世界で最も難解なアルゴリズム

ストロングベリー

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あなたを独り占めしたい

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首筋をきつく吸う唇の熱さ、抱きしめられた胸の鼓動、低く囁かれた言葉。
全てが竜巻のように泉を取り囲み、音川にとって自分は『特別』であると叫んでいる。
泉はしばらく、その歓喜の嵐のなすがままになっていた。

しかし、そこにははっきりと音川の葛藤も存在していた。
泉は目を伏せ、絡められた指から伝わる熱を感じることに集中する。
言葉にできないのか、したくないのか、すべきでないと思っているのか——それは唇へのキスも同じで——泉には分からなかった。
自分が引いた境界線に阻まれて、音川は留まっている。
それを強引に崩すのは——きっと間違っている。
音川の中に、こんなにも熱い葛藤を起こさせるほど、自分という存在が大きいのだ。
それだけで、もう何も要らないと思わせる。

しばらく無言で、お互いの絡まる指を見つめていた。
微かに音川が息を吐き、少し身じろいでまた静かに泉の額に唇を落とす。
そうして二人の手がほどけ、泉は顔を上げるとはにかむように微笑む音川と目が合う。優しく濡れたグリーンの瞳。
再びこめかみに唇が触れたかと思うと、音川はスッと立ちあがった。

「俺はジムでも行くかな。今朝行けてないし」などと言いつつドアへ向かう。

「ウェアあるんですか?」そんなことを聞きたいわけではないのに、口をついて出た。

「館内で売ってるだろ」

「そんな、買ってまで……?」

心底不思議そうな問いかけに音川が見せた表情は、泉が釘付けになるほどに妖艶な自嘲を浮かべていた。

「……体力を使い果たすまで戻ってこないから、安心してゆっくりしてて」

「あ……まっ、」

引き止める間もなく音川がドアの向こうへ消えた後、泉は顔のほてりを抑えるために両手を頬に当てたが、余計に熱くなるだけだった。
音川の大人の男の色気は凄まじく、傍にいれば自分がどうにかなってしまっただろう。場を離れてくれたのは正解なのかもしれない。

音川はそんな泉をできるだけ見ないようにして、さっさと部屋を後にした。
同居していたから当然のこと、二人きりの夜などとっくに慣れているはずだが……
今夜は状況が違う。
それに——1ヶ月ぶりに会った泉は美しかった。
少し精悍になり、凛とした透明感がさらに研ぎ澄まされていた。つい先月まではやや幼さの残った青年だったのが、厳しい仕事と達成感を経験しながら、大人の男へ変わろうとしている——この変化を目の当たりにできる幸運が、音川をより熱くさせる。

そして、蕩けそうな顔で物欲しげに音川に視線を向ける姿は……、彼にとって、自分が上司としての存在以上であると伝えていた。
愛しくて、胸が張り裂けそうになる。

いつまで持つか……
音川は口元を手で覆い「自信がなくなってきた」と誰も居ない廊下で小さく呟くと、大股で館内のジムを目指した。
確かプールもあったはずだ。有酸素運動は身体のうちに湧いた欲を昇華するには好都合だろう。

部屋に残された泉も同じく、熱くなった身体と脳を冷ますため、とりあえず浴室へ向かった。
湯気と共にさらにヒノキの香りが強く立ち込める中で服を脱ぎ、何気なく目をやった鏡に映る、自分の首元。
そこにうっすらと朱色の痕を見つけて、泉はカクンと膝から崩れそうになり急いでシンクの端を掴む。
少し前まで、痛々しげな顔をして音川が手当をしてくれた場所に——
今は、彼の情熱が残した印が——
ずくんと疼く下半身を抑えるため、泉は冷水を浴びてから浴槽へ浸かった。
——冷静にならなくてはいけない。
音川が一線を超えてくることは、どんなに望んでもありえない。
それは『今の二人』の関係性に於いて、全く適切でないからだ。
泉は、音川との関係に、罪悪感や背徳感は一切持ち込みたくなかった。

開発部へ配属され、念願であった音川との仕事をし始めたばかりだ。たとえば、離職して無理矢理に状況を変える、という選択肢は無い。
とはいえ——今のように他社に出向していれば——?

