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蔵上草哉
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「あ。このヘッドフォン、俺も使ってるんですよ。おそろいですね」
「そ、そうなの?ここの、使いやすいよね」
理恵子の使っているヘッドフォンを見て、蔵上が嬉しそうに声を上げる。
不意打ちの至近距離とイケボに、思わず声が上ずった。
(びっくりした。相変わらず肌が綺麗で睫毛長いな、羨ましい)
蔵上草哉。27歳。職業は食品関係の仕事をしていると聞いたことがあるが、詳しくは知らない。
彼がサークルに入ってきて6年。
今までスタジオ収録の時に顔を合わせるくらいで、飲み会にも参加したことがなかったので、じっくり話したことはなかったが、彼が優しい人だということは知っている。
夫が亡くなったばかりの1年前、初めての喪主や環境の変化など疲れが出たのか、スタジオで収録中にひどい片頭痛で立てなくなり、ソファで休んでいたことがあった。
その時、他の若い女性声優たちは、収録を止めた理恵子に陰口を言っていたが、唯一、蔵上は寝込んでいた理恵子に水と鎮痛薬を差し入れてくれたのだ。
それ以来、何かと気にかけて優しくしてくれる蔵上には、好感を持っていた。
数年前のある出来事のせいで年下男子が苦手だったが、おかげで蔵上とは普通に話すことが出来る。
(でも、急に話しかけられると未だにドキドキしちゃうんだよね。この声は本当に心臓に悪い)
蔵上は端正な顔立ちもさることながら、その低くて色気のある声が人気の声優だ。
いくら6年も一緒に仕事をしているとはいえ、近くで聞くと未だにドキドキしてしまうのは仕方のないことだと思う。
トイレ休憩で蔵上が部屋を出ていくと、舞は声を潜めて理恵子に言った。
「ごめんね、理恵ちゃん。急に蔵上君を連れてきたから驚いたでしょ。嫌じゃなかった?」
確かに、誰かと収録するときは自宅ではなくスタジオを使う。
スタジオには自宅では用意できない機材もそろっているし、何よりそっちの方が声が綺麗に録音できるからだ。
なのに、舞は初めてここに誰かを連れてきた。よっぽど切羽詰まっていたのだろう。
理恵子の年下男子嫌いの原因を知っている舞が、心配そうに聞いたので首を横に振った。
「大丈夫。蔵上君、礼儀正しくて優しいから、全然嫌じゃないよ。演技が上手くて安心して絡めるし、表裏がなさそうだからあんまり緊張しないんだよね」
表ではニコニコしているくせに、裏では思いっきり悪口を言う人を何人も見てきた。
蔵上はそういう人たちと一緒に悪口を言ったりしない。
それだけで安心できた。
「…裏表がなさそう、ねぇ。私から見たらオセロみたいにわかりやすいけど。まぁ、理恵ちゃんに対して悪意がないのは確かね」
「オセロ?」
意味がわからず聞き返すが、次の舞の言葉で、そんなことはすぐに吹っ飛んだ。
「それより菜穂ちゃんから聞いたんだけど、昨日、『化け狸』が来たって本当?」
「っ」
『化け狸』とは、舞がつけた義母のあだ名だ。
嫁からお金を奪っても罪悪感を感じない妖怪じみた無神経さと、見た目が狸に似ていることからつけたあだ名らしい。
夫が亡くなってから心配して頻繁に家に来てくれる舞は、義母と鉢合わせたことが何度もある。
その際、いつものように理恵子に金を無心する義母を見て、『帰ってください!理恵ちゃんはあなたのATMじゃない!』と怒鳴ってくれたことがある。
結果は変わらなかったが、舞の気持ちが嬉しかった。
だがそれ以来心配をかけたくなくて、義母の訪問は隠すことにしたのに、まさか菜穂から聞いているとは。
「…うん。でも、何も渡してないよ」
それは事実だ。渡すように約束はさせられたが。
「幸助君には相談したの?」
幸助とは、信也の弟であり、理恵子にとって義理の弟だ。
「うーん。幸助君、今、奥さんが妊娠中で大変でょ?だからあんまり手を煩わせたくなくて」
「何言ってんの!婿に行ったとはいえ、幸助君の親なんだから、幸助君がやるべき!理恵ちゃんは血のつながりがないんだから、あの人のわがままに付き合うことないんだよ!」
「でも、長男の嫁も「扶養義務」はあるから」
「それ以上のものを要求されているくせに何言ってんの!」
5年前に結婚した幸助は、相手が農家の一人娘ということもあり、婿養子に入って家を出た。
元々義母との仲が悪かった幸助は、家にいた頃から喧嘩が絶えなかったらしい。
それでも信也だけに義母を負担させるわけにはいかないと、義母の生活費は折半してくれた。
信也が亡くなってからも、義母の家の近くに暮らす理恵子だけに負担をかけているのでは、と気にして連絡をくれるが、彼には彼の家庭があるのであまり手を煩わせたくない。
