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暴露

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***


 マリアは、あの時見た富士山の方角に一瞬目をむけ、それから、まっすぐ達彦に視線を戻した。

「――あの時の、言葉の続き、言ってもいいですか?」
「あの時?」
「年末の――今こそ、ここぞという時だと思うんですけど」
 達彦が僅かに目を見張った。少なくとも、彼の中にも記憶として残っているのだろう。けれどすぐに手にしていた煙草に視線を落とし、ゆっくりとそれを咥え宙を見上げる。
「……相手が、違うんじゃないか?」
 かわされたと知ってマリアはわずかに気を落とす。
 達彦の離婚は自分のせいだと感じたのは思い上がりだと、つきつけられたような気がして。
 あるいは、キースの仕組んでくれた、工作――ユウヤとの熱愛報道――がうまく効いていて、達彦はマリアとユウヤが付き合っていると信じ込んでいるのだろうか。
 マリアは、途中、空港の売店で購入したスポーツ誌を取り出し、彼に突きつけた。
「新聞……見ました」
 それに一瞥を投げた彼は「ああ……」と言ったきり何も言わず、空に向かって煙を吐きだす。説明も、言い訳もしようとしない目の前の男に、マリアは苛立つ。

「私、柏木さんが、好きです」
 達彦の目が一瞬眇み、肩がわずかに揺れたのをマリアは見逃さなかった。
「それは……、そんな怖い顔をして言う台詞じゃないだろ」
 薄笑いを浮かべて彼は、大きく煙を喫み、そして吐く。
「柏木さんが、真面目に聞いてくれないからです。――私、柏木さんのことが、好きです」
 達彦は、吐いた煙の行方が分からなくなるまで見送ってから、マリアに向き直った。
「……そんなに真面目に言われると……聞いてるこっちが恥ずかしくなるね」
 困ったような顔で笑われ、なんとなく誤魔化されたような気がしてマリアはむきになる。
 達彦との会話は、大体がこんな風に、いつもはぐらかされる。自分が惚れているのだから、仕方ないとは思うが――こんな時は特に、不公平だ。
「私は、真面目に言ってるんです。……こんな状況で、茶化さないでください!」
 不満を露わにマリアが声を荒げ、達彦の腕をつかんだ拍子に、彼の指から煙草が落ちた。
 彼の瞳に珍しく困惑が宿り、薄い笑いが口元から消える。
 落ちた煙草を靴で揉み消した達彦が、ため息を吐き、押しつぶされた吸殻を見つめた。

「俺は……多分、こういうのは向いてないんだよ」
 その様子がなんとなくうなだれているように見えて、マリアは、追い込んでしまったのではと後悔する。これ以上強引に攻め込むと、逃げられそうな気がして、腕を掴んだまま、不本意ながら声のトーンを落とした。
「こういうのって、なんですか?」
 達彦は、マリアの手を優しく振り解くと、ポケットから煙草の箱を取り出す。蓋を開け、中を見た瞬間に小さく舌打ちした。
 そのまま箱を握り潰すと、空を仰いでため息を吐く。その視線の先に、小さく飛行機が飛んでいた。

「……真面目ならなおさら、こんな、バツ一の、うだつのあがらん男より、ユウヤを選ぶほうがいいんじゃないか」
「私のこと、嫌いですか?」
 達彦は、マリアに視線を戻し、しばらく彼女の様子を窺ってから、ふっと嘲るような笑みを見せて目を逸らした。
「中学生みたいなことを聞くね」
「こんなときくらい、真面目に答えてください」
 再び腕を掴まれた達彦は、駄々をこねる子供を見るような笑顔でマリアの瞳をまっすぐに捕え直した。
「嫌いじゃないよ。しっかりした、良い子だと思ってる。だからこそ、君はもっとちゃんとした男と結婚して家庭を持ったらいい――、とも」
「柏木さんにとって、私は、遊びだったってことですか?」
 少し身を乗り出したマリアに押される形で、達彦が一歩後ずさる。
「そう思う方が、お互いにとってベストかもしれないね」
「そういう言い方、ずるいです」
「俺は、ずるくてひどい男だよ。だから……やめときなさいって忠告してるんだ」
 その薄っぺらな言い方に、腹が立った。
 どうせ振るなら、もっとこっぴどく振ってくれればいいのに。このまま振られても、心が残るに決まっている。
 ずるくて、本当に、ひどい。
 それなら――とマリアは、反撃したくなった。

