手であっても、泉の暮らしを脅かすもの全て取り除いてやりたい。
いや、その役割を自分にさせて欲しい。それが許される『唯一の』立場になりたい——
速水に指摘されるまでもない。何度も自問している。
(——泉はなぜ、俺に話してくれないのだろう——)
音川は、行き場のない所有欲に苛まれてしばし黙った。
「2冊もある。スパイスもたくさん……名前、高屋さんが書いてくれたんですか?」
いくつもの小瓶にラベルが貼られ、スパイス名が几帳面なカタカナで書かれてあった。
「おれじゃないんだ。味見しながら書いて貰った」
「まさかインドで?」と速水が高屋に尋ねると、「いや、ヒューゴに」と答える高屋の頬にさっと赤みが走ったが、泉は先輩二人からのインド土産に夢中で気が付かなかった。色とりどりの小瓶を手にとっては目の前に掲げて、瞳を輝かせている様子に、「料理というよりまるで薬剤師だな」と音川にからかわれながら。
それから土産話が始まり、最初はあちらのベンダーの様子や内情など仕事にまつわる話だったが、そのうちに雑談になり、高屋の口説かれ話へと流れていった。
「シラフで聞いてらんねえ」と大笑いの音川を、「次、インドに呼び出されたら音川さんたちに行ってもらうからね」と高屋が目を光らせた。
「うそだろ」
戦々恐々の様子の音川を指差し、「おれより絶対にモテる」と高屋が更に脅す。
「それはヤバいな」と速水が口を挟んだ。「こいつ、来るもの拒まず去る者追わずでさ、音川が歩いた後にはペンペン草一本も残らないと言われている。次は音川が原因でボイコットが起こるぞ」
「そんなに!?」と高屋が大げさに反応すると、「信じるなよ」と音川は泉に鋭く忠告した。音川にまつわるコッチ系の噂は、こうして速水によって作られてきたのだ。
「あっ、泉くんだけ?おれは信じていいの?」そう目ざとくつっこむ高屋を音川は「どのみち、高屋さんは騙されないだろ」と一瞥して、速水が調達してきたレシピ本を手に取る。
「僕は騙されやすいってことですか?」
「信憑性があると思わない?なんせ、音川伝説は事実を少し脚色しただけだからね」と速水が泉に釘をさすが、「事実無根だよ」と音川は更に食い下がる。
「なんだよ、いつもなら笑って流すくせに」
「教育係であるからには信頼度を上げておきたい」
泉は本人や速水と交流するうちにこういった噂は創作物であると気づき始めていたから、心底笑いながら軽口を交わす余裕ができていた。
「何を聞いても、音川さんへの信頼は変わりません」
泉はそうきっぱり宣言して、隣で『Fresh India』とタイトルにあるレシピ本をぱらぱらと捲っていた音川に「何か食べたいものあります?」と尋ねる。
「とりあえず全部」パタリと本を閉じた教育係の先輩から厳しいリクエストが出され、「頑張ります」と即答した。
その会話を聞いていた速水が、「おい」と音川に鋭く呼びかけた。「どういうこと?」
「どーもこーも」との適当な返事に、速水はメガネの奥の目を光らせる。
「音川さん、インド料理好きって言ってたもんね」と高屋が柔らかに口を挟んだが、恐らく場を和ませるためだったその助け舟は、鋭く「音川」と名指しする速水によって無駄となった。
「へーへーわかってるよ」
普段なら職場で決して見せない雑な返事で、音川がいかに速水に気を許しているかが見て取れる。
「どうせお前には今日説明するつもりだったから」
音川は会議室のモニターから伸びているケーブルを自分のノートPCに挿し、「これ見てみろよ」と泉が今回コーディングしたソースを映し出した。
「今回のサーバー用のプログラムだろ。これがどうかしたか?」
「俺が見ているものが、俺にしか見えないことは百も承知だ。それでも、このコードが持つ見事な秩序は分かるだろ?突き抜けて端正で、美麗で、おれはこんなものは今まで見たことがない」
泉は少し身を捩り俯いて顔を赤らめていた。目前でこうも褒められると自尊心よりも気恥ずかしさが勝る。しかし、隣にいる音川は泉の様子など眼中にないようだった。賛美の言葉を並べながら、自分のPCモニターの上で、まるで愛でるように長い指を滑らせている。あたかもその空間に立体物が存在しているかのように。
