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悪趣味 2
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小ぢんまりとはしているが居心地の良さそうな落ち着いた薄茶色の部屋の真ん中におかれた長椅子に、ルセイヤン伯爵夫人がゆったりと腰掛けていて、その前に背筋を伸ばしてエリックが神妙な面持ちで座っている。
薄暗さに慣れた目に、エリックの右腕を固定している白い布が眩しい。
「――御用は、それだけ?」
「ええ。ありがとうございます」
一つの壁にいくつか穴が開いているせいか、中の声は思ったよりも良く聞こえる。
礼を言い立ち上がったエリックに、「では――」と伯爵夫人は呼び止め、ゆっくりと腰を上げた。
振り返った彼の肩に、彼女がしなだれかかる。
「――今度はあなたが私のお願いを聞いてくださる番よ?」
「お願い、ですか?」
「夜はこれからよ。一杯付き合ってくださらない?」
伯爵夫人は、サイドテーブルの上に用意されていたデカンタを視線で指した。
「まだ仕事が残っていますし、こんな状態では――」
固定された腕をわずかに持ち上げたエリックのやんわりとした拒絶など耳に入っていないかのように、伯爵夫人はデカンタの中の琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「固いのね。こんな時間ではオーウェンはもう戻ってこないわ。……それに、これは命の水よ。飲めば治りも早くなるかも。――それとも、あたくしが飲ませてあげましょうか?」
グラスを手にしたまま、ルセイヤン伯爵夫人が口移しでもしそうな勢いで顔を近づけてきた。
仕方なくエリックは、彼女の手から静かにグラスを取り、「では、お言葉に甘えて、一杯だけ」と一言断って、立ったままでくいっと一気に飲み干すと、押し付けるように空のグラスを伯爵夫人に突き出す。
彼としては手早く片づけて部屋を出ていくつもりだったのだろう。しかし、伯爵夫人の方が一枚上手だったようだ。
彼女はグラスではなく、彼の腕をぐっと掴んだ。
「案外、強いのね」
腕を掴んだまま、ルセイヤン伯爵夫人は満足げな笑みを口元に作った。
だが、その眼は笑っておらず、獲物を狙う豹のように様子を窺っている。
「以前は執事をしておりましたせいでしょうか」
エリックはあいまいな笑顔で答えた。
「そういえば、あのお嬢さんのところで働いていたのだったわね。見たところ、何の取り柄もない田舎の令嬢って感じだけど……あの子、どうやってオーウェンを堕としたの?」
田舎者――その言葉が、カペラの気分を損ねる。
たしかに、王都で暮らしていたルセイヤン伯爵夫人と比べると田舎者ではあるが――、少しでも弁護してくれればいいのに、エリックは静かに笑いを口元に湛えたままだ。
カペラが不服そうに顔を背けると、笑いを堪えているグレン侯爵と目が合った。
この人を堕とす方法だなんて――それはこっちが聞きたい。
少なくとも、彼のこの様子を見ると、自分に対する恋愛感情は皆無だ。
毎夜二人きりで書斎にこもっていたエリックなら、なぜ侯爵が自分を選んだのか知っているのだろうか。
それも気になってカペラは、再び室内の二人に意識を戻す。
「個人的な事情は私にはわかりかねます」
「そう。では、質問を変えるわ。あなた自身のことなら、わかるわよね。――あたくしのこと、どう思う?」
「……」
「率直に言っていいのよ。それとも、正直に告白するには、まだ酔いが足りない?」
エリックが手にしたままのグラスに、伯爵夫人が琥珀色の蒸留酒を足す。
「私はもう――」
「グレン侯爵の大切な客人であるあたくしが注いであげたというのに、飲めないなんてこと、ないわよね?」
使用人の分際で――彼女の瞳は暗にそう言っているようでもあった。ルセイヤン伯爵夫人はグラスを持つエリックの手を両手で包み、彼に寄りかかる。
「あたくし、寂しいのよ。オーウェンにはずっとはぐらかされてばかりだし……。このままじゃ、枯れてしまうわ」
「あいにく、今夜は腕がつかえませんので」
「怪我人ですもの、何もしないで大丈夫。幸い、怪我は腕だけだし、今晩は特別に、あたくしが一晩中奉仕して差し上げるわ。もちろん、オーウェンには黙っているって、約束する――」
有無を言う暇もあたえず、ルセイヤン伯爵夫人はエリックの唇に真っ赤な唇を重ねた。
片腕は怪我のために固定され、もう片方の手には液体の入ったグラスを持たされたエリックは、彼女を引き剥がすことができない。