「それを言うなら、……私だって、ひどい女です」
 こんな風に中途半端に振られるなら、少しくらい彼の心の中に傷を残してもかまわないだろう。たった一夜の遊びだったとしても、自分だけがそれを抱えて生きていくのは不公平な気がした。
 彼の心に、あの夜のことが刻みこまれればいい。
 達彦は「へぇ?」と口の端を上げて、次にマリアが何を言い出すのか楽しんでいる。どうせ、たいしたことのない内容だと、高をくくっているようにも見えるその薄ら笑いを、後悔とか、せめて驚きに変えられたら、それで終わりにしてもいいと思った。

「私――柏木さんを騙してました」
 そう。あの夜、マリアは彼を騙した。
 騙して、彼に抱かれた。
 言いながら、せめて彼の離婚の原因が自分だったら良かったのに、とさえ考えるほど、彼のことを好きになっていたのだな、とマリアはまるで他人事のように改めて理解する。
「ユウヤと付き合ってるのに、俺と寝たってことなら、別に俺は気にしないし、――お互い様、だろう。気にする必要な――」
「違います」
「違わないよ。俺には妻がいて、君にはユウヤがいた。それだけのことだ。妊娠初期には一割は流産するって聞くし、君はまだ若いから――」
「違うんです! あれは――」
 マリアは達彦の言葉を遮り、その先を口にしてもいいだろうかと一瞬躊躇した。
 迷惑はかけないと、約束した。
 今から話す事実は、すでに離婚が成立した達彦には、迷惑にはならないとは思う。けれど、困惑は招くだろう。
 だけど、マリアは怒っているのだ。蛇の生殺しのような別れを切り出されるなら、彼にも同じように――
「――あれは、ユウヤの子じゃなくて……」そこまで言って、マリアは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 言えば、この人はどんな顔をするだろうか。
 マリアは心を決めた。

「――柏木さんの、子だったんです」

 その言葉に達彦が固まった。
 こんなに驚いた彼を見たのは、初めてだ。そうさせたのが自分だとういう優越感と、こんなに驚くほど、彼がこの件について何も考えていなかったという苛立ちが交互にマリアを襲う。
 二人の間を風が通り抜け、ビルの下を救急車が走る音が「まさか……」と呟いた達彦の声に重なった。
 それから、乾いた笑いが彼の口から漏れる。

「それで、俺を騙すつもりか? 三月のあの時点で、四ヶ月ってことは聞いている。それは、言い方は悪いが、あの夜以前に、仕込んであったって、ことだろ?」

 あれは十二月の初めだった、だから計算が違うと達彦は頭の中で検算をしながら、口の中で続ける。
 無理もない。マリアも妊娠するまでは、週数の計算など知りもしなかった。
「とにかく、ユウヤとは、そういうことは一切ありませんから」
 達彦は黙って考え込むように、ポケットに手をいれ、煙草が切れていることを思い出したのか、小さく舌打ちした。
「ユウヤはそれを?」
「全部知っていました」
「……」
 彼は驚いているはずだった。
 けれども、驚きの上に浮かんできた何か別の感情がそれを相殺したように、達彦の表情からは感情が読み取れなくなった。
 どこまで伝えるべきか、分からなくなったが、ここまで言えば、もう何も隠すことはない。
「――知った上で、私が柏木さんの子供を内密に産むことを協力してくれていました」
「……それは、ユウヤの……、君に対する愛情だったんじゃないのか?」