「まあ、たしかにずば抜けて洗練されているが……それがどうしたっていうのかを聞いてるんだよ」
「良く見ろ。俺にも、お前にも、誰にも……こんなもの、書けないんだよ」
「そりゃあ書き手が変わればスタイルも変わるよ。しかし、音川にも無理だというのは信じられないね」
「同じ機能なら作れるさ。でもな、俺たちがやっていることは、機械に対する命令なんだよ。論理的で規則に従っていれば良いだけの。しかし、泉のコーディングは——完全な調和なんだ。美しくて精密な塔を土台から建てようと、まるでマシンと人間がお互いの可能性を丁寧に確かめながら、良いところを引き出していくことができている。このテクニックは模倣できるものではないし、学べるものでもない。
分かるか?俺らはどうあがいても秀才までにしかなれないが、泉は違う。だれも到達できなかったことをやり遂げる才があるんだ。そして、業界全体がこの恩恵を受けるときが必ず来る」
「……お前が哲学出身だったのを思い出したよ」と速水はため息交じりに呟いた。
「じゃあ具体的に言う。来月から泉は、正式に俺の直属になる。プロジェクト全てに串刺しで関わってくるから、速水、高屋さん、これからどんどん泉に情報を入れてくれ。泉は俺と同職、立場も同じだ。違うのは勤続年数だけ。それから——泉は俺の副業も手伝うことになった。週末は俺のマンションに通ってくれるらしいから、仕事以外でも共有する時間が増えるだろう。これで説明できたか?」
速水は暫くの間無言で、知る限り最も優秀なエンジニアである同期の男を、じっと見据え、頷いた。
「……それ、大丈夫なのか。お前の崇拝者たちは、まだ会ったこともないような新人に飛び越えられるわけだろう?」
「まあ、今のメンツは技術力重視で素直なやつばかりだから、まず反発は無いだろう。但し、客先との折衝において泉は経験がゼロだ」
「ああ、古い顧客は担当が代わるだけで反発しかねないよなぁ」
「そこは俺が完全にサポートしていくことになる。変な先入観を持たれないようにな。どんな理不尽な批判が来ようが、俺がすべて責任を持って対応するよ」
「そっか……音川さん、見つけたんだ……」
今まで黙って聞いていた高屋が突然呟いた。
少しため息交じりで、それは感嘆であり称賛の声に聞こえ、音川はハッとしたように目を見開いて高屋を見た。日焼けした顔で、目尻を下げてふんわりと優しい微笑みを投げかけてくる高屋と目が合う。
その落ち着いた様子から、恐らくだが同じような経験をしたことがあるのかもしれない、と音川は直感した。誰か、または何か、特別なものを見つけた経験が。
「俺は……」
今、いちばん大切なものは何かと聞かれれば、泉だと即答するだろう。
そしてきっと、この先もそれは変わることがない——
音川は頭のどこかで確信していた。
なにをしていても可愛くて、見ているだけで胸に温かさがじんわり広がり、常に傍にいて関わりたいと熱望させる。なりふりかまわず、抱きしめてしまいたくなる。
こんなに感情を揺さぶられることは今までになかった。
そして——それを押し潰さなければならないことも——
「うん。そうなんだ」
音川は、にこにこと微笑みかけている高屋に向け、きっぱりと宣言した。
4人それぞれが物思いにふけった様子で束の間沈黙する会議室に、コンコンコン、と鋭いノックの音が響いた。
返事をする前にドアは開かれ、隙間から「音川君、ちょっといい?」と本社のデザイナーである阿部が顔を覗かせる。
「なんだよ」
「出てこれる?第2会議室にいるから」
その有無を言わせぬ様子に、音川は速水と顔を見合わせた。今朝挨拶をした時には変わった様子は無かったから、恐らく緊急だろう。「ご指名ですよ」と速水がからかい、「何もしてねえぞ」と音川はしぶしぶ席を立った。
「泉、先に帰るなら鍵渡すけど」
「待ってます。まだ5時前だし」
「お、おい、まさかお前ら……」
速水が言い終わる前に音川は逃げ出すように部屋を出て、阿部が指定した会議室へ足早に向かう。背後で、「実は……」と泉の声が聞こえたから、説明は任せることにした。