それをいいことに伯爵夫人は、彼の腰を引き寄せ、ゆっくりとエリックを撫で回し始める。
まるで肉食獣が、無抵抗の草食動物を嬲っているようだ。
「早く戻ってきて正解だったな――」
穴から目を離さずに、侯爵が嬉しげに口にしたのを、カペラは聞き逃さなかった。
まるで、こうなることがわかっていたかのような――そしてそれを望んでいたかのような口調にカペラの苛立ちと困惑はさらに募る。
伯爵夫人の右手はエリックの腰あたりを、誘いをかけるように艶めかしく這い始めていた。
けれども彼は棒立ちのまま。
このまま、彼女の『奉仕』を受けるつもりなのだろうか。
されるがままに口づけを受けたエリックからカペラは目を背け、侯爵に小さく「戻ります」とだけ告げてきた方へ向かって歩き出した。
「これからがいいところなのに、見ていかないのか?」
「覗きだなんて、悪趣味です」
「お前もエリックと同じで、固いな。このくらい、貴族の愉しみの一つだろうが――」
あなたと一緒にされたくありません、と嫌みの一つも言ってやりたいところだが、カペラは堪えた。言ったところで侯爵を愉しませるだけのような気がしたからだ。
「まあ、貴族なんてものは、始めから悪趣味極まりないものではあるがな」
愉快そうにこう付け加えた侯爵に、カペラはもう一度「戻ります」と短く言って背を向ける。
「部屋で、一人で慰めるのか、先ほどみたいに?」
「知りませんっ」
カペラは頬が熱くなるのを感じた。
背を向けていて、彼に見られていないのが幸いだ。
多分、侯爵はわかっているだろうけれど。
「今夜は気分がいい。慰めてほしくなったら、遠慮なく言え。指くらいなら貸してやる」
「結構です」
部屋に戻ったカペラは、侍女に夕食で残ったパンを持ってこさせ、気がついた穴をそれで全部塞いだ。
グレン侯爵はこの部屋の覗き穴など使う必要はないし、彼以外にこの穴を使いたがる人物はいないだろうから、そんなことをしてもただの気休めにしかならないのだが。
寝室に戻り、布団の中に潜り込んだが、眠気はまるで襲ってこなかった。
そればかりか、先ほどの光景が頭の中で再生を繰り返されている。
あの後、伯爵夫人の手はエリックの裸体を明かりの下に晒すのだろうか。
あの真っ赤な唇で彼の牡を奮い立たせ、その精を自分の体の中に搾り取るのだろうか。
そして、それを一晩中――
未だ途中までしか知らないカペラは、至福の快楽に包まれる二人を想像しながら、エリックへの想いを余計に募らせ、空が白むまで何度も寝返りを打った。
薄暗さに慣れた目に、エリックの右腕を固定している白い布が眩しい。
「――御用は、それだけ?」
「ええ。ありがとうございます」
一つの壁にいくつか穴が開いているせいか、中の声は思ったよりも良く聞こえる。
礼を言い立ち上がったエリックに、「では――」と伯爵夫人は呼び止め、ゆっくりと腰を上げた。
振り返った彼の肩に、彼女がしなだれかかる。
「――今度はあなたが私のお願いを聞いてくださる番よ?」
「お願い、ですか?」
「夜はこれからよ。一杯付き合ってくださらない?」
伯爵夫人は、サイドテーブルの上に用意されていたデカンタを視線で指した。
「まだ仕事が残っていますし、こんな状態では――」
固定された腕をわずかに持ち上げたエリックのやんわりとした拒絶など耳に入っていないかのように、伯爵夫人はデカンタの中の琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「固いのね。こんな時間ではオーウェンはもう戻ってこないわ。……それに、これは命の水よ。飲めば治りも早くなるかも。――それとも、あたくしが飲ませてあげましょうか?」
グラスを手にしたまま、ルセイヤン伯爵夫人が口移しでもしそうな勢いで顔を近づけてきた。
仕方なくエリックは、彼女の手から静かにグラスを取り、「では、お言葉に甘えて、一杯だけ」と一言断って、立ったままでくいっと一気に飲み干すと、押し付けるように空のグラスを伯爵夫人に突き出す。
彼としては手早く片づけて部屋を出ていくつもりだったのだろう。しかし、伯爵夫人の方が一枚上手だったようだ。
彼女はグラスではなく、彼の腕をぐっと掴んだ。
「案外、強いのね」
腕を掴んだまま、ルセイヤン伯爵夫人は満足げな笑みを口元に作った。
だが、その眼は笑っておらず、獲物を狙う豹のように様子を窺っている。
「以前は執事をしておりましたせいでしょうか」
エリックはあいまいな笑顔で答えた。
「そういえば、あのお嬢さんのところで働いていたのだったわね。見たところ、何の取り柄もない田舎の令嬢って感じだけど……あの子、どうやってオーウェンを堕としたの?」
