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日本一の金剛石

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「マリア」
 耳元で囁かれてマリアは、重い瞼を何とかあげた。
 目をこすりながら窺ったカーテンの向こうは暗く、朝日の気配はまだない。
「どうか……しましたか?」
 少しずつはっきりしてきた意識が、素肌にシーツの感触を捕らえた。
 急に恥ずかしくなったマリアは、シーツをしっかりと引き上げ、胸元で押さえる。
「……声かけないほうが、良かったな。そうしたら、もっとじっくり鑑賞できたのに」
 すぐ隣で、達彦がいやらしそうな笑顔を作った。
「変なこといわないでください。……まだ、暗いのに、どうかしたんですか?」
 そうだった、と達彦は思い出したように笑い、マリアが数時間前に脱いだままの服を手早く集める。
「出かけるから、十分で支度しろ」
「十分ですか!?」
「早くしないと、置いてくぞ」
 わざとらしく腕時計を見る振りをして、達彦がマリアから視線を逸らす。
 その隙にマリアはシーツを巻いたまま着替えを持ってバスルームに飛び込んだ。



「いい具合に、晴れたな」
 達彦の言うとおり、まだ暗い空はよく晴れていたが、さすがに山の朝の空気は冷たかった。
 桜の蕾もまだ小さく固い。
 明け始めている東の空は、うっすらと白んできているものの、西の空にはまだ星が残っていた。
 達彦は、静謐さの中に息を潜めて横たわる国道を走った後、標識のない舗装の傷みかけた細い道の先の小さな建物の駐車場へと車を入れた。看板も何もなかったが、コミュニティセンターか何かなのだろうか。
 まだ夜も明けていないというのに、数台の車が止まっている。
 達彦に促され車を降りて少し歩くと、そこには、カメラをスタンバイさせた人たちが数人、同じ方向を向いて立っていた。
 彼らの視線の先には、富士山が青白い空をバックに聳えている。

「柏木さん――?」
「間に合って良かった。もうちょっとだから待ってろ」
 山から目を離さない達彦は、いつもよりも張り詰めた様子だ。
 じっと見つめていると、変化は感じられない。が、空は確実にじりじりと明度を上げ、富士のなだらかなシルエットとのコントラストを強めていく。
 誰もが、息を潜めてその瞬間を待っていた。

「――っ!」
 山頂の僅かに左手からまっすぐに、す――っと、一条の光がこちらに向かって伸びてくる。
 浴びせるようなシャッター音に混じって、カメラマンたちの息を呑む音が、マリアの耳に届いたような気がした。
 蝉時雨のような機械音に支配されたそのわずかな時間と空間は、まるで異世界だった。

 有と無の境目。
 過去と未来の狭間。

 そんな、日常の裏側にひっそりとたたずむ異世界への隙間に、落ちてしまったような気がした。
 一分と経たないうちにその光の筋がだんだんと太くなってきて、強烈な光がそこから四方に広がっていく。
 無から有が生まれる瞬間――それは、日常とはかけ離れた神聖な時間だった。
 日の出をご来光といって信仰した昔の人の気持ちが、なんとなく分かる。この光の中なら、どんな暗い感情も純化されそうだ。

「――」
 腹の底から突然こみ上げてきた感情に喉を詰まらせたマリアの左手を、達彦が無言のままぎゅっと握った。
 絡めた指先に、彼を感じる。
 この空間の中で、達彦への想いが精錬されて、結晶化すればいいのに。
 もしも、そんなことが本当に起こるとすれば、それは無色透明で硬い石になるのだろう。
 二人は手を繋いだまま、黙って富士の台座に輝く聖なる輝きを見つめていた。



