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寝不足の朝 2

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 エリックがルセイヤン伯爵夫人の部屋をようやく出られたのは、東の空が白み始めた頃だった。
 あんなに強いとは思わなかったから、一晩彼女の部屋で過ごすことになったのだ。
 少しずつ明るくなり始めた静かな廊下を、音を立てないように歩き、自室に戻るとエリックは、珍しく事切れたように眠り込んでしまった。
 怪我ために飲んだ薬のせいか――侯爵が不在のため気が緩んだというのもあるのかもしれない。
 数時間の睡眠をとったあと、朝食をどうしようかと悩んだが、カペラを一人にしておくのに気が引けて食堂へいくことにしたのだった。

 昨日は想定外のことが多すぎて思わず自制を失ってしまったと、着替えながら彼は反省する。
 身なりを整えて、扉を開けたところで、待ち構えていたように執事が恭しく頭を下げた。
 いつもなら気にならないはずの、綺麗に整えられた、白いものが混じり始めた彼の頭頂に目が行ったのは、まだ仕事に集中できていない証拠だろうか。
 しかし、その気の緩みも、彼の一言で一気に吹き飛んだ。
「カペラ様はもう食堂ですか?」
「はい、侯爵と朝食をお取りになっておられます」
「侯爵がお戻りに!?」
 エリックはクラバットの結び目を直しながら、急いで食堂へ飛び込む。
 正面の、いつもの席にグレン侯爵がにこやかに座り、カペラと二人で食事をとっているところを目にした時には、内心冷や汗をかいた。
「――災難だったな」
 エリックの慌しい登場に、静かに目を上げた侯爵はにこやかに第一声を放った。

 ええ、おかげさまで災難続きでございます――エリックは表情に出ないように気をつけながら、心の中で毒を吐きつつも、侯爵の機嫌が悪くないらしいことにほっとする。
 侯爵がどこまで知っているのかわからないが、その視線がエリックの固定された腕に向けられているところから判断するに、ここは余計なことは言わない方が得策そうだ。
「大事な時期に、申し訳ありません」
「構わん。腕が治るまで少し休めばいい」
 目で座るように促された彼は、椅子を引きながら侯爵の目元に疲労の色を認めた。
 夜中に戻ってきていたというのに、この時間に朝食をしっかり摂っているところを考えると、おそらく状況はまだ予断を許さず、今日もまたすぐに出かけるつもりなのだろう。
「昨日の急使――、なにか仕事で問題があったのではありませんか? そしてまだ解決されていないのではないかと拝察いたしますが?」
「さすがに、鋭いな」と侯爵は力なく嗤う。「――その件で、俺はこのあと王都に向かう」
 手にしていたカップを置いて、ナフキンを皿の上に投げるように立ち上がった侯爵に合わせて、エリックも「では、私も急いで支度を――」と腰を浮かしかけた。
「急がなくても構わん。お前には内緒で出かけるつもりだったが――食事が終わったら書斎で打ち合わせよう」
 意味ありげな笑みを残し、侯爵はいつものようにゆっくりと部屋を出る。
 残されたのは、カペラとエリックの二人。
 いつもの彼女なら、一番に彼の怪我を心配して言葉をかけるだろうに――、この気まずい沈黙はどうしたものか。
 迂闊にも昨夜、彼女の目の前で伯爵夫人に声をかけてしまったことを、彼は後悔した。

 怒っているのか、落ち込んでいるのか。
 カペラの性格からして、おそらく後者だろうとは思う。が、下手に気遣って声をかけるのは得策ではない。また、彼女にその気がないのに、明るく話しかけるのもわざとらしい。
 それでも、カペラよりも先に席を立つのがなんとなく申し訳ないような気がして、エリックは小さくちぎったパンを紅茶で流し込み続けた。
 睡眠をとったとはいえ、まだ昨夜のアルコールは抜けきっておらず、食欲もそれほどわいてはこないのだが、誤解があるなら、早く解いておいたほうがいい。彼は彼女がその気になるまで、居心地の悪さを我慢することにした。
 そして、食後のお茶を飲み干したところで、とうとうカペラが空のカップを見つめたまま、口を開いた。
「……怪我は、どう? 昨日は……よく休んだ?」
 この、遠回しな質問に、どう答えるべきだろうか。
 彼女は、彼が伯爵夫人の部屋に行ったことを知っている。
 そして、それをひどく気にしていることも、エリックにはよくわかっていた。
 どうせ聞くなら、もっと直截的に に聞いてくれた方が助かるのだが、と頭の隅で考えながら、彼は、ここで下手を打ってはならないと頭脳をフル回転させる。

 だが――
 こんな聞き方をされると、伯爵夫人のことを持ち出すのは余計に不自然だ。
 結局彼は、こう答えるしかなかった。
「昨夜は……一晩中、飲みすぎてしまいました」
 それ以上何かを聞く勇気がカペラにはなく、彼女は力なく「そう」と言い残して席を立った。
 その答えが、カペラに誤解を与えた可能性は高い。
 もっと他に言い様があったのではないかとも思う。
 だが、今や侯爵夫人となってしまった彼女に期待を持たせることの方が、罪なのだと、エリックは彼女が消えた扉を見つめながら自分に言い聞かせた。

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