ノックはせずに会議室へ入ると、阿部が神妙な顔で「さっき下で聞いたんだけど」と切り出した。この建物で『下』と言えば1階にテナントとして入っているショールームで、アシスタントの女性数名が常勤している。社交的であり姉御肌タイプの阿部は2~3年で異動となる彼女たちとすぐに打ち解けるようで、また速水は配偶者が元ショールーム勤務であり、出会いの少ない開発部内では「勝ち組」と呼ばれていた。一方音川は、あまねく全てのアシスタントと付き合っただの告白されただの、毎年のように新入社員間で噂になるが、本人から事実が述べられたことは一度も無い。
「どうしたんだよ、血相変えて」阿部の真向かいに座り、音川は身を乗り出した。
「それが……保木さんがね、夜間にこの辺りをうろついているらしいの」
「ハァ!?」音川が柄になく素っ頓狂な声を出した。
「阿部も見たのか?」
「私はまだ見てないし、社内からも聞いていない。でもショールームの子たちは全員が見ているって。うちは在宅か自由出勤だからタイミングが合ってないのか、本社は出社組が多いけど見て見ぬふりをしているのかもしれないけど」
「まああるだろうな」
「解雇された会社の周りをうろついて……何がしたいのかさっぱりよ。まだ音川君にしか言ってないから、どうするかは、判断して」
「他社からの目撃情報だけでは難しいよな……時間は分かるか?」
「だいたい19時から19時半までの間。場所は駅前か、駅までの道中で、特に繁華街の方で見かけた人が多い」
「退社時か……本社でも、特に女性は当面リモートワークにしてくれ。こっちもそうするから。人事部長には、頃合いを見て俺から話すよ」
「助かる。あと、デザイン部や泉くんに知らせるのなら慎重になってほしい。きっと責任感じたりするだろうから……」
「うん。そうだな」
「それじゃ、私は帰るわ。何かあったら知らせる」
「ああ」
阿部が去った後、独り会議室に残った音川の表情が一変する。阿部の前ではなんとか温和な態度で対応できたが——
泉の胸元についていた傷——首周りの締め痕——
音川は、思わぬ勢いで力強くデスクに肘をつき、頭を抱えた。ギリギリと無意識に奥歯を噛み締めており、微かな血の味が口内に広がる。
冷静になれ、怒りに飲み込まれるなと自分に何度も言い聞かせる。
(泉はしきりに俺を出社させようと誘っていた。それなのに、俺は面倒だと断って——まだ、できることはあるはずだ。必ず)
一方で会議室に残された速水は、どちらかと言えば言葉少なめな音川からは引き出せないようなあれこれを泉から聞き出そうという魂胆でいた。
「しばらく音川の家にいるの?」
「今のところ、今週はお世話になる予定です」
「泉って一人暮らし?」
「いえ、実家です」と泉は最寄りの駅名に続けて「家の問題ではなくて、あくまで僕の個人的な事情なんです」とだけ告げた。その断定的な言い方が少し気になったが、速水は追求を止めた。
個人的な事情と言うが、音川が介入したからには仕事に影響があるからではないか。速水が知る限り、音川は進んで自分から部下のプライベートに関わる人間ではない。当の音川は詳細を語る前に会議室を出た。それを、ここぞとばかりに泉に言わせるのは酷だろうし、それに泉には、音川の真意が把握できていないかもしれない。
「泉くん、尽くすタイプなんだね」高屋がにっこりと微笑む。
「どういう意味ですか」
「スパイス料理のレシピ本。音川さんのためでしょ」
「あ、いや、元々興味があったのと……、近々一人暮らしを始める予定なので、自炊の練習をしているんです。音川さんの家で作業させてもらうなら、食事の用意くらいはと思いまして」
赤くなった泉の耳に気付いて、高屋は更に目を細め、優しく見つめた。
「あのね、おれにも、美味しい料理を作ってくれる人がいるよ」
泉は、その慈愛に溢れた高屋の瞳を見てすぐに、高屋が今その人を思い浮かべているだろうと気が付いた。仕事では見せたことがない、濡れたような柔らかい光をたたえた瞳はとてもきれいで——
恋をしている人の瞳とはこういうものかもしれない。
真摯でいたくなり、「はい。音川さんの好物を作れるようになりたい、です」と素直に言い直すと、高屋の笑顔がさらに強くなった。
音川を想う自分の瞳も、同じように濡れていればいいのに。
泉と高屋がニコニコと微笑み合っていると、レシピ本を捲っていた速水が、「ん?」と訝しんだ。「料理するっつっても、あいつの家、食器すらないだろ」
