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ただの後輩

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 私の心が草壁君に向かって陥落しかけた時、入り口のドアが開いたのか、すいっと、冷たい空気が細く流れ込んできた。
 熱く蕩けかけた気持ちが、一部分だけ冷やされて、形を取り戻す。

 だけど――!

「よくも、そんなこと言えるわね。……じゃあ、さっきのスタッフとのあれは、何なのよ」
「スタッフ?」
「これ見よがしに、耳打ちしたりして。――なにが『良かったです』なのよ? わざわざ私なんか選ばなくても、草壁君には他に良い子が一杯いるじゃない」

 興奮して、さっきまで心の中に押し込んでいたもやもやが、言葉となって外に飛び出す。
 草壁君は、宥めるようにして私を再びソファに座らせると、大人びた笑顔で息を吐いた。

「もしかして、智世子さん、妬いてるんですか?」
「妬いてません。事実を述べているだけです」

 感情と一緒に、再び溢れた涙を私はハンカチでぬぐい取る。
 隣で、草壁君が穏やかに笑っているのが見えた。

「じゃ、僕も、事実を述べますけど、さっきのアレ、『待ち合わせの相手が来て良かったですね』って意味ですよ」
「え?」
「正直、智世子さんが来てくれるかどうか、自信がなかったんです。だから、入店した時あの人に、待ち合わせだってことと、相手が来ないかもしれない可能性があるけどって断ってたんです。だから、智世子さんが来てくれて、『良かったです』ってことですよ」

 知ってしまえば、大したことではない。
 あの時は耳打ちに見えたかもしれないけれど、良く思い出してみたら、彼女が頭を下げた拍子に小さくいっただけのような気もする。

「――信じてもらえてないようですけど、僕には、智世子さんだけなんです」

 まっすぐ見つめられて、たじろいだ。
 正面から押されて、倒れないように、踏ん張る。
 だって、――それで、今はいいとしても、きっと彼はすぐに私に飽きてしまうだろう。

「わ……私は、草壁君に好きになってもらえるような女じゃない」

 その言葉に、草壁君の表情が変わった。
 怒らせた――。でも、これだけぐずぐず言っているのだから、それも不思議ではないけど、そもそも、分かってくれない草壁君だって、悪い。

「そんなのは、智世子さんが考えることじゃない。俺が好きだって言ってるんだから、それでいいじゃないですか」

 言葉遣いがぞんざいになって、明らかに草壁君が苛立っているのが分かった。
 だけど、私には仕事がかかっているんだと、怯みかけた気持ちを奮い立たせる。

「私のことなんて、何も知らないくせに、どうして、そう簡単に好きといえるのよ」
「ええ。俺は、智世子さんの誠実でかわいいところしか知りませんよ。――でも、だからこそ! これからもっと智世子さんを知っていきたいと思ってるんじゃないですかっ」

 これからもっと私を知ったら、草壁君は、幻滅するわよ。
 そう言いかけて、それなら、今、幻滅されても同じではないかと気がついた。

「じゃあ、先に、教えてあげる。……私は、真面目で誠実なんかじゃなくて、ほんとは――知らない人に簡単に抱かれるような女なんだから!」

 それは、思った以上の効果を持って草壁君を攻撃し、彼の表情も、動きも一瞬で止めた。

「……だから、もう、私には構わないで」

 こんなこと知っちゃったら、嫌いになるよね。
 でも、仕事を続けるなら、そのくらいで、ちょうど良いかも。
 ほんとに。ほんとに、これでおしまい。お願いだから、明日からは、普通の後輩に戻って。お願い――
 心の中で私は強く祈っていた。
 強く、強く祈ったせいか、想いが涙となって溢れ出た。
 凍っていた時間が溶けたように、草壁君の顔に、柔らかい笑みが戻り、親指がそっと私の頬を拭う。

「そんなことや、年齢を気にして、俺とは釣り合わないって、言ってるんですか?」
「そ、うよ」

 そして、この場にそぐわない、大きな笑み。

「思った通り、誠実で、かわいいですよ、智世子さんは」
「な――っ!?」

 これは、誠実とか、かわいいとか、そういう形容詞がくっつくような、事柄ではない。 もっと、狡猾さとか、尻軽さとか、そういうものを知って欲しいから、自尊心とかそっちのけで必死の思いで暴露したんだけど。
 予想とはあまりにも違いすぎる反応に、私の頭は混乱する。
 それどころか、草壁君は「そんなこと――」と言って私の言葉をふっと笑い飛ばし、背中を優しく撫で始めた。

「俺は、智世子さんの過去には、興味ないですから」
「……」
「それよりも、今、そんなことを自分の汚点だと考えている真面目でかわいい智世子さんを、俺だけのものに、したいだけなんだけど……だめですか?」

