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こっちを見て
しおりを挟む音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。
『かわいい』なんて思うのは、相手を自分より目下に見ていることに他ならず、パワハラだと捉えられる可能性がある。もし泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラになりそうだ。
ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには事情があった。
そして、7月の夏真っ盛りであるこの中途半端な時期に、泉が開発部門に配属替えとなったことに関係している。
泉は元々デザイン部門にいた。
デザイン部門と開発部門とはフロアを共有しているが、建物の廊下の端と端という別室で、トイレや自販機のある休憩室がちょうど中間地点にある。ちょっと話に行くには億劫な距離で、基本的に2部門の社員たちは顔を合わさない。
以前は、同じ部屋だったのだが。
デザイン部門部長の保木は40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。
顧客を奪うというまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。
しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。
デザイナーはダメ出しをくらうのが仕事だと言われる。
しかし、それが技術の未熟さではなく、保木の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。
当初は同じオフィスだった開発部門から、保木の発言に対して『声が大きくて集中力をそがれる』という建前の苦情が多発した。実際は発言の内容に対する批判だったが。
それが当のデザイン部門内部からの発出あれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はジッと耐えていた。
というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。イコール、転職に優位となる。
パワハラに耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。
音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。すぐに、保木ひとりのせいで雰囲気が悪くなってしまう環境に辟易し、何度も上長に申し入れをしていた。
それは若者特有のフレッシュな正義感から発生したものではなく、単純に、音川や速水にとって、理の通らない保木の言動は、ひたすらに気持ち悪くて仕方がなかったのだ。
そして、理不尽なデザインの差し戻しによる時間の無駄遣いは、その後の工程にしわ寄せがくる。
そんなことは入社したばかりの新人でも分かるのに、なぜ保木が平気で人に迷惑をかけることができるのか。
「周囲に、自分は特別だと見せたいんだよ。単なるエゴ」と当時の開発部の上長は吐き捨てるように言った。音川にはその手法もまるで逆効果で、一層保木を軽蔑するだけだった。
しかしここ1、2年の間に、保木のデザインが客にうけなくなった。目新しさがなく、多様化についていけていないという厳しい指摘。そして費用とWebサイトの集客が見合わないことからデザイン価格が下がったり契約更新がなかったりといった案件が増えてきたのだ。
これは客側のマーケティングで世代交代が起こったことを意味している。自社のサイトがありインターネットに広告を出しておけば何でもいいという上層部が消えて、Webやソーシャルメディアでの集客こそが主力であることを知っている世代になったのだ。
そうすると保木の理不尽なダメ出しに耐えていた若手も方向転換を考える。
若手に慕われているという幻覚に浸っていた保木も、見切られようとしていることを察して、若手を逃すまいと躍起になった。
しかし顧客という後ろ盾の前にあぐらをかき、センスも技術も磨かず天狗になっていただけの保木ができることは、売り上げが落ちた責任を部下になすりつけるという最低な行為だけだった。俺のデザインじゃない、と部下の居ない経営会議で言い放ったのだ。
責任をなすりつけられた部下は2番手のデザイナーで、人望も、実力もあった。さっさと転職し、次々と腕の良い者がそれに並んだ。
人材の流動が大きい業界とは言え退職者が多すぎると、本社から事情を聞かれた自社の人事が、問題の大きさにようやく気付いた時にはもう手遅れだった。
とうとう保木に対してセクハラの訴訟が起こったのだ。
相手は入社したばかりの女性デザイナーで、保木より20歳以上も年下だ。証拠として提出されたボイスレコーダーの音声は明瞭で、保木の執拗な粘着と、それをキッパリ拒否する女性の声の往復だった。何度も拒否され腹が立ったのか、脅しに該当する発言もあった。
即日、本社は子会社に保木の停職を命じ、社員との一切の接触を禁止した。
見て見ぬふりだった人事部長にはきつい注意と相応の処分がなされ、それ以降だれも保木を見ていない。
保木の末路は、当然の報いだが悲惨なものだった。
音川は古参で本社に人脈があり噂話はよく耳に入る。また役職もあることから、本社のハラスメント研修を兼ねて詳しく事件の経緯を聞いていた。
自分の保身のためにもハラスメントをしてはいけない、と取れる指導もあったため音川は首を捻ったが、そう伝えることでしか響かない人間もいることは理解していた。
そもそも音川は徹底した論理的思考の持ち主で、感情を仕事に持ち込むことは一切ない。個人的な人の好き嫌いも無い。
だが、丁寧な人間ではないから、配慮を欠いた発言をしないために、意識している。特に女性や部下に対しては、神経質になり過ぎても困ることはないと考えていた。
それに、音川には外見の問題もある。
数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。