「音川さんが『投資だ』と言って調理器具や食器を全部揃えてくれたんです。なので、作れるようになりたいというか、ならなきゃな、と」
「自分では使わないのに?」
「それは、僕が一人暮らしする時に持って行くようにと言ってくださって……」
「へー…。あいつ、ちゃんと暮らせてるのか。泉君の世話もできてる?」
「家は整理整頓されていてきれいです。マックスさんが長毛だから床掃除は頻繁にしていて、お風呂も洗ってくれて、布団も敷いてくれます……食事は、朝はモーニングで、昼と夜は僕が作らない時はデリバリーとか飲みに連れて行ってくれます。今日もそうですが、服も音川さんのを……」
「お、おお、そうか。で、仕事環境は?音川の直属なら今後はフルリモートだよね」
「僕用のデスクとチェアを、音川さんが買ってくれて。副業用だと思いますが。あ、あの……どうかしましたか?」
とうとう速水のメガネの奥の瞳はかっぴろげられ、高屋もまんまるの目になっていた。
「おれ、間違ってた。音川さんが尽くすタイプだ」
「俺の知らない音川だ……」
速水は思いっきり首を傾げた。
音川が部下のために一人暮らし用のあれこれを買ってやるなんて、意味が分からない。デスクなどは副業を加味するとまだ理解できるが、さすがに調理器具は私用も私用だ。
『投資』というからには音川にメリットがあると算段したに違いないが、速水にはそれが何で、どう回収するのか想像が及ばなかった。
泉が能動的に『音川の常識』を突破して仕事に限定しない関係を築いたのか、それとも……これまで部下に対して一定の距離を置いていた音川が考えを変えた……?
いや、先ほど、泉が書いたソースコードを眺めている時の音川は、陶酔したような目でPCの画面をそっと、まるで飴細工のような儚いものに触れる時のような繊細な手つきでなぞっていた。あれは、尋常な様子では無い。
であれば。
親友として、また同期のエンジニアとして、速水なりの答えを導き出した。
(音川が一方的に泉の才能に惚れたか——とうとう、公私の区別もつかなくなるほど)
ガチャリとドアが勢いよく開けられ音川が会議室に戻ってきた。
ここからもう少し突っ込んだ話が聞けそうだという感触があったのを邪魔され、速水と高屋は若干消化不足だ。
「阿部ちゃん、大丈夫そう?」
音川は心配気に尋ねてくる高屋を「問題ないよ。ちょっとした野暮用」と軽くいなしてから、「そうだ。木曜に、泉と俺とでT製薬に行ってくる」と話題を変えた。
「なんかあったの?」
「課長からヘルプ要請」
「T製薬と言えば……おれの前の職場がDXを担当していたよ。まだ継続してるんじゃないかな」高屋は何かを思い出すように天井付近に視線をやる。
高屋の元職場は北米に本社を置くシステムコンサルタントの日本法人だ。スタッフには帰国子女や外国人が多く、合理的にどんどん進めることが正義だった。そのため時折、大手の日本企業が持つ独特の『見えないルール』にぶつかる。意思疎通ができない、と困惑する。そこで駆り出されるのが高屋のような日本人スタッフだが、社内外との板挟みであり気苦労が絶えない激務だ。
「アメリカ本社からコンサルを呼んで常駐させてるはず。ほら、T製薬はニューヨークとベルリンにも大きな支店があるから、まとめて請け負うつもりらしい。日本のT製薬には日本支社から通訳兼ねた担当が一人付いてるはず」
「へえ、詳しいね。その本社のコンサルってどんな人?」
「そうだね、事前に知っておいて損はないか。とは言えおれも一度仕事したことがある程度だけど、とにかく優秀さには太鼓判を押せる。ただ、日本企業と上手くやれる人かどうかは疑問だ。超効率重視のアメリカ人で、ハイクラスの白人にままあることだけれど、やっぱりアジア人をどこか小馬鹿にしているよね。少し強引に押せば言いなりになると思っている。もちろん表面上は大親日家だよ」
「じゃあますます音川なら都合がいいじゃん」と速水が指摘するので、「俺は日本人だ」と音川は一言添えた。
「出張は、もしかしてそのDX部からの呼び出し?」
「いや、どうだろう。確かにうちが担当している開発案件はDX化の一環ではあるが、向こうのリーダーとやりとりした感じでは、内部のユーザーに対してシステムサイドからの強い意見が欲しいということだ」
