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チョコレート大福とミント羊羹

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 翌朝。余計なことを考えていたら眠れなくなって、寝坊してしまい、家を出るのがいつもより二十分ほど遅くなってしまった。いつもは始業時間の三十分前には出社して、ゴミを捨てたり、机を拭いたりしているので、そのための時間が少くなる程度なのだが、それでも私は、大慌てで支度をして家を出た。
 事務所のドアの鍵を開けようとして、手が止まる。
 すでに開錠されていたからだ。
 まだ、始業時間には十分ほどある。社長も専務もいつも遅刻ギリギリに悠然と現れる。副社長はまず姿を見せない。絵梨花ちゃんも、新入社員のくせに彼らを見習っている。パートの花沢さんは十時からの就業。
 とすると――
 階段の踊り場から、ちらりと駐車場に目をやると、草壁君の車が止まっているのが見えた。

「おはようございます、智世子さん」
「わ、……お、はよう」

 入口で戸惑っていると、扉が向こうから開いた。

「昨日は、ありがとうございました。これ、お礼です!」

 おずおずと事務所に入り、鞄を机の上に置いたばかりの私に、草壁君が差し出したのは、山饅の紙袋だった。

「お礼は、いいって言ったのに――」
「気持ち、ですから。智世子さん、ここのお饅頭、おいしいって言ってたでしょ? 少しだけですが」

 中を除くと、山饅特製のチョコレート大福とミント羊羹が一つずつ入っていた。
 私のためだけに――と思うと、なんだか、ちょっとだけ嬉しい。
 しかも、私の心のど真ん中を射抜くセレクト。だけど、ここは職場。私はそれを表すのをぐっとこらえ、反対に仕事用の顔をつくった。

「ありがとう。じゃ、遠慮なく。……これからまた行くんでしょ?」
「いえ、もう、行ってきました」
「もう?」
「はい」
「朝から、行って来たの?」
「はい。――こういうのは、早い方がいいので。営業中に時間を割いてもらうのも気がひけますし。で、智世子さんの、おかげで契約取れました! すぐにでも始めたいというので、来週初めに納品できるものでいいって」
「おめでとう――って、私は何もしてないわよ」

 あからさまにそんなことを言われて、気恥しくなった私は、日課のごみ捨てでもしようと、足もとのごみ箱に目を向けた。が、その必要がないほど中は綺麗になっている。その隣の、絵梨花ちゃんの脂取り紙でいっぱいのはずのごみ箱も。

「……あ、ごみ捨ては、やっておきました。それと、机拭きも」
「どうして?」
「どうしてって……早く来ちゃったから。こういうのって、一番の人が、するんでしょ?」
「そういうわけではないけど――」
 全く――、絵梨花ちゃんに聞かせてやりたい台詞だわ。
「そういうわけで、智世子さんは、始業時間までゆっくりしててください」

 と草壁君が事務室から出て行ったので、私はゆっくりと席についてパソコンの電源を入れた。
 何もすることがなくて、とりあえず、メールのチェックをしているところへ、お茶が出てきた。しかも、いつの間にチェックしたのか、ちゃんと私の湯のみ茶碗だ。

「あ、ありがとう」

 今まで、事務所で顔を合わせることがあまりなかったため、じっくりと話したことがなかったけれど、草壁君は、なかなかの好青年だった。すっきりと整った眼鼻立ちに、百八十センチメートルはあるだろうと思われる身長、それによく気がつくし、気立も良い。きっと、モテるんだろうな。
 その彼に、自分だけ、朝からこんな風にもてなしてもらって、心の奥がくすぐったくて、ほんの少し落ち着かない。
 手持無沙汰になったので、せっかく出してもらったお茶を啜り、大福の包みを開いた。

「……それで、ひとつ智世子さんにお願いがあるんですけど、聞いていただいてもいいですか?」

 出された大福を遠慮しながら口に含んだところで、草壁君が恐る恐る切り出した。
 悪い子ではないという気持ちと、二人で大きなことを成し遂げたという達成感、それから、口の中で広がる上品な甘さに、私の警戒心は極限まで緩んでいる。