 我に返ったのは、カメラマンたちが機材を片づけ、達彦に声をかけてきたからだ。
「やっぱり、達チャンが来ると、いいのが撮れるねぇ」
「今日のは、良かった」
 カメラのケースを肩にかけたアマチュアカメラマンたちが、達彦に一声かけて去っていく。
 「うまくやったな」だとか「ようやく念願叶ったな」とかいうコメントも。
 彼は、その一言ずつに、蕩けるような笑顔を返していた。
 手を繋がれたままのマリアも、知らない振りをしているわけにはいかず、あいまいに笑顔を向ける。
「皆さん、顔見知り、なんですね」
 全員が、帰ってしまってからようやくマリアは達彦に声をかけた。
 空はもうすっかり白くなり、先ほどまでの荘厳さが嘘だったかのように、日常を取り戻している。
「――まあ……毎年、顔を合わせてるからな」
「毎年、来てるんですか?」
「半分は、ボランティアみたいなもん」
「ボランティア……ですか?」
「俺が来ると、晴れるから」と空を見上げて「なにしろラッキーボーイだからね」と、のたまった達彦に、マリアが突っ込みを入れた。
「柏木さんが『少年ボーイ』って、すごく無理があるように感じますけど?」
「じゃあ、なんだったら、しっくりくんの?」
「ええっと……中年――とか?」
「ひでぇ」
 先ほどのご来光によって、気持ちがすっきりしたせいか、達彦に対しての妙な遠慮がなくなっていた。
 口にしてからさすがにこれは失礼だったかと思ったが、言葉とは裏腹に、達彦は嬉しそうに笑っている。
 距離が縮んだような間隔に、心の奥がくすぐったい。
「自分ではおじさんとか言ってるくせに」
「中年とおじさんは違うだろ」
「違いますか?」
「ぜんぜん違う。中年の方がくたびれた感がある」
 そんなものだろうか、とマリアは思う。おじさんも中年も、どちらもくたびれているような気がしないでもないが。
「私には、柏木さんがおじさんでも、中年でもどちらでもかまいませんけど――でも、運が強い人だってことは認めます」
 マリアは、先ほどまでずっと見つめていた富士山をちらりと仰いだ。
「こんな光景、柏木さんと一緒でなければ、きっと見られなかったと思います。……連れてきてくださって、ありがとうございました」
 礼を述べると、達彦はバツが悪い表情になった。こちらが素直になると途端に、やりにくさを表現してくる――ややこしい年頃であることは間違いない。
「素直じゃないのは、中年の証拠ですよ」
 試しにマリアがそう言ってみると、達彦はマリアから視線をはずし、真面目な顔で小さく「……約束、したからな」と呟いた。

「約束なんて、しましたっけ?」
「――初めて会ったとき、機会があったら見せてやるって言っただろ?」
「そう、でしたっけ?」
 頬が熱くなるのを感じながら、マリアはとぼけてみせた。
 忘れるわけがない。夕景もいいけど、日の出の方が、本物のダイヤっぽいと、あの時の達彦は言っていた。
 その言葉が本当だったというのは、先ほどこの目で確かめたばかりだ。
「もっと早く見せてやれるとよかったんだが――」
 達彦は少し情けない表情で笑った。
「それなら、もっと早く誘ってくだされば、良かったのに」
「本当に機会が来るなんて、思ってなかったからな。……てか、諦めてた」
「……おっしゃってる意味が分かりません」
 さらに歯切れが悪くなる達彦。
「まあ……嫁にしたい女に見せたかった、というか……つまり、あれだ。その、……か?」
 マリアは自分の耳を疑った。

 今、彼は、なんと言った?
 どさくさにまぎれて、すごく、大事なことを、言わなかったか?

 ゆっくりと、先ほど彼が口にしたことを、マリアは頭の中で反芻する。

 ケッコン、シナイ、カ――?

 その瞬間、先ほどのダイヤモンド富士で純化され結晶化されたマリアの想いが、一瞬にして昇華した。
 固体から気体へ。急激に体積を増し、自由になった想いが心の中で圧力を増し、出口を求める。
 胸が、胃の辺りからぐいぐい押し上げられるような気がした。
 押さえきれなくなると、今度は喉の奥が熱くなって――そこで我慢をしていたら、じわじわと鼻の奥に染込むように上がってきた。
 そうしたら、もう止めることができなくて、一気に膨張した感動が目の奥で涙に変わる。

「いや、落ち着いたら、で、いいんだが――。てか、何でそこで、泣くんだよ?」
 押さえようとしても、次から次へと溢れてくる涙が止まらない。
 マリアは達彦に背を向けた。
「柏木さんが……ずるいこと、言うからです」
「こんな状況で……まさか、そう返されるとは――。……悪かったな」
 達彦が力なく笑う。
 戸惑いがちに放たれたその声には、落胆の色が濃く現れていた。
「――よく考えたら、バツがついたばかりの男にいきなり言われる一言としては、ひどい台詞だよな」
 自分の一言が大きな誤解を招いたと知って、マリアは「そうじゃなくて」と急いで振り返る。
「――日本一大きなダイヤでプロポーズされてしまったら、もう返品不可じゃないですか」
 マリアの焦った顔をみて、達彦の力ない笑みに余裕が戻ってきた。
「勝算が見込めるから、ここまで連れてきたんだろ」
 その表情を見て、マリアはなんとなく自分のほうが引っ掛けられたような気になる。
「やっぱり、柏木さんは、ずるいですっ」
「ずるくて、ひどい男だって、最初に忠告したはずだが?」
 頬の涙を拭って、達彦がマリアに口づける。
 ここまで、すべて、彼の計算だったのだろうか。
 だとすると、どうやっても、彼のほうが一枚上手で――