すぐに泉は頭を振って否定した。
このまま出向を延長することも、B社への入社も考えられなかった。
今は自チームが持つ予算で泉を出向させているが、上層部へ口入れして入社させるのは容易いと聞く。よほどの実績があるようだ。
イーサンの目的は計り知れない。
Barでの発言……そして昨夜、音川を陥れるような記事を自分に提示してきたことも、ひどく引っかかる。

(そうだ、あの記事……)

泉はパウダールームにおいてあるスマホを手に取り、再び浴槽へ戻った。湯に浸かりながら読書をしたり調べ物をするのが好きなのだ。水を加えて水温を下げるが、それでも英語で書かれた記事の全文を理解しようとすればのぼせるに違いなく、そこは素直に機械翻訳に掛ける。

小見出しとして、『匿名性の罠:次世代暗号化技術と犯罪者たち』と題された文章は、前半では、確かに、音川が開発した暗号化プロトコルがどのようにして違法薬物の取引、違法武器の売買、さらにはマネーロンダリングや人身売買の決済に利用されているかを、複数の捜査機関および内部関係者の証言とともに綿密に記録している。
そして記事の後半では、この技術は透明性とセキュリティの両立を志向しており、「匿名取引を防ぐ仕組み」も組み込まれていたことが示されている。
犯罪に使用されるまでの経緯についても、聞いた説明通りであった。
音川と売買契約を締結した企業に所属していたプログラマが、技術を不正に改変し、新会社を設立することで法的責任を回避しつつ、違法利用の温床となる仕様へと変質させた、とある。つまり、売買契約の範囲外でプロトコルが流用されたため、音川には開発者としての責任はなく、むしろ「理念を食い物にされた被害者のひとり」と評されている。

読み進めるにつれて、泉の眉はひそめられていった。
そして、記事は次のように締めくくられていた。

『——真に問われるべきは技術ではなく、その理念を裏切った者たちである。そして、音川氏のような研究者が再び立ち上がれる環境を、私たちは守らねばならない——』

イーサンが泉に見せたのは、前半の犯罪について記載された部分のみだったのだ。
——昨夜の、イーサンの言葉が頭の中でこだまする。

『オトカワはキミを……支配している……彼はキミに何も与えない……好意を抱いてくれる部下という理想の位置にずっと閉じ込めておきたいんだ』

まるで、『信じるべきもの』を一枚一枚剥がすような言い方だった。
プロトコルの悪用を最後に出してきたのは——
衝撃を最大化するためだったのではないか。
そして今になって、そこに『選ばれた情報』のにおいが、はっきりと立ち上ってくる。

(イーサンは……記事の全てを伝えてこなかった)

なぜ言わなかったのか。
どこまで知っていたのか。
あるいは、どこまで『わざと』黙っていたのか——
泉に近づき、揺さぶりをかけ、情報を断片にして差し出してきた。
その断片は、泉を事実から遠ざけるために用意されたピースだったのではないか。

(僕を……誘導しているのだとしたら)

泉の胸の奥に微かな閃光が走った。
信頼できるものが何か、もうはっきりと分かっている。

この数週間。
B社で働くことで、世界中の企業、政府機関、金融機関が交錯する情報の流れを目の当たりにしてきた。プロジェクトの背景、交渉に関わる非公開のデータ、資本の裏にある実態、交錯する思惑。
そして何よりも——

(たぶん僕は今、当時の音川さんよりも、いくつかの『鍵』を手にしている)

確信に似たものが、泉の中に立ち上がる。
追えるかもしれない。
ギリシャで止まったその先の、名もなき会社、その奥にいる誰か——
音川が辿れなかった場所に、今の自分なら届くかもしれない。

(どこまでできるか——)

音川にはこれ以上、過去を穿り返させたくない。ならば、自分が代わりに世界の裏側に手を伸ばそう。
彼の苦悩を取り除くことができれば、こんな幸せなことはないだろう。

泉の指先が、無意識に握り込まれる。
小さく震えているのは恐怖ではない。
過去に立ち向かい、未来を創造するための意思だった。


◆  ◆  ◆


一旦浴槽の湯をすべて落とし、浴室全体を軽く洗い流してから壁面の水滴を拭い取る。
そうしておいて、真新しい湯を張って、音川を待った。
部屋に備え付けのパジャマは着心地がよく、湯上がりの汗を感じさせない空調と相まって、リラックスさせてくれる。
ベッドのマットレスは言うまでもなく快適で——
だがツインとは言えピッタリとくっつけられた2つのベッドは、まるでダブルルームのようだった。

