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61.「特別じゃない一日にしたい」と夫は言った。
しおりを挟む誰に取っても、番の儀式は特別なものである。
相手が死別しようが別れようが、加護神カカラーナ様が番として祝福するのは、生涯一度きり。
何人嫁を取ろうとも、最初の一度きりである。
そんな話を、ついさっき夫になった男にすると――
「今日は特別じゃない一日にしたい」と夫は言った。
正直、柄にもなく朝から、己の女の部分がずっと騒いでいた。
いや、正確には準備の段階から。
ずっとずっと、己には存在しないと思っていた。
その辺の少女のように、恋に焦がれてただ一人の男を想い、胸がざわめく気持ちなんてないと思っていた。
だから。
「あ? 今なんと言った?」
ついさっき夫になった男の言葉に、私の中の少女が真顔になった。浮かれ浮かされていた気持ちが嘘のように醒めた。さっと。一瞬で。
一瞬で不機嫌になった――それこそ些細なことでケンカする恋人のようにヘソを曲げた私に、ついさっき夫になった男は。
「この特別な一日を、ずっと続けたい。ずっと続けば特別じゃない、ただの日常だ」
――何を言っているのかいまいちよくわからなかったが、この特別な一日が毎日続けばいいというのは、とても同意見だった。
この特別な一日が、ずっと続きますように。
この幸せな一日が、一日でも長く続きますように。
ついさっき妻になった私と、ついさっき夫になった男が、今日この時の気持ちのまま、明日も明後日も、一ヵ月も、一年も。
生涯続きますように。
前例のない、七組もの男女が参加した番の儀式は、つつがなく進行した。
集落の広場に集まった白蛇族と、よその集落から来た部族たちも、神聖なる儀式を静かに見守る。
基本的に、番を持ったら一人前と言われている。
新たな番となった七組十四人は、これから大人として扱われることになる。
ただ、本題はこれからである。
「――これより新たな族長を決める!」
皆が待っているのはこちらである。
番の儀式は、結局番になる男女の気持ちと族長の任命さえあれば、流れ作業である。
しかし、こちらは違う。
他人の番の儀式そっちのけで夫になったばかりのレインティエといちゃいちゃしていたアーレは、婆様の声に従い再び広場の中央にやってきた。
ついさっきまで少女であり新妻の顔をしていたアーレは、今はどこまでも凛々しい戦士の顔をしている。
「――此度は、戦牛族の族長キガルスの息子にして、次の戦牛族の族長と決まっている戦士ルスリスが立ち合う!」
婆様の声に従い、大柄な戦牛族の男がアーレの前に立った。
現族長キガルスの息子ルスリス。
キガルスほどの巨体ではないが、それでも戦牛族では大柄である。それ以外の部族からしたら見上げるほどの巨漢だ。
アーレが然して体格が良いわけではないだけに、体格差が恐ろしい。
見ただけなら、大人と子供のようだ。
「――戦士アーレよ。戦士ルスリスが認めぬなら、おまえは族長にはなれん。いいな?」
「――ああ」
族長としての力を示す。
白蛇族にはもう示したが、今度はよその部族に示す必要がある。
弱い族長は舐められる。
族長が舐められれば、部族全部が舐められる。
困った時に協力要請に応じなくなったり、交友が途切れたり、ひどいものになると隷属の対象にさえなってしまう。
族長は部族の力の象徴。
よその部族に認められないようでは、話にならないのだ。
もっと言うと、これで恥を掻くようなら、白蛇族の先が危うい。
誰もが注目するのは、この辺の理由からである。
「――親父が謝ってたよ。この場で戦う約束をしてたんだろ?」
と、固唾を飲んで二人を見守る周囲には聞こえない声で、ルスリスが言う。
「ああ、していた。キガルスはやはり身体が悪いのか?」
「歳のせいもあるんだろうな。夏に腰をやって以来、もう狩りにも出てない」
「惜しいな。あれだけの戦士はどこにもいないのに」
「安心しろ。東の大地に知らぬ者はいない戦士キガルスの跡は、俺が継ぐ」
「そうしろ。……先は長そうだが」
「なんだと」
そんな舌戦をしていると、二人の会話に区切りがついたのを察した婆様が叫んだ。
「――始めよ!」
アーレが。
ルスリスが。
拳を固めて殴り掛かる。
戦士アーレと戦士ルスリスの殴り合いは、とてつもなく盛り上がった。
何十発も殴り合い、殴ったり殴られたりするたびに周囲から声があがる。
血の気の多い者が多いだけに、酒を欲しがる者がたくさんいたが……これはただの殴り合いではなく儀式の一環なので、さすがに酒は出せない。
「――ぐうっ……!」
下がった上半身、顎をかち上げるアーレ渾身の蹴りが入ると、ようやくルスリスは膝を折った。
「――そこまで!」
いいところで婆様が止めた。
これ以上は族長を決める腕試しではなく、ただのケンカか殺し合いになってしまう。
戦牛族の次期族長ルスリスも、その辺のことは理解している。
これは勝ち負けではなく、認められるかどうか。
この体格差で膝を着いた以上、確かにここまでだとルスリスも思う。
いいところで止めたと思う
「――戦牛族は、アーレを族長と認める!」
ルスリスが大声で宣言すると、この日一番の歓声が上がった。
今日この時より、白蛇族の新族長アーレが誕生したのだった。
無事に儀式が終わり、ようやく宴に入った。
酒が回る。
特別に用意した料理が出る。
番の儀式が行われた後の宴は、未婚の男女の出会いの場でもある。
