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46.誇り高き死を
しおりを挟む血の臭いが濃くなる。
金属の朽ち行く強い錆の臭いが、私の心を蝕んでいくようだ。
雷が落ちたという、戦牛族の族長キガルスの下へ行くと――無数の黒い糸に巻かれて巨躯を横たえる空を飛ぶ蜥蜴と、その傍らに中腰で固まるキガルスがいた。
巨大な斧が地面に落ちている辺り、トカゲの首を刎ねようと振り上げたところで、腰をやってしまって取り落としたのだろう。
どうにか手を貸そうとしている戦牛族が遠巻きにキガルスを囲んでいるのは、貸したい手を本人が拒否しているせいか。
距離があってもわかるくらい、身体中から脂汗をだらだら流している。
相当痛いのだろう。
誰も彼も指一本触るなと言いたくなるくらい。
「……これは大変だ」
アーレ・エ・ラジャも言っていたが、私もぎっくり腰は経験がない。
どれほど痛いのかは、やった人の様子を見た上での想像でしか語れない。
私が見たことのある、ぎっくり腰をやった父上は、適切な処置をした後に、痛みを堪えながら仕事をしている姿だ。
で、これだ。
これは「ついさっきやった人」である。
本当にぴくりとも動かない。
なんなら、同じく動けないままで血を流し続けて確実に死んでいっているトカゲの方が、所在なさげに見えるくらいだ。
やるなら早くしろとまで思っていたりするかもしれない。
…………
血まみれでも神々しいな……その頭の輪はやっぱりアレなんだろうか。噂に聞いた天使のアレなんだろうか。
どう見ても神の使い……
いや、もう言うまい。
戦士もトカゲも命懸けで戦った結果だ。互いの生存競争の果てにこうなったのだから、相手が何者であろうと、なるべくしてなったことだと思うべきだろう。
たとえ本当に神でも、神の使いでも、襲い掛かってきたなら全力で抗いもするだろう。大人しく死ぬ理由なんてないからな。
神々しいトカゲから、ぴたりと止まったキガルスに視線を移す。
私が知っているぎっくり腰とは、なんというか、レベルが……いや、段階が違った。
やった直後ってこうなるのか。
怖いな……歴戦の戦士で身体中に傷跡を持つキガルスは、そこそこの痛みくらいならとっくに慣れているだろう。骨折くらいなら平気で動き回りそうだ。
そんな彼が、一切動けずにいるのだ。
いったいどれほど痛いのか。これは経験したくない。
どう声を掛けたものかと迷っていると、私を知っている誰かが「あ、レインだ!」と私の名を呼んだ。
「――本当だレインだ! おまえ来てたのか!」
「――あれがレインか!? ……レインって誰だ!?」
「――白蛇族のアーレの番だ! 森の向こうから来たっていう変わり者だ!」
「――向こうからか!? なんで来たんだ!?」
「――そこまでは知らん!」
「――あいつの作る飯はうまいぞ! 作らせよう!」
「――本当か!? ……で、あいつ誰だって?」
なんだか今はどうでもいい話も出ている気がするが、意外と私の認知度はあるようで、知っている者は多かった。
ならば話は早い。
「族長に針を刺してくれ!」
と、私を知る戦牛族が早くしろとばかりに私の腕を掴んで歩き出す。わかってるわかってる! 体格の違いが歩幅に出ているから落ち着け! 引きずるな!
「――族長! レインだ!」
ついさっき挨拶をしているので、キガルスは私のことはわかるはずだ。というか元々知っていたしな。
「こいつの針は痛みが止ま」
「――うるせぇ!」
キガルスは私たちに背を向けたまま、身じろぎ一つせず、怒鳴った。
「いてぇところに針ぶっ刺したらいてぇに決まってんだろぉがよぉ! 今俺に触ったら誰であってもぶっ飛ばすからなぁ! しゃべるだけでもいてぇんだよぉ! 言わせんなぁ馬鹿野郎がぁ!」
のんびりしていた口調が若干早口になるくらい、今は相当切羽詰まっているようだ。
「レイン」
どうしたものか、本人がここまで拒絶しているのなら……と迷う私に、私をここまで連れてきた戦牛族の男は無表情で言った。
「構わない。やれ」
「……いいのか?」
「おまえの針は痛くないと聞いてる。そうじゃなくても、族長をこのままにしておけない。早く休ませないと」
それは、まあ、そうだが。
いつまでも中腰でいるのもつらかろうし、この体勢は腰に負担も掛かっているはずだ。
それに、ここは狩場である。
これだけの戦士たちがいれば何があっても大丈夫だとは思うが、新たな魔獣が現れ襲い掛かってくる可能性も低くないはずだ。
狩りはもう終わった。
ならば速やかに撤収するべきだろう。
