世界で最も難解なアルゴリズム

ストロングベリー

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応えのない夜に、ただきみを探して

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チリチリとしたイラつきのような不快感を感じて薄目を開けると、ダイレクトに日差しがその隙間から入り込んで来た。
カーテンも閉めずにいつの間にか眠ってしまった瞼が光に晒されていたようだ。
寝起きの習慣で、横になったままベッドボードをまさぐるが、求めているものは手に触れなかった。
仕方なく、声にならない唸を上げて身体を起こした。
頭の中では分かっていた。携帯電話はリビングのテーブルにある。昨夜帰宅し、音川に連絡することができずに放置したまま。
重いまぶたを無理矢理にこじ開けてようよう立ち上がり、床においたままのバックパックにつま先をぶつけて小さく舌打ちをする。
土日の午前中は英会話の集中レッスンがあるため、いずれにせよ起きなくてはいけない。
「めんどくさ……」思わず本音がこぼれる。
泉は一旦顔を洗ってくると、覚悟を決めてスマホを手に取った。

——不在着信が1件——音川からだった。

『連絡します』と送ったきりだったのだから、当然だろう。
きっちりした性分のため、連絡無視するようなことは、上司相手はもちろん友達にもしたことがない。
それが、昨夜は違った。
イーサンから知らされた音川の暗い部分——
混乱し、それでも心の底から否定した。
なのに——
まるで自分が自分でなくなっていくような気がして、どうにかなりそうだった。

コールは2回で繋がった。

「ああ、泉。よかった」

音川の一声は、安堵に彩られていた。

「っ……すみません、昨夜は……」声に詰まり、一拍の沈黙の後、ようやく絞り出す。

「いいんだ」

音川は穏やかに、泉の詫びの言葉を遮った。その声にはいつもないノイズが乗り、背後でカチカチと機械音が鳴っている。この音に、泉は聞き覚えがった。

「もしかして、運転中ですか?」

「うん」

泉が知る限り、音川のルーティンでは土曜日のこの時間はジムでトレーニングをしているはずだ。早く切り上げたとしても、その後はモーニングで、車で出かけることなどイレギュラーだ。

「こんな時間にどこへ?……もしかして、マックスさんに何かありましたか?」唯一思い当たったのは獣医で、一気に不安になる。

ふっと音川は軽い笑いを漏らした。息遣いだけで、泉の心に静寂をもたらせることができるのは彼だけだ。

「いや、マックスは元気そのもの。……きみに何かあったのかと……駆けつけると約束したから。でも連絡がついたから、余計な心配で済んでよかったよ」

「ちょ、え?ま、待ってください!!」

「でかい声だな。元気そうでなによりですよ。じゃあ俺は帰るぞ」

「音川さん!いまどこ!?」

「……汐留インターを降りたところ」

「帰らないで!!」

「なんだよ。無事ならそれでいいのに」

「そのまま来てください。来客用の駐車場がありますから!コンシェルジュに伝えておきます」

「コンシェルジュだって?どんだけ……分かったよ」

「絶対ですよ!帰らないでくださいね!」

「分かった分かった。着いたら連絡する」

泉は、なだめるような音川の声に胸を熱くし、通話を切った。眠気などとっくに吹っ飛んで、音川がすぐ近くにいる事実に——
音川の選んだ行動に、胸が高鳴る。

コンシェルジュに駐車場の空きを確認して来客を伝え、大急ぎで身支度し、ざっと部屋を見渡してゴミを処分し、空気を入れ替える。英会話のレッスンはオンラインでキャンセルだ。いまの泉にとって、音川より優先するものなどこの世に無い。
そこでスマホが着信を伝えた。

「音川さん!」

「うん。とりあえず……降りてこいよ。モーニングにでも行こう」

部屋に上がって来てほしいというのを軽くいなして、音川は泉を外へ誘い出した。
それまで意識していなかった空腹を突然感じる。思い出してみると、昨夜も食事をしていない。
ずっと独りで食事をすることに疑問を抱かず、なんならその方が快適だとすら思っていた音川は、泉によってすっかり別人に変わっていた。
彼の居ない食事は味気なく、意味のないものに思えて……

さほど遠くない距離に、チェーンの喫茶店を見つけて入る。
学生時代によく利用していたが、年齢層が高く静かな店だ。
3階にあるテーブル席に腰を下ろし、コーヒーとモーニングを注文してから、しばらくポツポツと天気だとか交通渋滞だとか、あまり中身のない会話を続けた。

引き止めたものの、泉はまともに音川の顔を見ることでできずにいた。
久しぶりに本人に会ったことによる照れと……
昨夜、音川に連絡しなかったことの気まずさ。
そして、それを凌駕する、いっときでも音川を疑ってしまったことへの自責の念。
信じるべき相手を見失いそうになった弱さに——辟易する。

