世界で最も難解なアルゴリズム

ストロングベリー

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夜を走る衝動の名

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部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。

「……どなたですか?」

ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。

「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」

泉は一瞬、言葉を失った。
わざわざ届けに……?
訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。

「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」

彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。
その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。

「そんなに警戒しなくても」

「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」

「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」

イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。

「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」

「それなら……いいです。でもわざわざ……」

泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。

「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」

その言葉に、泉の心は小さく波立った。
どう返せばいいのか、わからない。
ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。

イーサンはビールの蓋を開け、泉のグラスに注ぐ。

「NYの街はどう?」

「まだよく分かりません。ここと、オフィスの往復だけですし」

「それは退屈だろう」

「いえ、忙しいので。毎日必死ですし」

「ギリシャの件もあることだしね」

やや硬くなった声のトーンや態度が、泉に、イーサンがここへ来た本当の目的をすぐに分からせる。イーサンは軽く咳払いをして、ドアに一番近い位置にある椅子を泉の方へ向けて座った。

「私が持っている本社の権限でアクセスしてみたら、いくつかの不明瞭な取引が残っていたよ。……情けないと言えば語弊があるが、そんなことまで真面目に記録してあるなんて、誰だか知らないが犯罪者には向いていないね。金額や取引相手までしっかりと記録されていた」

「それじゃ、あのプロトコルの発信元が分かったんですか?」

「それはまだだ。キミに少し協力してもらわなくてはならなくなった。研修プログラムに急遽データセンターの見学を入れる。そこで少し、時間を稼いでもらう」

「……はい。それならできそうです」

「ああ、それと。明日の夜は少しだけ付き合ってくれ。オフ・ブロードウェイでいい舞台があると聞いてね。ぜひキミと行きたいんだ。会社とホテルの往復だけで、この機会を潰してほしくないからね」

「でも、夜は時間が——」

「大丈夫だ。キミは十分に優秀で、周りに良い影響を与えてさえいる。あまり必死にならないで。もう少しだけ肩の力を抜いて、この滞在を楽しんでくれないかな。それに、オフレコで話ができる時間が欲しいんでね。……この件で」

「了解しました」

イーサンは、ふっと笑いを漏らした。

「ここにくれば、少しは堅苦しい日本の習慣を捨ててくれるかと思ったんだがね。あの堅苦しい男の影響を引きずってるの?」

「それは……たぶん。離れていても、僕は音川さんが……」

「言わなくていい」

イーサンはすっと足を組んだ。目線は泉の顔ではなく、窓の外――街の光りが滲む空の向こうをぼんやり見ている。

「ここで、キミは何を証明しようとしてる?」

唐突な問いだった。
泉は瞬きし、それでもすぐには答えられなかった。

「……証明なんて。そんなつもりは」

「でも、自分の意思で来たんだろう?少なくとも私にはそう見える。目的は、“誰かのため”または”会社のため”だとしてもね」

イーサンの視線がようやく泉に向けられたとき、彼の目は笑っていなかった。

「もしそうじゃないなら……そんな、全部ひとりで背負ってるような顔をしていないはずだ」

泉は知らず、唇を噛んでいた。

音川に言えなかった出張のこと。
暗号化プロトコルの調査に潜む微かな危険性。
音川の相棒としてふさわしい人物にならなくてはという焦り。
イーサンに抱かれそうになったあの夜のこと。
そして、まだ言葉をくれない音川への、さらに強まってゆく想い。

「……自分でも、よくわからないんです。ただ、逃げたくなかった。きっと、立ち向かうべきは自分自身なんです」

イーサンはすっと立ち上がり、ドアまでゆっくりと歩いた。振り返らず、靴音も立てずに。
だが、ドアノブに手をかけたそのとき、ふと振り返ってこう言った。

「もしプレッシャーに押しつぶされそうになったら、私に電話をしてくるんだよ。何も話さなくていい。ただそこに誰か——キミの現状を良く知っていて、しかもすぐに会いに来られる距離にいる人間と通話が繋がっているだけでも、心強いだろう?」

「……覚えておきます。食事、ありがとうございました」

イーサンは小さく頷くと、「おやすみ」と告げて自らドアを閉めた。

優しい気遣いを見せてくれるイーサンに対して、心苦しさを感じないといえば嘘になる。
しかしそれは、親切への感謝以外の何者でも無い。
泉の胸にいるのは、いつだって音川だけだった。




◆ ◆ ◆




音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。

泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。
結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。

——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。
だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。

リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。
ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。

音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。

——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。

公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。
しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。

音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。

メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。
息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。
読み終えるまで数分かける。
一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。
——画面の光が滲んで、文字が霞む。


