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視察 2

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「ほう。――持参金もない田舎の貧乏貴族の娘を、こちらが金を出してまで貰ってやったというのに、それだけでは足りないと?」
 言葉とは裏腹に侯爵は嬉しそうに嗤った。
 あなたが、求めないからでしょう?
 そう言い返しそうになったが、カペラはぐっとこらえる。
「叶いそうもないことを、叶えようと思われたのでしょう?」
「――ははは、そうだな。面白い。言ってみろ。何が欲しい、都で流行のドレスか? それとも、香水か? そういえば――」
「ダムです」
 カペラは真面目な顔つきで侯爵の言葉を遮った。
貴婦人dame? ――まさか、お前にそっちの気があるとは思わなかった。まあ、それはそれで面白いが――」
「そちらのダムではなく、水を貯める方の堰堤damです」
 侯爵が真面目な顔付きになる。

「また、妙なものを欲しがるお嬢様だな」
 しかしそれは、彼がこの話に興味を持ったことを示していた。
 カペラは彼の気が逸れないうちに、言葉を足す。
「それがあれば、きっとサーシスに小麦畑が蘇ります」
「何を根拠に?」
「先ほどおっしゃった通り、堤だけでは不安です。小麦は乾燥した土地を好むので、畑から湿気を取り除くことができれば、根腐れを起こさずに成長します。ですから、川の上流で水量を調節することができれば生育環境がさらに整うと思うのです」
 それを聞いて侯爵は、しばらく黙って考えているようだった。
 自分の考えを真面目に聞いてくれているとカペラは信じて、彼の次の言葉をおとなしく待つ。
 幾度か風が二人の間を通り抜ける。

 ――やはり、無理だろうか。

 そして、大きな風がカペラ乱した髪を彼女が整えようとしたとき、侯爵が目の前に出した拳骨を上向きに開いた。
「今は――とりあえず、これで良しとはできんか?」
「……なんですか、これ?」
 開いた手のひらの上には、一見小麦のような薄茶色の実がいくつか載せられている。
 皮の色は似ているが形が小麦よりもずんぐりしていて――侯爵の意図がつかめない。
「ふざけないでください」
「――いらないなら、これはエリックにやろう」
「こんな時くらい真面目に話せませんか!?」
 おどけるように肩を竦めた侯爵に、カペラはぴしゃりと言い放つと、彼は小さく息を吐いて、素直に表情を厳しくした。
 カペラの見たことのない、仕事用の顔だろうか。
 意外な表情を見せられて、カペラは怯む。

「――なら、真面目に答えるが、その堰を作るのに、どれだけの費用がかかるかわかって言っているのか?」
「それは……」
「それだけのものをねだる価値が自分にあると?」
 価値なんか……
 そう口にしかけて、カペラはやめた。
 ここで自分を卑下しても仕方がない。彼がビジネスだと言い張るのなら、自分もその様に振る舞えばいいだけの話だ。
 彼女は腹の底に力を込める。
「あなたにとっては、ドレスか香水を欲しがる女よりも魅力的に映るのではないかと思いますけれど」
 一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした後で、侯爵は弾かれたように高らかに笑い出した。
「……確かに、そうかもしれんな。わかった。この件に関しては、こちらでも考えておこう。ただし、約束はできんがな」

 タイミングを測っていたエリックが二人に声をかけた。ブランケットの上には軽食の準備が整っている。
 伯爵夫人はすでにいい気分の様子で、侯爵が腰を下ろすとすかさず這いずり寄り、肩にしな垂れかかった。
 エリックが侯爵にぶどう酒を手渡し、カペラにはイチジクのコンポートを挟んだパンを作ってくれる。
 その時、森の奥から早馬の駆ける音がして、息を切らせた急使が姿を現した。
 気がついた侯爵がすぐに立ち上がり、エリックもすぐに行動できるよう身構える。
 止まりかけの馬から身軽に降りた使いの者は、手綱を手にしたまま侯爵の前に跪いた。城に仕える小姓の一人だ。
「お休みのところ失礼いたします。港から客人がいらしておいでで、すぐにお戻りいただけるようとの伝言を預かって参りました」
「港?」
「本日港に着く予定の船の件だとか――」
 グレン侯爵はカペラにも聞こえるくらいの大きさで舌打ちをすると、木に繋いであった馬に駆け寄った。
「エリック、お前はピクニックの続きを楽しんでから戻れ。くれぐれも、ご婦人方を退屈させないようにな」
 心配そうに侯爵を伺うエリックにそう言い残して馬に飛び乗った彼は、小姓を伴い手綱を引いて馬を馳せた。
「なにか、あったのかしら」
 侯爵が去って行った方を見ながらカペラは眉を顰める。
 自分が無理を言ったせいで、侯爵は急遽ここへ案内してくれたのだ。もし、なにかのトラブルに見舞われたのだとして、いつも通り城で仕事をしていればもっと早く対処できたかもしれないのに。
 役に立たないばかりか、邪魔になっているかもしれないと思うと、カペラはいたたまれない気持ちになる。
「心配要りません。大きな問題が起こったのであれば、私もご一緒したはずです」
「そう、ね」
「そうです。さあ、侯爵の指示通り、我々はピクニックを楽しみましょう」
 出来上がったサンドイッチをカペラに手渡してエリックはにっこりと笑った。
「あたくしにも、一つお願いできるかしら」
 伯爵夫人がエリックの横ににじり寄る。侯爵の目がないからか、あからさまにエリックに寄りかかった。
 胸が腕に押し当てられているが、エリックは特に嫌がることなく給仕を続けている。
 やはりエリックも、伯爵夫人のように豊満な肉体の、大人の魅力あふれる女性の方がいいのだろうか。
 カペラは自分の胸元を見下ろした。ないわけではないが、ルセイヤン伯爵夫人と比べると、ずいぶん幼いのは否めない。
 一体、自分はどうしてこんなところにいるのだろう。
 夫となるはずの侯爵にもろくに相手をされず、彼の役に立つわけでもない。さらに、思いを寄せるエリックの気持ちも、以前みたいに近くに感じることもできず、ここへきた目的の一つのダムも軽く却下されて――
 カペラは伯爵夫人に視線を移した。
 彼女はカペラの存在など始めからないかのように、ベタベタとエリックの体に触りながら彼に話しかけている。
 
 ――へえ、あなたオーウェンの従僕なの。それにしては、一緒に食事を取れるだなんて、――グレン侯爵は、あなたのことずいぶん信頼しているのね。
 ――恐縮でございます。
 ……どうやって取り入ったのかしら?
 ――特に何も。侯爵様のお心のうちは、私にも分かりかねます。
 ――ふふ。そういう、謙虚でクールなところ、とても魅力的だわ。

 そんな、他愛もない会話を交わす二人を、カペラは薄い膜を通したような気持ちでぼんやりと眺めていた。
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