「ああ、T製薬は歴史が長いから……反発があるのかもね。何をするにも、お伺いを立ててやんなきゃいけないらしいよ」
高屋は、T製薬と現在のDX担当ついて知る限りのことを音川と泉にインプットしながら、懐かしさに軽く微笑んでいた。前職を懐かしく思えるのは、今の職場が自分に合っているからだろう。完全に過去のものと割り切って考えることができる。いい糧になったと言える。
「これくらいかな、おれが知っていることは」と締めくくる高屋に、「ついでに」と音川は東京にあるというイスラム横丁について聞き出した。高屋は待ってましたとばかりに雑居ビルに入っている食堂を紙に地図を書いて教えた。
「この店は住所も何もネットには載ってなくて、日本語は通じるけど音川さんならまず英語で接客されると思う」
中華だろうかカレーだろうがタイ料理だろうがコンビニだろうが、外国人の店員には常に英語で接客される音川には慣れたことだった。
「おすすめは断然パニプリ。出張は日帰り?」
「そ。新幹線の時間があるからテイクアウトしようという泉の提案だ。高屋さん、情報提供のリワードとして何か買ってこようか?」と音川がニヤリと笑うと、「やめてくれ!当面カレーは見たくない!」と高屋は血相を変えて首を横に振った。
音川は上げて笑い、席を立った。泉は土産の礼を丁寧に述べてから、音川に続いて会議室を出ると階下にある自社へと戻って行った。
「分かってんのかね」
それまで黙って高屋と音川のやりとりを聞いていた速水はドアが閉まるのを待ちかねたようにそう呟いた。
「なにが?」
「音川。自分がやってることの意味をさ」
高屋は立ち上がり、ケーブルなどを所定の位置に戻しながら、少し無言でいた。
音川の好物を作りたいと言った泉の素直さが胸に刺さっていた。恐らく泉のそれは、少し前の高屋同様に……同性への、憧れを超えた感情だ。
身に覚えがあるからこそ、泉にも、その気持ちを大切にして欲しいと思う。
だが——本社でも音川のモラルの高さは有名だ。いつでも気さくでフェアな態度だから好感度は非常に高いが、中身はガチガチの堅物である。
それだからこそ、泉は慎重にならなくてはならない。音川の辞書には社内恋愛などの言葉は存在しないはずだ——
泉の心境を想像すると、震えるほど怖い。
「おれは音川さんのことをまだよく知らないからなんとも言えないけど、泉くんへの優しさが、一時的なものじゃないといいなと思うよ」
「でもさ、泉は飼い猫じゃなく1人の人間だ。自分の家もある。いくら世話を焼いても、猫みたいに慕ってずっと傍にいてくれるわけじゃないってこと」
「ああ、なるほど。そっちなんだ。速水君は音川さんの方が傷つくんじゃないかと心配してるんだね」
「あんなに……誰かに入れ込む音川は初めて見るよ。その相手がたまたま部下でさ、立場上、突き放さなくてはならないとなったら……正解が分からねえよな。まあ音川には戦ってもらいましょうかねえ」
「えっそうなの?」
「俺は常日頃から、音川の聖人君主振りが不憫でならんのよ。実際、俺が作った音川伝説の真逆でさ、来るもの皆拒む。俺が開発にいた頃はショールームや客先からのお誘いも多かったが、にっこり笑って完全にシャッターを下ろすんだ。あいつ、あのままだと本当に猫に看取られるぞ。でも本人が変わらない限り、周りはどうしようもねぇよ」
高屋は、速水が核心的な言葉を敢えて避けているのを感じ取った。速水と音川の付き合いは長く、親友であるからこそ視えるものがあるのだろう。音川にはやはり、恋や愛といった個人的な……感情が無いのかもしれない。
一方、自社に戻った音川は早々に「帰るぞ」と泉に声を掛け、その場でタクシーを手配した。阿部から聞いた状況では19時前後を外せば問題ないように思われたが、用心に越したことはない。
「さっき、速水たちに言ったことは本当だから。来月には俺の直属として待遇が変わる。一人暮らしの家賃なんて余裕で賄えるようになるよ」
「僕、昇給するんですか」
「そこそこの技術手当が付く。詳しくは部長との面談で確認して」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ。きみが開発に来てくれて、心底ありがたいと思ってる。最初は少し苦労するかもしれない。だから、どんな些細なことでも俺に話してくれ」