--------------------


音川さん

今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。

やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。
出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。
ですが……
音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。
どこまで、音川さんの過去に踏み込んでいいのか。
もし、「行くな」と言ってくれたなら、それに甘えて飛び出せないかもしれない。
いろいろ考えてしまって、話せなかった。

B社での研修は言葉も教材もとても厳しく、理解するだけでも大変です。でも、失望されないように必死にしがみついています。僕以外の参加者もいて、皆優秀で油断すると気後れしそうです。
でも……こんな状況下にあっても、僕は音川さんのことだけを考えています。
こういう時、どんなアドバイスをくれるだろう。どんなヒントをくれるだろう、など想像すると、自然と問題が溶けてゆく。

ねえ、音川さん、僕が料理をやりたいと言った時、音川さんは「練習台になる」って言いましたね。あと、恋人ができたら……とみんなで飲んでいた時も。
僕はそれを……僕の気持ちを知ったうえでの、優しい拒否だと受け止めていました。
会社の人間とは深く関わらないという意思表示に思えて……
これ以上は踏み込むまいと、用心しなければ嫌われてしまうと思っていました。
正式に直属の部下になれたことに満足しておくべきだと。

でも、駄目だった。

僕は、入社してすぐの頃、音川さんに恋に落ちました。
どうしても開発部へ入りたくて、プログラミングの勉強に打ち込みました。
時折、僕を優秀だと褒めてくれる人がいますが、それは、音川さんに認められたくて努力した結果です。音川さんに出会っていなければ、今の僕はありません。

ずっと音川さんが好きです。
東京で、音川さんを欲しいと言ったのは僕なりの切実な願いです。

本当はもっと早くに言えたらよかった。
でも、言葉にしたら、きっと音川さんはそれを『上司と部下として適切』とは思わない……そう思うと、怖かった。

こんな一方的なかたちになったことを許してください。
今を逃すと、もう伝えられないかもしれないと思って。



--------------------


画面に並ぶ文字たち。
それは、泉の体温のように、じわじわと胸に染みてくる。

遠く離れた夜に、ひとりで悩んで、言葉にして……
恐る恐る差し出してくれたその想いに、心臓が痛いほど脈打った。

——好きです。

音川はソファに沈み込み、目を閉じた。
——生まれて始めて感じる耐え難いほどの喜びに、しばらく身を任せる。
静かな部屋に、泉の気配が満ちる。

あの迷いがちな視線。
抱き寄せたときの、柔らかな髪の感触。鹿のような滑らかな身体の鼓動。
澄んだ大気のような新鮮な息吹。
柔らかな声と——俺を欲しいと告げた震えた声。
何度も飲み込んだ一言を、遠い夜を越えて届けてくれた勇気——

——言葉にしなくてはいけないのは、俺の方だというのに。

しかし——なぜ『今』なのか。
帰国まで僅か数日だろうという日に、一体何が泉を動かしたのか——

『きみに逢いたい』

音川は、すぐにメールを開かなかったことを後悔しながら、その一言だけ返信した。
そしてすぐに高屋に電話をかける。
すぐに落ち着いた声で応答があった。

「どうしたの、休暇中に珍しいね」

「泉の滞在先を……調べて欲しいんだ」

「ああ、それならもう手元にある。こんなこともあろうかと」

「俺、いま高屋さんがB社出身だったことを改めて実感してるよ」

高屋は軽く笑った。「会いに行くんだね?」

「うん」

「じゃあ、これからそっちに行ってもいいかな?マックスだっけ、世話を任せてほしいんだ。おれたちも猫か犬を迎えたいって話しててさ。ヒューゴは犬派なんだけど、おれは猫がいいんだよなあ」

音川はその言葉でようやくマックスのことを思い出し、傍らにいる愛猫に向けてすまなそうに眉を下げた。
マックスのことが頭から抜けるなど前代未聞だ。
泉に話すと、どんな顔をするだろう。マックスが最優先ですよ、と叱られる気がする。

音川は高屋に礼を告げると電話を切った。
自分の名前が出たことで起き上がったマックスは、久しぶりに飼い主の顔に浮かんだ笑顔を見て、大きなあくびをひとつした。




◆ ◆ ◆




出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。
入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。
高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。

ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。
それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。

カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。
しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。
ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。

音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。

鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。
無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。
ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。
肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。
瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。
だが音川の美は、冷たく遠いものではない。
美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて——
見る者の論理を曖昧にする。

音川は大きく深呼吸し、部屋のドアを開けた。



◆ ◆ ◆




泉はシャワーを浴びたばかりの身体にガウンだけを羽織り、濡れた髪をタオルで拭きながら、ドアのほうに目を向けた。
コンコン――と、控えめにノックの音が響く。
思わずドアに歩み寄り、無防備なまま声をかけてしまう。