 はたして、そうだろうか。
 そう勘違いしたことも、なかったわけではない。
 けれど、空港でユウヤの歩むべき道を目にしてきた今のマリアなら断言できる。
「私たちは、お互いに利害が一致したから一緒にいただけです。そこに何らかの感情があったとすれば、それは、愛情ではなく同情です」
「キースは、そこから噛んでた、と?」
 頭の中で整理をしているのだろう。頭の隅をフル回転させながら、打ち出した結果を、ぎこちない口調でマリアに確認する。
 マリアは頷き、言葉を続けた。
「迷惑をかけないといった手前、柏木さんには内緒で産むつもりでした。それなのにあんなことになって……」

 もう、大丈夫だと思っていた。
 失ったものを嘆いても仕方がないと、気持ちを切り替えたはずだった。
 けれど、その思いはどこかに捨てられたわけではなく、心の隅に厳重に封をされていただけのようだった。
 それが、大切なその命を分け与えてもらった彼と、話すまいと心に決めていたその話題について話しているうちに、突然思い出したように、胸の奥底から溢れ出てきた。
 最初から、自分の一番の宝物になるはずだったそれを、簡単に忘れ去ることなどできるはずがない。
 そんなつもりではなかったのに、心から想いが溢れると同時に、目の奥に熱いものがこみ上げてきていた。
 達彦が腕を伸ばし、マリアの頭を優しく撫でた。

「……すみ、ません」
 その声には鼻水が混じっていた。
 達彦の腕が、自然に彼女を胸の中に誘い、もう一方の手が、介抱するかのように背中を摩る。
「いや……気がつかなくて、すまなかった」
 その一言で、胸の中の何かが崩れた。
 マリアは、両手で達彦のジャケットにしがみつき、小さな嗚咽を漏らしながら、肩を震わせる。

 失くしてしまった、大切な命。
 宝物になるはずだったのに――
 人命を優先するためだったとはいえ、小さな命の芽を大事にできなかった自分が口惜しい。
 そう思う一方で、離婚した達彦が不利になる要因を抱えていなくても良くなったという冷酷な感情も浮かんでくる。

「――私だって、自分でもいやになるくらい、ずるくて、ひどいんです」
 彼を騙すくらいずるくて、授かったその命さえも自分の都合のいいように解釈するほど、残酷で――
 そんな自分が、彼に優しくされる資格などあるはずがない。
 遊ばれて、捨てられたのだとしても、それを甘んじて受けるつもりだ。
 だから、振るなら、もっと冷酷に振って欲しい。
 しかし、達彦の返答は、なんとも矛盾したものだった。
「……俺は、君にひどいことをしたくないんだけどね」
「じゃあなんで、あの時、私を抱いたんですか」
「……」
「流されたから? 私が押し切ったから? ――私が、遊びだと思ったからですか?」
 秘密を告白した勢いで、次から次へと尖った言葉が出てきた。
 それらは、本当は達彦に向けるべきではなく、自分自身に向けるべきものなのに。
 こんな風に追い詰めるつもりではないのに、それでも、溢れる気持ちをマリアは抑えられなかった。
 そして、それを、達彦は、誠実に受け止めようとしてくれている。
 達彦のその好意にさえ、マリアは惨めな気持ちになる。

 しばらくして、大きくなった嗚咽が収まり始めたころ、達彦が観念したように「全く……」と大きく息を吐いた。
「君にはいつも――」
 救われる――と聞こえたのは、空耳だろうか。
「一週間休みだったよな?」
 聞き逃した言葉を拾い上げる前に、達彦は、それまでとはガラリと態度を変え、すっきりした表情かおでマリアに向き直った。
「はい」
 彼の意図が分からないまま、マリアは素直に返事する。
「予定は?」
「全部、キャンセルしました……けど……?」
「関東の週間天気予報は、どうだったかな?」
 そんなもの、バリに行く予定だったマリアが知っているはずがない。
 達彦は視線をほんのりと朱に染まり始めた西の空に向ける。雲のない、綺麗な夕焼け空だ。
「明日の天気は良さそうだ。まあ、一週間もあれば、一日くらい晴れる日もあるだろう」
 沈みかけた太陽をもう一度見つめ、何かを考える様子を見せた達彦は、きゅっと唇を引き結ぶと、しっかりした視線をマリアにぶつけた。
「――もう一度聞くが、ほんとに俺でいいんだな?」
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