「はい!」と泉は元気よく返事をした。
「一人暮らしの物件は、まだ決めてないんだろ。新しい額面を見てから探し始めてもいいと思う……あ、タクシー来たって」
「タクシー?どこか行くんですか?」
「いや、悪いけど先に帰ってくれるか。これ、かざすだけだから」
音川は泉の手にカードキーを握らせ、あたかもボディガードのように肩に手を添えて社屋のエントランスまで付き添い、そのままタクシーに押し込んだ。
運転手に行き先を告げ、泉には「必ず家で待ってて。遅くならないから」と念を押す。泉はやや戸惑ったが、ここまで強引な音川は珍しく、大人しく従うことにした。
その足で音川は本社があるフロアへと戻り、速水を捕まえた。本社がどこまで保木のことを把握しているのか確かめるためだ。
「保木さんのことだけど」休憩室に自分たち以外の姿が無いことを確認してから音川が切り出す。
「阿部の話、それだったんだろ」と速水は即答した。昔から、速水のこの打てば響くような応答に頼もしさを感じる。
「知ってたのか」
「奥さん伝てでな。先週、たまたまショールームに差し入れに来た時に聞いたらしい」
「そんなに話題になってんの?」
「保木さんはショールームでもナンパで有名だったから」
「阿部が、本社の社員からはまだ目撃情報は上がっていないと」
「俺達も帰国したばかりだからな」
「うーん」と音川は両手を頭の後ろで組んだ。「できるだけ早く見つけたい」
「見つけてどうすんの?」
音川の脳裏には泉の首の傷がありありと浮かんでいた。
「泉が、保木に遭遇した可能性がある」
「まさか……例の被害者じゃなくて、泉を狙ってうろついてんの?」
「両者じゃないかな。もし彼女だけを探しているとしても、泉を見かければ居場所を問い詰めるだろうし、同じことだ」
「それが起こったと?」
「たぶんね。先週末に……泉がケガをしていて。本人からの説明はまだ無いままだが、実家には心配をかけたくないから帰れないと言っていた。保木に付きまとわれているんだとしたら、合点がいく」
「おまえが泉を泊めている理由はそれか」
音川は頷いた。「泉はここが地元だから、たとえば家族とか友達とか恋人とか、そういう個人的な事情だと思っていたが……。保木が絡んでいるとなると話は変わってくる」
「家に帰れないほど警戒するなんて、よっぽどだぞ」
「泉の首には内出血の後が強く残っていた。保木に、どんな目に遭わされたのか……」
そう低く伝える音川の双眸を見て、速水は悪寒に震えた。
これまで事務的な口調での応対で気が付かなかったが、音川の眼底がギラリと光り、瞳は透明なガラス玉のようで感情の欠片も映されていない。
怒りならまだ分かる。しかし、これは遥かに怒りを超えた非情な目だ。
もしこの状態の音川が保木を捕まえたら……何をするか速水にも想像がつかない。
「帰りに繁華街を見ておくから、音川はもう帰れ」
「それなら俺が……」
「焦るな。まだそうと決まった訳じゃない。鏡を見てみろよ。獲物を前にした吸血鬼みたいな顔してんぞ。それに本当に保木が原因なら、泉はなぜおまえに相談しない?」
返事代わりに舌打ちして片手で顔に庇を作る音川に向けて、速水は続けた。
「部下にそこまで入れ込んで……良いのか?」
「良いわけがない」
「ならどうして」
「泉は……特別なんだ」
「有能な技術者として、か?」
ぽとりと落とされた問いに、音川は一瞬の迷いを持ったがすぐに速水と視線を合わせた。
「……俺の個人的な感情だ」
「そうか……分かった」
「いや、うん」
速水は音川の肩をポンと叩き「本音が聞けてよかったよ」と言い残して会議室を去った。
どんな問題や相手であっても、泉の暮らしを脅かすもの全て取り除いてやりたい。
いや、その役割を自分にさせて欲しい。それが許される『唯一の』立場になりたい——
速水に指摘されるまでもない。何度も自問している。
(——泉はなぜ、俺に話してくれないのだろう——)
音川は、行き場のない所有欲に苛まれてしばし黙った。
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