そんな伏し目がちな泉を、音川は目を細め、優しく見つめていた。

泉の性質的に、着信に折り返しがないのが引っかかり少々オーバーに心配してしまったが……ただ連絡がくるのを待っていることがどうしてもできずに、車を走らせていた。
押しかけるつもりなどなく、しかし万が一に備えて——過労で倒れてしまうなど——ただ泉にできるだけ近い距離にいて、連絡を待つのが最善に思えたのだ。
泉を心配したことは事実だが、それは自分が安心したかっただけだ。

大方食べ終わり、さて——と音川が再び帰宅の意思を見せたところで、泉はようやく顔を上げた。

「音川さん。今日、こっちに泊まってくれませんか……?マックスが心配なら、夜まででも構いません。どうしても話したいことがあります」

その意を決したような表情に、音川は小首をかしげる。

「どうした?何か仕事で困っているなら……」

「僕の部屋に戻ったら、お話します」

音川は泉からただならぬ緊張を感じて、柔らかい笑顔を作ってみせた。
何も心配いらないから、何でも話してほしいという想いからだ。そして優しく届くように、ゆっくりと泉に応える。

「うん。マックスは大丈夫だ。でもあのマンションはB社の借り上げだし、あ。もしかしてイーサンもあそこに?」

「いえ、彼は出張が多いのでホテル暮らしと聞いています」

「ふーん。であっても上がり込むつもりは無くてね。……そうだなあ、ま、どうせ泊まるならカフェがあるホテルなんかがいいね。ケーキの美味い……しかしこのご時世で空いてんのかね」

階下の歩道にはすでに多くの外国人観光客が往来している。法人でも予約がなかなか難しく、出張者が不便なホテルに泊まらされることもよくあると聞く。

ポケットからスマホを取り出し検索を始めた音川の手首を、泉はがっと掴んだ。

「僕もそっちに泊まる。同じ部屋にしてください。いま、音川さんから離れたくない」

音川は一瞬だけ画面から顔を上げて泉をすっと見ると、再び視線を画面に戻した。
そのセリフが音川にどう聞こえるかなど、知らないからこそ言えるのだろう。
畳み掛けるように、泉は続ける。

「独りで寝たくない。昨夜みたいなのはもう嫌なんです」

か細い声に、音川は大きくため息を重ねた。

——やはり、『何か』があったのだ。

「わかったよ。ツインで探すから。……その代わり、全部話せ。仕事に関わっていようがいまいが、全てだ。いいね?」

泉は、こっくりと頷いた。
その髪の毛に、くしゃりと音川が手を差し込む。

そしてしばらくスマホを操作していた音川が、「部屋、取れたよ」と顔を上げた。
何があったにせよ、蓄積された疲労が目の下の隈やこけた頬に顕著だ。どうせなら、この1ヶ月余りの疲れをほぐし、気分転換できる方がよい。
滞在を楽しむ方向へ考えをシフトし、ひのき風呂の付いたゆとりのあるツインに決めた。

「……ありがとうございます。チェックインは?」

「15時。それまで、観光でもするか。こっちはほとんど知らないんだろ?まずどこへ行きたい?」

「……美術館」

そのリクエストに、音川は、「そうだ、お前絵を描くんだったな」と膝を打つようにして納得の声を上げた。

喫茶店を後にしてタクシーに乗るやいなや、「まずは国立新美術館」と泉が言う。
少しだが、気分が上向きになってきたような口調に、音川は安堵の笑顔を向ける。

到着すると泉はまず建物に感心し、それから企画展と常設展示を閲覧する。
2時間ほどそこで過ごし、テラスで軽食とコーヒーで休憩したあと、次は白金にある庭園美術館へ向かった。
音川には未知の場所だったが、泉はやや興奮した様子であれこれ話してきかせてくれる。

「僕はグラフィックデザイン専攻なんですが、ここの美術館の展示からヒントを得ることがよくあって。とはいえ行けないので、展示の情報から特集作家をネットで検索したり、図書館へ行って画集を見たり。あと、古い雑誌のバックナンバーなんかもとても良くて」

「ふーん」と音川は簡潔に相槌を打つが、泉が生き生きと話す姿に愛しさが込み上げていた。

「いつか、音川さんを描いてみたい。実は、何度かデッサンしたことがあるんです。想像……いや、妄想かな。ですけど」

「ん?俺なんて描いても……」

「音川さんはとても綺麗です。僕らは練習のために石膏像をじっくりと観察します。シルエット、ボリューム、陰影。音川さんは、そのどれもが整っている」

「なんだかすごい褒められ方だな」

「自覚してるはずですが。ご自分の見た目」

「そうでもないよ。それより、俺は花より団子だ。ね、そろそろカフェでケーキを食べさせてください」

眉毛を下げて懇願して見せる音川に、泉は笑い声を上げた。

「2個までですよ」

「4個」

「だめ」

「3個」

「だめ」

「2.5個。3個目を半分こで」

「……わかりました」

泉の許可が降りたところで音川はタクシーを止めた。
目的地はそこからほぼ真北にある五ツ星ホテルだ。
甘いものは疲れを取るのに非常に効果的だ。カフェでのんびりし、その後は近くを散策しながら、泉に話を促そう。

たとえ、それがどんな話であっても、音川は受け入れると決めていた。
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