今ではパーソナルトレーニングジムに週4で通い、トレーナーから、コンテストに出てもいいレベルと言われるほどの大きな身体になっていた。
雑な言葉遣いとゴリゴリの筋肉が与える印象は、エンジニア志望で入社してくる真っ白な男子には威圧感でしかなく、最初は目を合わせて貰えない。
しかしすぐに、皆が音川のことを慕うようになる。
ガサツそうで怖いという第一印象は、新入社員研修が終わる頃には180度転換して、話しやすく頼り甲斐がある先輩に変わる。
ひとえに音川の気配りによるものだ。
部下も上司も関係なく、なんでも話せるオープンな雰囲気を作ることを音川は自分の役割だと決めていた。
エンジニアの中にはコミュニケーションが苦手な人がいるが、音川は、せめて自分が関わる範囲においては、あけすけでもいいから、良いことも悪いことも全てを話し合える関係を築くことが何よりも大切だと考えていた。
それが、技術力向上の土台になると信じているからだ。
新人の泉に対して音川が出した「もっと砕けて」という要望はそういう背景からだ。
音川がメンターとして選ばれたのには必ず理由があると気づくくらいに、音川は課長を信頼していた。
元のデザイン部門で保木が泉をどう扱っていたかは知らないが、恐らく、理不尽な圧力があり本来の能力を出せていなかったのではないかと思う。
今回の高屋のプロジェクトに参加するにあたり、音川が作成した資料は詳細設計に近く、サーバー構築の知識がなければ読み解くことは難しい。
音川の意図としては、泉には実践練習として参加してもらい、学びがあればそれでよいと考えていた。しかし泉は資料をなんなく理解しており、出された質疑はほとんどがユーザーでの運用に関することだった。
まずは業務内容やユーザーの要望だ。そこが掴めれば、組むべきシステムは自然と見えてくる——
この感覚を持ち合わせているのかもしれない、と音川は泉のエンジニアとしての能力に期待値を上げていった。
「泉くんて、デザイン部門だったんでしょ。その割にサーバー構築についてよく知ってるね?」
「そう言ってもらえると嬉しいです。僕、元々は開発志望だったんです。ただ、美大出身だったので……それで希望が通らなかったんだと思います」
「じゃあプログラミングは独学で?」
「そうですね……課題で3DCGを作ってからそっちの方に興味が出て。あとはアプリなんかも作って、それを仲間内で遊ぶためにサーバーを立てたりして」
「すごいね」と音川は心底関心した。
「いえ……」
「本気で仕事任せていい?」
「もちろんです!」
「うん、じゃあ泉くん主導でやってみてよ。俺には何でも聞いて。あと、インドとは当面の間は毎日17時に会議設定してあるから、そこでも聞きたいことあれば、気兼ねなく」
「ありがとうございます!」
心の底から嬉しそうなはずんだ返事は、音川に、泉の今までの苦労を感じ取らせるに十分だった。
「楽にやってね。何しても怒んねーから。そういえば、泉くんは転職とか考えなかったの?例の事件で」
「まだ2年目ですから。それに、開発部門に異動できるなら願ったりで」
「会社のせいで、少し遠回りさせたか」
「いえ、デザインも好きです。保木さんは別として、会社に遺恨はありません」
「あー……。嫌な目にあってたのか?」
「僕は男なのでパワハラだけです。新入社員の女性は、苦労していました。残業時はできるだけ一緒に残るようにしていましたが、あの日は……」
音川は、入社まもない人間にそこまでさせた人事に憤りを感じた。
「ああ、あれ泉くんのことだったのか」
音川は独り合点がいった。聞いた話では、デザイン部門でいつも新人女性と共に残業していた男性社員がいたが、保木が事件を起こした夜だけは定時で帰宅していた。
「姉の婚約で、食事会があったものですから」
「それにしても、あの音声聞いたら吐き気したね、俺」
「僕以外に残れる人が居なかった時のために、ボイスレコーダーを用意していました。みんなでお金を出し合って」
音川はピンと閃いた。
「あ!そういうこと?」
「あの日の僕の予定は本物です。新人の彼女は留学が決まって、退職はすでに計算済みでした。保木さんは欲で頭がおかしくなっていましたし、すべてのタイミングが合った。安心して働ける職場を、という彼女の置き土産です」
「それもあって、辞めなかったのか」
「少しは。でも、僕はずっと、音川さんと仕事がしたかったんです。前の部門に居た時から、音川さんが戻してくれる指示がとても的確で、僕たちデザイナーの間では取り合いでした」
「え、褒めても何も出ねーけど」
ふふ、とスピーカー越しに泉の微かな笑い声が聞こえる。
「本社のデザイナーの阿部さんってご存知ですか?」
「ああ、うん」
阿部は音川や速水と同期入社で、数年前、出産をきっかけに本社に異動していた。3人とも独身だった頃は散々飲み歩いた仲だ。
「僕、よく阿部さんとランチに行くんですよ」
「何か吹き込まれたのか?」音川は怖怖尋ねた。
「開発のガサツでマッチョなやつに気をつけろって」
「なんだ、そんなことか」
音川は思い浮かんでいた若かりし日の失態を急いで記憶の奥に再びしまい込んだ。
「腰痛対策で鍛えてるだけ。俺は人畜無害ですよ」
「他からも、見た目が怖いと聞いていましたが……」
「どうだった?昨日、初対面で」
「かっ......」
泉は言いかけた言葉を急いで飲み込んだ。昨日、PC画面に映っていたのは開発部門には似つかわしくない精悍な男性だった。睨まれると竦んでしまいそうなほど鋭い目つきなのに、気さくで、笑顔が一気に場を和ませる。
かっこいい男だと思った。
泉の声が聞こえたのかどうかはわからないが、音川はふっと笑い、「何聞いてんだろ、俺」と自問してすぐに、「んじゃ、また夕方会おうぜ」と締めくくった。
「はい、よろしくお願いします。カメラ、つけてくださいね」
「なんで?」
「顔が見たいから、です」
音川は言葉にならない唸り声で返事をして、通話を終了した。
そして、泉が何世代に属するのかは知らないが、カメラ越しの通話が当たり前の世代では、別れ際にそう言うものかもしれないな、と一人納得した。
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