だから昨日のような出来事は、幸助には相談できずにいた。
「理恵ちゃんってさ、再婚する気はないの?」
「げほっ!ごほっ…なに、突然」
舞の言葉に驚いて、飲んでいた水が変なところに入って咳き込んでしまう。
慌てて、舞が渡してくれたティッシュで口元をぬぐった。
「だって、許せないじゃない!いつまでも、あの化け狸にお金むしり取られるなんて。だったらあの人と縁を切って、再婚すればもうあの人が絡んでくることはなくなるだろうし。子持ちが恋をしちゃいけない理由なんかないでしょ?」
そんなに単純な話ではないが、舞が心配して言ってくれているのはわかる。
「恋なんて…私は菜穂が居ればそれでいいよ。今はそんなの考えられない」
それは本心だ。
今は仕事と子育てで精いっぱいで、恋なんかしている余裕なんてない。
それに、義母の事が解決していないのに、そんな逃げるような恋愛なんて相手に失礼だ。相手なんていないけど。
理恵子の答えに納得がいかないのか、舞が何かいいたそうに口を開いたその時、ガチャリとドアが開いてトイレに行っていた蔵上が戻ってきた。
「木山さん。トイレの電球が切れちゃったんですけど、替えってありますか?」
「え?うそ、ごめん!替えは棚にあるんだけど…ちょっと待ってね」
慌てて部屋を出て玄関横の棚から、新品の電球が入った箱を取り出す。
理恵子の身長ではトイレの天井までは届かないので、踏み台も一緒に持ってトイレに行こうとした時、横から電球を奪われた。
「俺がつけますよ。俺なら台がなくても届くので」
確かに、180センチ後半ほどありそうな長身の彼ならば、台がなくても届くとは思うが、たまたま家に来ているだけのお客様にそんなことをさせるわけにはいかない。
「悪いよそんなの」
だが蔵上はスタスタとトイレに向かい、あっという間に電球を付け替えてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。他に困ってることがあったら何でも言ってくださいね」
(う。優しすぎる…)
にっこりとほほ笑んだ顔に、不覚にもドキリとしてしまう。
駄目だ。いくら男慣れしていないからって、ちょっと優しくされたらドキドキしてしまうのはよくない。
『子持ちが恋をしちゃいけない理由なんかないでしょ?』
舞の言葉が頭に浮かんで、慌てて頭を横に振った。
(いやいや!こんなおばさんに好意を持たれたって、蔵上君は迷惑するに決まってるから!)
理恵子は火照った顔をごまかすように、頬に手を当てた。
「そ、そうなの?ここの、使いやすいよね」
理恵子の使っているヘッドフォンを見て、蔵上が嬉しそうに声を上げる。
不意打ちの至近距離とイケボに、思わず声が上ずった。
(びっくりした。相変わらず肌が綺麗で睫毛長いな、羨ましい)
蔵上草哉。27歳。職業は食品関係の仕事をしていると聞いたことがあるが、詳しくは知らない。
彼がサークルに入ってきて6年。
今までスタジオ収録の時に顔を合わせるくらいで、飲み会にも参加したことがなかったので、じっくり話したことはなかったが、彼が優しい人だということは知っている。
夫が亡くなったばかりの1年前、初めての喪主や環境の変化など疲れが出たのか、スタジオで収録中にひどい片頭痛で立てなくなり、ソファで休んでいたことがあった。
その時、他の若い女性声優たちは、収録を止めた理恵子に陰口を言っていたが、唯一、蔵上は寝込んでいた理恵子に水と鎮痛薬を差し入れてくれたのだ。
それ以来、何かと気にかけて優しくしてくれる蔵上には、好感を持っていた。
数年前のある出来事のせいで年下男子が苦手だったが、おかげで蔵上とは普通に話すことが出来る。
(でも、急に話しかけられると未だにドキドキしちゃうんだよね。この声は本当に心臓に悪い)
蔵上は端正な顔立ちもさることながら、その低くて色気のある声が人気の声優だ。
いくら6年も一緒に仕事をしているとはいえ、近くで聞くと未だにドキドキしてしまうのは仕方のないことだと思う。
トイレ休憩で蔵上が部屋を出ていくと、舞は声を潜めて理恵子に言った。
「ごめんね、理恵ちゃん。急に蔵上君を連れてきたから驚いたでしょ。嫌じゃなかった?」
確かに、誰かと収録するときは自宅ではなくスタジオを使う。
スタジオには自宅では用意できない機材もそろっているし、何よりそっちの方が声が綺麗に録音できるからだ。
なのに、舞は初めてここに誰かを連れてきた。よっぽど切羽詰まっていたのだろう。
理恵子の年下男子嫌いの原因を知っている舞が、心配そうに聞いたので首を横に振った。
「大丈夫。蔵上君、礼儀正しくて優しいから、全然嫌じゃないよ。演技が上手くて安心して絡めるし、表裏がなさそうだからあんまり緊張しないんだよね」