「実は――、付き合ってもらいたいんです」

 私は、口に入れた大福を喉の奥に詰めそうになって、慌ててお茶を啜る。

「付き合うって――そんな、いきなり言われても、私、草壁君のこと良く知らないし――」
 のどに詰まりかけた大福をお茶で流し込み、どんな返答をすべきか考える前に、言葉が先に飛び出していた。
 そんな私の様子を、草壁君は穏やかに笑いながら見ている。
「そうじゃなくて、火曜日、仕事が終わった後、付き合ってもらいたいところがあるんですけど――」

 あ、そっちの「付き合う」ね。
 勘違いして口にしたセリフが恥ずかしすぎて、私は、頬を抑える。
 どんな返事をしようか迷っているところへ、バタバタと大きな音を立てて事務所横の階段を誰かが大急ぎで上ってくる音が聞こえてきた。
 時計は、始業時刻の一分前。
 バタンとドアを閉めて、タイムカードを押して、絵梨花ちゃんは、ふう、と大きな息をついた。

「おはよう、絵梨花ちゃん」
「あっ! く、草壁さん。今日はお早いですねぇ」

 あんなにバタバタと入ってきたのにほぼ崩れていないきっちりと巻かれた髪を気にしながら絵梨花ちゃんが甘い声で草壁君に挨拶をする。

「おはようございます、智世子さんも。お二人で、朝っぱらから何話されてたんですかぁ?」

 嫉妬を隠さず、草壁君に向けた熱い視線を一瞬で冷たい視線に変えてにらみながら、絵梨花ちゃんは自分の席に座った。
 挨拶は返したものの、否定すれば余計怪しまれるような気がして、私は、それ以上何も言えない。

「別に、大したことじゃないよ。――それよりも、浅川、髪型変えた?」
 私達の険悪な雰囲気を感じ取ったのか、草壁君が、気を遣って絵梨花ちゃんに話しかけてくれる。
「ええぇっ!? 草壁さん、すごいぃ。なんでわかったんですかぁ」
 何となく胸が焼けた気分になったのは、先ほど食べたチョコレート大福のせいではないだろう。私はさっさと仕事の準備を始めた。

「――あ、そうだ。朝一から悪いけど、頼んでおいた三河屋酒店への提案資料どこだっけ? 今日の午前中に約束してあるんだけど――」
 仕事の話になって絵梨花ちゃんは、「あれ……は、できてますよぉ……」と首をかしげながら、ファイルの棚へ歩いて行った。
 その背中を見ながら、草壁君が私の耳に口を寄せる。

「じゃ、火曜日、仕事が終わったら、ここへ迎えに来ます」
「え――?」

 了承したわけではなかったが、断らなかったということを草壁君は了解と受け取ったのだろう。反論しようとしたその時、絵梨花ちゃんが私に振り向いた。
 その隙に草壁君は、絵梨花ちゃんの向かいの自分の席へ戻る。

「智世子さぁん、三河屋さんの資料って、どこにおきましたっけ? 手提げの紙袋のなんですけどぉ」
 机の上に放りっぱなしだった紙袋の資料なら、昨日の残業で私が仕上げた。
「絵梨花ちゃん、机の上にあるやつ、そうじゃない?」
「あ、そうでしたっ! 昨日、仕上げなきゃって思って、準備しておいたのでした」
 絵梨花ちゃんは、自分の拳で頭をこつんと軽く叩いて「てへ」と言って見せた。
(……それを、仕上げたのは私ですけどね)
 何となく意地悪な気持ちになって、私は心の中で絵梨花ちゃんに突っ込みを入れる。
「わあ、出来上がってるぅ。――草壁さん、はい、これですっ!」
(私は靴屋の小人かっつの)
 絵梨花ちゃんはお礼の言葉こそ言わなかったが、上機嫌で私に向かって昨夜のテレビドラマの感想について話し始めた。
 その素晴らしい変わり身の早さ。私には、到底まねできない。――私が真似したところで、かわいくはないだろうけど。
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