「キガルス。針を打つぞ」
わざわざ前に回り、キガルスを見上げて私が言うと、彼は滂沱の汗を流しながら心底焦ったような顔をする。
「やっ、やめろぉ! おまえは何が望みだぁ! 俺の持ち物ならなんでもくれてやるからぁ、俺に触るなぁ! 俺の腰に触るなぁ……!」
そんなにか。
持ち物の全てを渡してもいいほど痛いのか。
「私の望みは、あなたの腰に針を刺すことだ」
「やめろぉ! ……や、やめてくれぇ……! この戦牛族の族長キガルスが人前で泣いちまうぞぉ……!」
うん、まあ、もう半分泣いているけどね。
…………
よし、じゃあ刺すか。
針を刺してしばらくすると、キガルスは普通に身を起こした。
「本当に効くのかよ……なんにしろ助かったぜぇ。でもおまえ、レイン、おまえは許さねぇからなぁ。あれだけ嫌だと言ったのに刺しやがったなぁ」
若干恨まれた気がするが、ひとまず、痛み止めは効いてくれたようだ。
「普通なら半日くらい効くと思うけど、何分キガルスは大きいから……いつまでも効果があるかわからない。
だから、早めに移動してちゃんと治療した方がいい」
恨みがましく見下ろしているキガルスに言うと、彼は苦々しい表情で頷く。
「あぁ、動ける内に帰らねぇとなぁ」
そういうことだ。
あくまでも痛み止めは痛み止め、適切な治療は必要である。
「アーレぇ! ジータぁ!」
と、キガルスは白蛇族の族長を呼ぶ。
「俺の代わりに後を頼むぜぇ! あとしばらくそっちで世話になるからよぉ!」
ん?
「我らの集落に来るのか?」
「空を飛ぶ蜥蜴を仕留めろってか?」
歩み出てきたアーレとジータが、それぞれに疑問を口にする。
「おう。本当はレインを連れて俺たちの集落に帰りてぇが、この時期にレインを貸し出す気はねぇだろぉ。だから俺が行くぜぇ。しばらく俺の腰はレインに預けるからよぉ」
あ、そう。そういうことか。……私はキガルスの腰を預けられるのか。
「わかった。では先に行け」
「後のことはやっとくからよ」
まだトカゲの解体が終わっていないので、戦士たちはすぐには動けないのだ。
「おまえたちの集落で待ってるぜぇ――おい、誰か俺の嫁二、三人来るよう伝えてくれぇ」
そんなことを言いながら、キガルスは腰を摩りながらさっさと行ってしまった。……嫁の二、三人……彼にもたくさんの嫁がいるようだ。
そんなこんなで一悶着あったが、あっという間にキガルスが去り、改めて、空を飛ぶ蜥蜴と向き合う。
キガルスの代行として、アーレとジータが……いや、今回はジータがやるようだ。
「戦牛族のキガルスに代わり、白蛇族の族長ジータ・エ・ラジャがこの者の息の根を止める!
偉大なる戦牛神並びに蛇神の下、大いなる者に誇り高き死を!」
「「誇り高き死を!」」
高らかに宣言すると、戦士たちの返礼があり、――ジータは持っていた槍を空を飛ぶ蜥蜴の首に深々と突き刺した。
伏せられた空を飛ぶ蜥蜴の瞳が、一瞬カッと開かれ、青い瞳が輝く。
だがそれも一瞬で、命の輝きが消え昏く沈んでいくと……ゆっくりとまぶたを閉じた。
神が、あるいは神の使いが、死んだ。
それに呼応するように、空を飛ぶ蜥蜴の頭上に浮かんでいた光輪が、ゆっくりと空気に溶け込むように消えていった。
……死んだ。
こんな巨大な生物が、こんなにも強そうな命が、本当に、死んでしまった。
どんな者も死からは免れない。
そんなことはあたりまえで、知っていたはずだ。
しかし、こうして、とてもじゃないが簡単には死にそうにない者が目の前で死ぬと、強い実感が伴う。
言葉ではなく心で理解できた気がする。
数々の功績を遺した賢王であろうと、偉大な魔獣を狩った英雄や勇者であっても、ドラゴンであっても。
何者であっても、必ず、死ぬのだ、と。
「……ん?」
せめて祈りだけでも、死後安らかに眠れるようにと祈っていると……光のもやを見つけた。
もや、だよな?
輝く霧のような……一瞬だけ見れば目の錯覚にしか見えない、そんな不確かなものだ。
なんだろう。
空を飛ぶ蜥蜴の解体が始まった後……うーん……場所的に消えた光輪があったところだろうか。
光輪の、残滓……とでもいえばいいのか?
なんだか気になり、何気なく近づき、手を伸ばしてみる。
と――
「…………」
光のもやはゆっくりと私の方に流れてくると、手の中に吸い込まれるようにして、消えてしまった。
……今のはなんだったんだろう。悪い感じはしなかったから、怖くはなかったが……別段変化もないし……
…………
まあいいか。
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