表ではニコニコしているくせに、裏では思いっきり悪口を言う人を何人も見てきた。
蔵上はそういう人たちと一緒に悪口を言ったりしない。
それだけで安心できた。
「…裏表がなさそう、ねぇ。私から見たらオセロみたいにわかりやすいけど。まぁ、理恵ちゃんに対して悪意がないのは確かね」
「オセロ?」
意味がわからず聞き返すが、次の舞の言葉で、そんなことはすぐに吹っ飛んだ。
「それより菜穂ちゃんから聞いたんだけど、昨日、『化け狸』が来たって本当?」
「っ」
『化け狸』とは、舞がつけた義母のあだ名だ。
嫁からお金を奪っても罪悪感を感じない妖怪じみた無神経さと、見た目が狸に似ていることからつけたあだ名らしい。
夫が亡くなってから心配して頻繁に家に来てくれる舞は、義母と鉢合わせたことが何度もある。
その際、いつものように理恵子に金を無心する義母を見て、『帰ってください!理恵ちゃんはあなたのATMじゃない!』と怒鳴ってくれたことがある。
結果は変わらなかったが、舞の気持ちが嬉しかった。
だがそれ以来心配をかけたくなくて、義母の訪問は隠すことにしたのに、まさか菜穂から聞いているとは。
「…うん。でも、何も渡してないよ」
それは事実だ。渡すように約束はさせられたが。
「幸助君には相談したの?」
幸助とは、信也の弟であり、理恵子にとって義理の弟だ。
「うーん。幸助君、今、奥さんが妊娠中で大変でょ?だからあんまり手を煩わせたくなくて」
「何言ってんの!婿に行ったとはいえ、幸助君の親なんだから、幸助君がやるべき!理恵ちゃんは血のつながりがないんだから、あの人のわがままに付き合うことないんだよ!」
「でも、長男の嫁も「扶養義務」はあるから」
「それ以上のものを要求されているくせに何言ってんの!」
5年前に結婚した幸助は、相手が農家の一人娘ということもあり、婿養子に入って家を出た。
元々義母との仲が悪かった幸助は、家にいた頃から喧嘩が絶えなかったらしい。
それでも信也だけに義母を負担させるわけにはいかないと、義母の生活費は折半してくれた。
信也が亡くなってからも、義母の家の近くに暮らす理恵子だけに負担をかけているのでは、と気にして連絡をくれるが、彼には彼の家庭があるのであまり手を煩わせたくない。
だから昨日のような出来事は、幸助には相談できずにいた。
「理恵ちゃんってさ、再婚する気はないの?」
「げほっ!ごほっ…なに、突然」
舞の言葉に驚いて、飲んでいた水が変なところに入って咳き込んでしまう。
慌てて、舞が渡してくれたティッシュで口元をぬぐった。
「だって、許せないじゃない!いつまでも、あの化け狸にお金むしり取られるなんて。だったらあの人と縁を切って、再婚すればもうあの人が絡んでくることはなくなるだろうし。子持ちが恋をしちゃいけない理由なんかないでしょ?」
そんなに単純な話ではないが、舞が心配して言ってくれているのはわかる。
「恋なんて…私は菜穂が居ればそれでいいよ。今はそんなの考えられない」
それは本心だ。
今は仕事と子育てで精いっぱいで、恋なんかしている余裕なんてない。
それに、義母の事が解決していないのに、そんな逃げるような恋愛なんて相手に失礼だ。相手なんていないけど。
理恵子の答えに納得がいかないのか、舞が何かいいたそうに口を開いたその時、ガチャリとドアが開いてトイレに行っていた蔵上が戻ってきた。
「木山さん。トイレの電球が切れちゃったんですけど、替えってありますか?」
「え?うそ、ごめん!替えは棚にあるんだけど…ちょっと待ってね」
慌てて部屋を出て玄関横の棚から、新品の電球が入った箱を取り出す。
理恵子の身長ではトイレの天井までは届かないので、踏み台も一緒に持ってトイレに行こうとした時、横から電球を奪われた。
「俺がつけますよ。俺なら台がなくても届くので」
確かに、180センチ後半ほどありそうな長身の彼ならば、台がなくても届くとは思うが、たまたま家に来ているだけのお客様にそんなことをさせるわけにはいかない。
「悪いよそんなの」
だが蔵上はスタスタとトイレに向かい、あっという間に電球を付け替えてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。他に困ってることがあったら何でも言ってくださいね」
(う。優しすぎる…)
にっこりとほほ笑んだ顔に、不覚にもドキリとしてしまう。
駄目だ。いくら男慣れしていないからって、ちょっと優しくされたらドキドキしてしまうのはよくない。
『子持ちが恋をしちゃいけない理由なんかないでしょ?』
舞の言葉が頭に浮かんで、慌てて頭を横に振った。
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