「……イーサン?」

瞬間、扉越しから返ってきたのは、低く乾いた日本語だった。

「……なんだよ、それ」

はっとして身体がこわばる。まさか——と、急いでドアを開けると、そこに立っていたのは音川だった。
一瞬、幻覚まで見るほど焦がれてしまったのかと自分の頭を疑った。

「ど、どうして——」

泉の喉仏が上下に動く。
こんな状況で動揺していても、そこに佇む音川の美しさに目を奪われ、言葉が続かない。

「……ずいぶん気軽に呼ぶんだな」

口調は穏やかだが、その目には怒りとも寂しさともつかない複雑な感情がにじんでいた。

「違う、違うんです。イーサンが来る予定で……」

必死に否定する泉の姿を見て、音川はため息をついた。

「そんな格好で出迎えるなんて、一体どんな約束を?」

「そもそもイーサンだったならドアを開けていません!」

「……悪い。こんなことを言いたくて、連絡もせずに飛んで来たわけじゃない」

音川は部屋の奥へ先導する泉の手首を掴み、力強く引き寄せた。
泉が息を飲むのが分かったが、構わずそのままきつく抱きしめる。

「音川さん……」

囁くような柔らかい声で名を呼ばれ、音川はほっと息をつき、表情をやわらげた。
そして優しく泉の顎に手を添え、そろりと持ち上げる。視線を自分に向けさせるように。

その時、音川のすぐ背後でノックの音が響いた。
音川は片眉を上げただけで泉に来訪者が誰であるか確認する。

「出るの?」

「……出たくない、です」

「なら放っておけば?」

「でも……ちゃんと知って欲しい」

「まず服を着て。それからだ」

泉は自分の四肢を見下ろし、扉の外に少し待つよう声をかけてから、大急ぎでベッド脇のクローゼットへ駆け込んだ。
細身のチャコールグレーのトラウザーズに、ゆったりとした明るいグレーのトップスに着替え、その広く開いた襟ぐりは彼の繊細さを際立たせる。

音川は泉を再度引き寄せ、白く光る首筋に口づけた。

「あっ、待っ」

「待たない」低く掠れた声で囁かれ、泉の背にしびれが走った。音川の唇は首筋から鎖骨の敏感な箇所をたどりながら、その軌跡を残していく。

「きみが誰のものか、ドアの向こうにいる人物は知ることになるが、いいのか」

「ッ……!……それを、知らせなきゃ」

音川の中を、猛烈な所有欲が駆け上った。
ひときわ目立つ赤い痕を付けて、ようやく開放する。

泉はドアの前へ移り、抱擁から離れながらも、その手のひらは音川の腰に残したままにしておいた。そこに音川は自分の手を重ねて、しっかりと握り締める。

ドアを開けると、イーサンは昨夜と同じようにビールを入れた紙袋を差し出す。

「イズミ、少し早かったか……」

ジャケット姿に軽い笑みを浮かべ、完璧に計算された無害な訪問者そのものだった。
それが、泉の背後に立つ人物を認めた瞬間、射るような目つきに豹変する。

「……これはこれは、サプライズゲストかな?」

音川は答えなかった。

イーサンの視線は、濡れた髪の泉と、その背後の音川を冷静に見比べている。
表情に笑みは浮かべていたが、視線は探るように冷たい。
その目が、白く浮き上がる泉の首筋に赤い痕を見つける。

「Well, well, 日本からわざわざ……impressive dedication. とは言え、アポイントは私の方が先ではなかったかな、イズミ?」

泉は二人の間で立ち尽くす。視線はイーサンに据えていたが、言葉は出てこない。
B社は将来的に大きな取引先となりうる。そこの本社の人間と、この世の誰よりも慕う自社の上司……
どちらかを庇えば、どちらかを傷つける。
しかし、一切の利害を無視してよいのであれば……泉にとって音川よりも優先するものなど、この世に存在しない。

「ですがそれは……」

泉の返答を受けて、イーサンは一度だけ小さく瞬きをすると、ジャケットの胸ポケットから封筒を引き出し、くるりと指先で回して見せる。

「私と来るかい?《The Glass Menagerie》邦題は、ガラスの動物園。小さな劇場だが売り切れ続出で苦労したんだ。それとも、ここに閉じこもって、キミの背後から私を睨みつけている麗しい上司殿と、朝を迎えるの?」

「……泉。答えなくていい」

地の底から絞り出されたような音川の低い声が、室内に響いた。

「ですが……」

「私は、イズミにNYを楽しんでもらいたいだけ。彼は厳しい研修に耐えて、素晴らしい成果を上げている。オトカワさん、あなたのためにね」

「俺の……?」

「そんなことも知らないのか。部下から何も聞かされていないのかな。案外、あまり信用されていないのかもね」

「……喋りすぎる男は嫌われるぞ」

ふ、とイーサンは鼻で笑い「寡黙すぎる男に悩まされているものだとばかり」と肩を竦めてみせた。
「私はキミの迷う目が好きだよ。迷いながら優しさが滲むのがとても良い。キミの上司の前で告白する用意はしてこなかったが……ここではっきりさせておくのも悪くないかもね。イズミ……私は」