「それは、いいんですけど、なんか……私のほうが、立場が弱くて……悔しいです」
 達彦は、口を尖らせたマリアを、まるで駄々をこねる子供を見るような柔らかい目で見つめる。
 そうされると、ますます立場が弱くなるような気がして――

「君は、最初から、負けず嫌いなところがあったよな」
「やっぱり、柏木さん……ずるい、です」
 認めたくなくて抗議を口にすると、達彦は僅かに困ったような、それでいて蕩けるような顔をする。
「仕方ない。俺のほうが先に好きになったんだから、これくらいは許せよ」
「な、なに言ってるんですかっ! だって、柏木さんは結婚してて――」
「好きになるのに既婚も未婚もないだろ。今だから言うけど、俺なんか、美恵子にもからかわれたんだからな」
「あ……」
 マリアは美恵子の話を思い出した。
『一人で、ニヤニヤして嬉しそうに飲んでた』
 あれは――

「一目惚れだった――って言ったら、信じる?」
 お腹の奥底が一瞬で熱くなり、ゆっくりと上昇してきて、息が、詰まるような気がした。
 マリアは、それ以上泣き顔を柏木に見せるのが悔しくて、彼の首に抱きつく。
 それを知ってか、達彦は、とどめの言葉をマリアの耳元で囁いた。
「あの日――君に出会えたことが、最高に嬉しかった」

 達彦の肩を、熱いものが濡らす。分かっていても、マリアには湧き出てくるそれを止められなかった。
 何も言わずに、そっと背中をなでてくれる手が、暖かくて、余計に、悔しくて、嬉しくて――

「――これで、同等になった?」
 そんな風に、なんでもないように達彦が言うから、余計にずるいと思う。
 だけど、多分、こんな人だから、好きになったのだ。
 達彦がなんと言おうと、やっぱり、マリアは自分のほうが立場が弱い気がした。
「悔しさは、まだ残ってます」
「随分根に持つんだな」
 それは、多分、達彦が大人だからだ。
 十二年経つのに、自分は、まだあのときの達彦の年齢にも達していない。
 そこが、もう、ずるさの根源のような気がした。
 だとすれば、許す以外に、どうしようもない。
「……さっきの……もう一度、言ってもらえますか?」
「ん?」
「柏木さんの、気持ち。――そしたら、許してあげてもいいです」
 すんなり許すといわれて、一瞬、彼が困った顔をしたのは、達彦がややこしい年齢だからだろう。
 その表情だけで、マリアの気持ちはなんとなくすっきりした。
 しかし、彼女の言葉を真面目に受け取った達彦は、思いっきり照れた表情で、小さく息を吐くと普段は見せない真剣な顔つきを見せる。

「結婚、しよう」

 その瞳を真正面から受けたマリアが、満面の笑みで「はい」と答えると、達彦は慌てたように目を逸らし、「いや、実際にするのは、もう少し先になるかもしれないが――」と口の中で言葉を続ける。
 素直じゃないな、とマリアは笑みを漏らした。

「一生、幸せに、してくれますか?」
「それは、保障する。なんてったって俺、日本一の――」
『ラッキーボーイだから』

 二人の声がハモり、そして、二人同時に吹き出した。

「――だから、ボーイってのは、おかしいですってば」
「まだ、言うか?」
「柏木さんがそう言い張る限り、ずっと突っ込んであげます」
「じゃあ、これから、俺が死ぬまでずっと言われ続けるんだな」
 さらりと放たれた一言が、くすぐったかった胸の奥を、とくんと大きく波打たせた。それから、一転してじわりと何かが心に沁みこんでいく。
 達彦が、マリアを抱く腕に力をこめた。
「来年は、田貫湖まで足を伸ばそう」
「湖ですか?」
「そう。――風がなければ、富士山が水面に映ってダブルでダイヤモンドが楽しめる。二年目を迎えるってことで――」
 天気が良く風が凪ぐのを前提で話す彼の言葉を、いまやマリアは疑いも持たずに聞いている。
「じゃあ、再来年は、三つ見えるところに連れてってもらえるんですね?」
「再来年――?」
 なんと返すべきかしどろもどろになった達彦に、マリアがいたずらっぽい、輝く笑顔をみせた。


「ダブルダイヤに、本物が一つ――でも、いいんですよ?」
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