田舎者――その言葉が、カペラの気分を損ねる。
たしかに、王都で暮らしていたルセイヤン伯爵夫人と比べると田舎者ではあるが――、少しでも弁護してくれればいいのに、エリックは静かに笑いを口元に湛えたままだ。
カペラが不服そうに顔を背けると、笑いを堪えているグレン侯爵と目が合った。
この人を堕とす方法だなんて――それはこっちが聞きたい。
少なくとも、彼のこの様子を見ると、自分に対する恋愛感情は皆無だ。
毎夜二人きりで書斎にこもっていたエリックなら、なぜ侯爵が自分を選んだのか知っているのだろうか。
それも気になってカペラは、再び室内の二人に意識を戻す。
「個人的な事情は私にはわかりかねます」
「そう。では、質問を変えるわ。あなた自身のことなら、わかるわよね。――あたくしのこと、どう思う?」
「……」
「率直に言っていいのよ。それとも、正直に告白するには、まだ酔いが足りない?」
エリックが手にしたままのグラスに、伯爵夫人が琥珀色の蒸留酒を足す。
「私はもう――」
「グレン侯爵の大切な客人であるあたくしが注いであげたというのに、飲めないなんてこと、ないわよね?」
使用人の分際で――彼女の瞳は暗にそう言っているようでもあった。ルセイヤン伯爵夫人はグラスを持つエリックの手を両手で包み、彼に寄りかかる。
「あたくし、寂しいのよ。オーウェンにはずっとはぐらかされてばかりだし……。このままじゃ、枯れてしまうわ」
「あいにく、今夜は腕がつかえませんので」
「怪我人ですもの、何もしないで大丈夫。幸い、怪我は腕だけだし、今晩は特別に、あたくしが一晩中奉仕して差し上げるわ。もちろん、オーウェンには黙っているって、約束する――」
有無を言う暇もあたえず、ルセイヤン伯爵夫人はエリックの唇に真っ赤な唇を重ねた。
片腕は怪我のために固定され、もう片方の手には液体の入ったグラスを持たされたエリックは、彼女を引き剥がすことができない。
それをいいことに伯爵夫人は、彼の腰を引き寄せ、ゆっくりとエリックを撫で回し始める。
まるで肉食獣が、無抵抗の草食動物を嬲っているようだ。
「早く戻ってきて正解だったな――」
穴から目を離さずに、侯爵が嬉しげに口にしたのを、カペラは聞き逃さなかった。
まるで、こうなることがわかっていたかのような――そしてそれを望んでいたかのような口調にカペラの苛立ちと困惑はさらに募る。
伯爵夫人の右手はエリックの腰あたりを、誘いをかけるように艶めかしく這い始めていた。
けれども彼は棒立ちのまま。
このまま、彼女の『奉仕』を受けるつもりなのだろうか。
されるがままに口づけを受けたエリックからカペラは目を背け、侯爵に小さく「戻ります」とだけ告げてきた方へ向かって歩き出した。
「これからがいいところなのに、見ていかないのか?」
「覗きだなんて、悪趣味です」
「お前もエリックと同じで、固いな。このくらい、貴族の愉しみの一つだろうが――」
あなたと一緒にされたくありません、と嫌みの一つも言ってやりたいところだが、カペラは堪えた。言ったところで侯爵を愉しませるだけのような気がしたからだ。
「まあ、貴族なんてものは、始めから悪趣味極まりないものではあるがな」
愉快そうにこう付け加えた侯爵に、カペラはもう一度「戻ります」と短く言って背を向ける。
「部屋で、一人で慰めるのか、先ほどみたいに?」
「知りませんっ」
カペラは頬が熱くなるのを感じた。
背を向けていて、彼に見られていないのが幸いだ。
多分、侯爵はわかっているだろうけれど。
「今夜は気分がいい。慰めてほしくなったら、遠慮なく言え。指くらいなら貸してやる」
「結構です」
部屋に戻ったカペラは、侍女に夕食で残ったパンを持ってこさせ、気がついた穴をそれで全部塞いだ。
グレン侯爵はこの部屋の覗き穴など使う必要はないし、彼以外にこの穴を使いたがる人物はいないだろうから、そんなことをしてもただの気休めにしかならないのだが。
寝室に戻り、布団の中に潜り込んだが、眠気はまるで襲ってこなかった。
そればかりか、先ほどの光景が頭の中で再生を繰り返されている。
あの後、伯爵夫人の手はエリックの裸体を明かりの下に晒すのだろうか。
あの真っ赤な唇で彼の牡を奮い立たせ、その精を自分の体の中に搾り取るのだろうか。
そして、それを一晩中――
未だ途中までしか知らないカペラは、至福の快楽に包まれる二人を想像しながら、エリックへの想いを余計に募らせ、空が白むまで何度も寝返りを打った。
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