「イーサン」

泉ははっきりした口調で名を呼んだ。泉に向けて差し伸べられようとしていたイーサンの手はその場で硬直し、降ろされる。

「まず、気遣いに感謝します。その上で、知っておいてほしい。僕には、音川さんより優先すべきことなど何もないんです。彼さえ居れば、僕は他に何も欲しくない。誰の優しさも、気遣いも、親切も……感謝はすれど、それだけです」

イーサンは微動だにしなかった。泉の目をじっと見つめ、そしてふいに目を伏せる。

「……言わせてもくれないのかい?」

「いつか僕以外の誰かを見つけた時のために、とっておけばいいと思います」

「キミがこの街を好きになって、ずっとここに居てくれたら最高なのだけど。私は、その選択肢をオファーしているんだよ。堅苦しい会社で、ルールに縛られて大切な人への本心すら言えない男と働く一生か……、または、全てをオープンにして手を繋いで闊歩できるこの街で私と暮らし、世界を相手に戦うか。キミに選ばせてあげる。自由ってそういうものでしょう?」

「……イーサン。僕は、親切のフリをした誘導に誤魔化されるほど幼稚ではありません。ここに音川さんが来てくれたことが、僕たちにとってどれほどの意味があるのか、理解してもらおうとも思わない」

泉の声は穏やかだが、瞳はまっすぐにイーサンを捉えていた。
イーサンは静かに微笑んだ。その笑みは、これまで泉が見たどの表情よりも柔らかく、少しだけ遠かった。

「……これは無駄になったな」封筒を指先で軽く叩く。「独りでの観劇には慣れてるが、今夜はそんな気分じゃないね。誰か空いている人を見つけるとするよ」

「……ごめんなさい」

「謝られるようなことじゃない。仕事では最後まで離れるつもりはないから。それに、残りの期間でキミが私に惚れる可能性は捨てきれないね」

冗談めかした言い方に、泉の目尻が下がる。

「そんなもん、1ミリも無いだろ」

低く唸るように音川が言い捨てたが、イーサンは音川に目もくれず、背を向けてドアへと歩き出す。

「おやすみイズミ。あと、Enjoy the stay」後半は音川に向けた言葉だ。

静かに扉が閉じられ、部屋には静寂が戻った。

去っていったイーサンが残した気配に、泉の心は妙な痛みを覚えていた。
彼の気持ちに気づいていながら、何も応えられなかった自分。
そして今、そばにいる音川への想いだけを選んだこと。

「音川さん……」

静かに名を呼ばれるだけで、音川の身体は蕩けそうに弛緩する。

「来てくれたんですね。こんなに離れてるのに……」

泉がぽつりと尋ねた。
音川は、小さく笑って、首を振った。

「きみが呼んでいるような気がしたんだ」

「うん……たった10日間のはずなのに、途方もなく思えて」

音川は先程のイーサンの言い様を思い返す。
あの調子で、あの手この手で泉を誘導し、彼を選ぶ——B社での未来こそ正しいのだと思わせようとしたのだろう。
ほとんど、洗脳に近いほどに。

「俺が止めるべきだったんだ」

「でも、出張のことは言えなくて……」

「知っていた。恐らく、きみが知るよりも先に。内示が漏れてね」

「そうでしたか……。であっても、僕はここに来ていました。やるべきことがあった」

「あとで、詳しく話してくれる?今夜、ここに部屋を取っている。あの東京のホテルほど良い部屋じゃないが、それなりにくつろげるだろう。それとも、あいつの気配が残るこの部屋に残る?」

「そっちに行くに決まってるけど……」

「なに?」

「どうしてみんな、僕に何かを選ばせようとするんだろう」

音川は、心底不思議そうな顔をする泉に微笑んだ。

「みんな?」

「あ、いえ。音川さんとイーサンかな」

「それは、俺達が『きみに選ばれたい男』だからだろ。それ以外にある?」

「……そう言われると」泉はほんのりと頬を赤らめた。

「イーサンは自分を選ばせるための術を持っているのかもしれないが、俺はそういうの全然駄目だから……全て泉の意思に委ねることしかできなかったけれど……」

「なんですか」

「今は違うかな。さっさと俺の部屋に行かないのなら、抱き上げて連れて行くが……荷物みたいに肩に担がれるのと、横抱きにされて俺の首にしがみつくの、どっちがいいか選ばせてやる」

泉は吹き出した。

「歩いていきますよ。自分の意志で」
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