花嫁は花冠だが、未婚の女は草冠を頭に載せるのだ。
よその部族の者が顔を出しているのも、婿や嫁を探しに来たという者も多い。
「久しぶりだな。俺を覚えているか?」
「あ、うん。さすがに」
花嫁ではあるが、新族長にもなってしまったアーレは、戦士たちに誘われて酒を呑みに行った。
そして族長の婿だが、嫁としての仕事をこなすことになるレインティエは、仕込んだ料理の準備をしようとしていた。
その最中だった。
「まさか今日、番になるとはな」
レインティエに声を掛けてきたのは、大狩猟の宴で会った、男前の青猫族の青年である。
牛すじシチューもどきを気に入って、何杯もおかわりした、あの時の男だ。
「あの時の汁が忘れられなくて食いに来た」
そんなに気に入ったのか。
「悪いが、今日は作ってないんだ」
「……えっ」
準備に追われ、空いた時間に土塊魚ことナマズをさばいたり骨を処理したりと下準備で精一杯だった。
だから、今日はもう焼くだけで終わりだ。数もそんなに多くない。
「じゃあ俺は何をしに来たんだ……」
「いや……なんか、すまない」
青年は愕然としている。
男前なだけに余計に悲しげに見える。
だが、何を言われても、ないものはない。所望している物は出せない。
「これから魚を焼くから、よかったら食べていってくれ」
「魚? ……魚は骨があるから好きじゃない」
魚というだけで、それも土臭い土塊魚だということでかなり敬遠されたが、炭火で炙られ立ち昇るナマズの脂とソースの匂いが立ち込めると、興味を持った者たちがぱらぱらと寄ってきて、あっという間になくなった。
「――おまえを俺の妹の婿に欲しかった。青猫族に来ればよかったのに」
ナマズの蒲焼も気に入った青猫族の青年は、本当に悔しそうにそう言って帰った。
それからもアーレは族長として酒を呑み、レインティエは女の仕事をこなし続けた。
番になったばかりの新婚は自分たちの世界に浸っているが、アーレとレインティエは違う。
それぞれの立場があることをよく理解し、務めを果たした。
そして、夕方。
レインティエが言った通り、空の彼方がアーレの瞳のように金色に染まる頃。
「迎えにきたぞ、婿殿。帰ろう」
かなり呑んだらしいアーレが、赤ら顔で足元も覚束ない様子で、鍋や食器の後片付けをしていたレインティエの下にやってきた。
「ああ、もう少しで終わる――」
と言いかけたところで、手に持っていた鍋を、近くの女に取られた。
「早く行きな」
「婿さん、あんた今日番になったこと忘れたの?」
追い出されるように送り出され、レインティエはアーレの手を取って歩き出す。
陽が落ちる。
料理もなくなり、宴も終わりに近づきつつある。広場に人はめっきり減ったし、うるさいくらいだった喧騒も太鼓の音も鳴り止んでいる。
「大丈夫か?」
「うーん……さすがに呑み過ぎたな」
「どれだけ呑んだか気になるけど、怪我が治っていることの方が驚く」
昼、戦士ルスリスと派手な殴り合いをしたのに、今では痕跡は残っていない。痣さえ残っていない。
治りが早いとは思っていたが、これはさすがに早すぎる。
「我らの怪我は酒で治るからな」
「そんな馬鹿な。……とも言いづらいな」
腹に風穴を開けた戦士が、食事の代わりに酒を呑んで全快したという、信じられない現象が起こったこともある。
そんな馬鹿な、としか思えないが。
あながち嘘とも言い切れないところがある。
「なあレイン。婿殿」
「ん?」
「今日、ナナカナはタタララの家に泊まる。帰ってこない」
握っているアーレの手に、少し力がこもる。
「これから初夜だ」
「うん」
「今度はちゃんと抱くからな」
今度は。
宣言して事に至れなかった、大狩猟の時のことだろう。
「さすがに今日くらいは、男としてあなたを抱きたいんだが」
「ダメだ。族長である我がおまえを抱くんだ」
アーレにとって、今日は、問題が片付いためでたい日だった。
集落の問題が片付いた。
男の戦士たちは、共に酒を呑めば和解と同じだ。酒に強いのも族長の務め、勧められて断らず呑み過ぎた、というのが真相だ。
新たな族長にも認められた。
これで周囲の部族に舐められることはないだろう。
あとは――好きな男と番になれた。
「番の儀式は生涯一度きりだ。おまえが我の番でよかった」
こんなに好い日など、生涯何度あるだろうか。
「我にとって、今日は特別な日だ」
手から伝わるレインティエの体温が、泣きそうになるほど優しくて嬉しい。
が――
「私は、今日は特別じゃない一日にしたい」
「……あ? 今なんと言った?」
ぎりぎりと、思わずレインティエの手を握り締める。
この日を特別と言わずなんと言う、それともおまえにとってはどうでもいい一日だったのか――と。
問い詰めてやるつもりだったが、ちょっと痛そうな顔をしてレインティエは言った。
「この特別な一日を、ずっと続けたい。ずっと続けば特別じゃない、ただの日常だ」
…………
「……うん」
なんだかよくわからなかったが、アーレは頷いた。たぶん悪いことは言っていないだろう、レインが言うことだし、と。
アーレの瞳のようだった空は、あっという間に暗くなった。
しかしその夜、レインティエはずっと、夕陽のようなアーレの瞳を見詰めていた。
酒に酔い、理性と本能が混ざりあい。
二人の体温で、青い指輪が色を変える。
特別な一日が、明日へと溶けていく。
明日もまた、特別の続きになるように。
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