やるべきことが見えてきた安心感からか、それとも立ち向かう強敵への武者震いか、泉は軽く空腹を感じた。

『早く帰ってきてください』と音川にメッセージを送ると、ものの10分もせずにカチャリとドアロックが解除され、トレーニングウェアの音川が現れた。

「なにかあったのか」

微かに乱れる息で音川が急いで戻って来たことを知り、泉は少し申し訳なく思いながら口を開いた。

「ルームサービスを頼んでも……?ちょっと小腹が……」

音川はホッとしたように肩の力を抜いた。「そんなことなら俺に聞かなくても好きなだけ頼め。俺のもついでに。酒も任せた」

その言葉を受けて、泉はメニューを開いて手早く注文した。サンドウィッチやスモークサーモンといった軽食と、デザートワインが今の気分だった。

「お風呂も用意できています。もうジムに戻らないで」

「……うん」

ウェアを脱ぎながら浴室へ消える音川の背中は見事に絞られ、肩甲骨などはまるでそこから天使の羽が生えてきそうなほどに神々しい。

「一緒に入ってもいいですか?」あまりに軽い調子で尋ねられ、音川はそのまま承諾しそうになり急いで立ち止まる。

「いいわけないだろ。お前、俺がなんのために精魂尽きるまで泳いでさらに筋トレまでしたと思ってんだ」

「だって、音川さんの身体が綺麗すぎるから、見逃したくなくて……」

「メインタワーのジムに行ってみろよ。俺よりすごい白人が何人かいたぞ」

その返事に、泉は途端に唇を尖らせて不満を顕にした。

「音川さん以外の人のカラダなんて見たくも考えたくもありません」

「……わかったよ。そこまで言うなら、好きなだけ見ればいい。ただし、風呂上がりにな。今は汗だくでそれどころじゃねえよ」

「了解」

「いい返事」音川は泉に笑顔を向けた。出向前の調子に戻ったようだ。勝ち気で、素直で、少しだけ生意気な——愛しい後輩に。

ルームサービスが部屋から去ると同時に、音川は浴槽から出て手早く身体の水分を拭った。外から泉が「カンパイしましょうよ」とせっつくので、軽く髪を乾かしただけでパウダールームを出る。
備品のパジャマは上質な綿で、音川はそれを下だけ履いていた。泉のリクエストに答えるためだ。

食後にグラスを合わせて開口一番、「甘い」と泉は呟いた。今まで飲んだことがあるデザートワインとは比べ物にならないほど芳醇で、まろやかで、甘い。

「いいやつ頼んだな?」

「これしか無かったんです。ね、音川さん、さっきの約束……いつなら?」

「ん?もう見せていると思うけど」

「もっとちゃんと……音川さんの全部が見たい」

「本当にそう思ってるの?」

「はい……だめ、ですか?」

音川はグラスを置き、小さくため息をついた。

「こっちへ」

部屋の明かりを落とし、ベッドの傍らに立つと、音川は全て脱ぎ捨てた。
泉は誘われるがままにベッドに腰掛け、目の前に立つ音川を見上げていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の薄明かりが、彼の輪郭をやわらかくなぞっている。

——美しい。

その一言でさえ、軽く聞こえてしまう気がして、泉はしばし言葉を探していた。
すらりとした骨格に、鍛え抜かれた体幹が、陰影に縁取られて静かに呼吸している。肌の下に走る筋肉の曲線は無駄がなく、理知的でいてどこか優雅だった。

泉の視線が音川の中心へと導かれたとき、泉は息を呑みそうになりながらも、まなざしを逸らさなかった。
そこにもまた、躊躇うべきではない誠実さと、隠しようのない雄の存在感があった。
整然としながら、抗えない生の証として、雄々しくそこに在る。

「……音川さん、まるで、美の定義みたいです」

絞り出すようにして出たその一言に、音川が小さく笑うのが聞こえた。
泉の目に、かすかな照れと、気遣うような柔らかさが滲んで見える。

「……いつか、音川さんが欲しい」

肉体のことだけではない。
その奥にある、慎重すぎるくらいに誰かを想おうとする優しさや、静かな怒りや、責任の重さに沈む夜の長さ。そういうものが全部、この手の届く距離にあるのだと思うと、泉の胸は満たされながらも痛んだ。

泉は苦痛を耐えるかのように、ほんの少し眉根を寄せて、自分の欲深さを恥じ、その声は震えていた。
そんな泉に、音川はむしろ胸の奥が微かに震えるのを感じて、背筋に、ぞくりとした喜びが走る。

求められている。
この自分の全部を、他の誰でもない泉に独占されたい——

「……許して……求めてくれるのなら」

音川は、泉の髪をなでた。
その指先には、言葉よりも確かな誓いが込められていた。

泉はその手に頬をすり寄せ、小さく笑う。
今夜だけでなく、この先も。
この人を誰にも渡したくない。

そう思いながら、泉は目を閉じた。
心の奥の孤独まで、いつか、音川に触れてもらえることを信じて。

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