 こんな風に、気持ちをぶつけられたら、いくら鉄壁の守りだって、少しくらい穴が開くわよ。
 でも、私は、絵梨花ちゃんのことや会社のこともあって、まだ攻め落とされるわけにはいかなかった。

「それだけじゃ、ないの」
「まだあるんですか?」

 草壁君は、次に私が口にする言葉を笑い飛ばそうとするかのように、余裕を見せた。
 嫌われるの覚悟で、ここまでぶちまけたんだから、あと少し、否定的要素を追加しても、私の心情的には大差はない。
 私は、ビールで勢いをつけて、その言葉を口にした。

「私……不感症、なの」

 草壁君は、怒りも落胆も見せずに、ただ、黙って宙のある一転を見つめていた。不感症の私を抱いたときのことでも想像しているのだろうか。
 一瞬おいて、彼は、唇を少し突き出して、不満そうな顔をした。
 ダメ押しで再び好きな相手を落胆させるのだと思うと、怖気づきそうになった私は、その決心が揺らいでしまう前に矢継ぎ早に、次の言葉を紡ぎだす。そうでもしないと、また涙になりそうだ。

「だから、草壁君が私と付き合っても、絶対いつかは後悔すると思う」

 それから、草壁君がため息をついたから、私は、もう、本当にこれで終わりと、次の言葉にダメージを食らわないように、心を固くした。

「……これまでの話をまとめると、つまり――智世子さんは、俺が好きってことでいい?」
 草壁君の顔が間近に迫る。
 反射的に私は、唇の前に手を置いてガードした。
「な……に言ってるの、つまり、私と付き合っても時間の無駄ってことよ」
「俺が、それでもいいって言ったら?」

 私の手の向こう、ほんの数十センチのところで、草壁君は私の目をしっかりと捉えている。
 だから、私は視線を定めることができなくて、心も揺れて、声も、震えた。

「それ、でも……草壁君とは……付き合え、ない」
「誰か、俺以上に、好きな人がいるんですか?」

 いないと言えば、強引に攻めてこられそうだった。そして、もう一度そうされれば、今度は落ちないという自信はない。

「そ……うよ」

 語尾が消えそうになったのは、大上さんの「一生」という言葉を思い出して、草壁君に対してなぜか罪悪感が生まれたからだ。
 うつむいて何も言えなくなった私を、ふっと草壁君が笑ったような気がした。

「つきあってるんですか?」
「う、ん」
「どんな人です?」
「どんなって……」

 そう言えば、私は大上さんのことを、ほとんど知らない。
 困ってしまった私は、何とかあの男の特徴を思い出そうと、記憶を辿る。

「年上で――、一八〇センチあるかないかくらいの身長で、細身なんだけど意外と筋肉があって、ビールと煙草が好きで……」
 たどたどしく説明をする私に、草壁君はクスッと鼻で笑った。
「無理しなくていいですよ」
「無理してません。ほんとに、そういう人が、彼なの。……信じて、ない?」
「いいえ。信じます」
 彼の、さっきまでの焦れた表情が一転、すがすがしい笑顔に変わる。
「信じるの?」
「だって、智世子さんが言うことですから」
 何それ――? と言いかけて、言えなかった。
 草壁君がとても真面目な表情で「だから――」とじっと私を見つめたから。
 私は思わず後ずさった。
 肩の後ろに、薄いベニヤの壁があたる。
 草壁君が、そっと私の手首を取った。
 それから、ゆっくりと壁に押しつけ、わずか十センチメートルほどの距離で、草壁君は私の様子をうかがっていた。
 奪おうと思えばできる状況でそれをしないのは、彼の誠実さなのだろう。そんな、小さいけれど新しい発見が、私の草壁君に対する気持ちを倍増させる。
 強引に奪われるなら、強く拒否もできるのに――

「智世子さんも、ちょっとは僕の言葉を信じてください」

 視線に、縫い留められた。
 真面目に言われて、恥ずかしいのに、目が反らせない。
 返答に詰まっていると、さらに念を押すように距離が詰まった。
 瞳を通して、心の奥の何かを響かせようとするかのように、草壁君の目に力がこもる。

「――俺、智世子さんのこと、本気だから」
「……う、ん」

 息が苦しくなってそれだけ返すのが、精一杯。
 その瞬間、唇に一瞬だけ柔らかい感触が走る。
 ――っ!
「どんな人って聞かれて、智世子さんに困った顔させるような男からは奪いとりますけどね」
 抗議しかけた時には、もう草壁君の唇のぬくもりは消えていた。

「――今日はこれくらいにしておいて、ただの後輩に戻ります。ゆっくり食べて行きましょう。ここの、ミーゴレンおいしいんですよ」

 私の思考が停止している間に、草壁君は軽く笑ってテーブルの上のものに手をつけ始めた。
 ドキドキがおさまらない。
 まさか、草壁君がここまで、強気に迫ってくるとは思ってもいなかった。「今日はこのくらい」――って、明日からどうなるんだろう。
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