異世界恋愛短編集

辺野夏子

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「わああああああ」

 ジルが錯乱する様子を、ヴァレリアは地上で、腰に手をあて、わずかに胸をそらせて見上げていた。その表情はどこか、楽しげであった。

「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ。何がなんでもダメだ」

 ジルは、今まで積み上げた物語の束を、バラバラにして下界へ放り投げた。

「これも、あれも、とにかく全部がダメだ。何かが違う。俺が求めてるのは、こういうのじゃないんだよっ」

 ジルは雲の上で暴れ回る。

「ジル様が人生に悩まれるのは勝手ですけれど……」

 ヴァレリアの、年の割にはハスキーな声が、雲の上に響いた。

「あなたのせいで、わたくしの人生がめちゃくちゃですわ」

「うっ」
「どうしてくれますの?この状況」

 これではどちらが「悪役」か分かりませんわね、とヴァレリアはジルにいたずらっぽい視線を向けた。まるで掌の上で転がされているようだ、とジルは思う。

「ううっ……」
「説明を。あと、責任を取ってくださいませ」


「あー、もう。この世界はお前にやる。勝手にしろ」


 ジルはすべてを投げ出すことにした。
 不貞腐れたジルは、雲の上にうつ伏せに寝転がった。背中の羽が邪魔だからだ。

 寝転がったジルの視界に、泥で汚れたヴァレリアのスカートの裾がはためいているのが見えた。

 彼女はこの、水色のドレスを好んで着ていた。脚本が変わっても、大体いつも同じ服を着ていた。

「わかりましたわ。「終わり」なのですね?」
「ああ」

 ヴァレリアは、もう一度「本当にこの世界を自分にくれるのか」と念を押した。ジルは、投げやりに頷いた。


「それでは」

 ヴァレリアは、寝転がったジルの首根っこを掴んで、背中に生えていた白い羽をもぎ取った。

「何してんだお前!?」

 ジルは叫んだ。痛みはない。千切れた羽は、白い鳩に変化して青空へ飛び立っていった。

「悪役」の務めを果たそうかと思いまして。ヴァレリアは事もなげに、そう言った。そしてもう片方の羽も取ってしまった。

「地上では、邪魔になるだけですわ」

 ヴァレリアは、呆然としているジルの脇に腕を差し込み、彼を羽交い締めにして雲のふちまで運んできた。

「俺をどうするつもりだ?」

 ジルは、ヴァレリアに問うた。

 今なら裁きの雷で、ヴァレリアを焼き尽くすことができる。しかし、今更そんなみみっちい事をするぐらいなら、世界ごと真っ二つにした方がましと言うものであるし、そんな事をした後、自分がどうなるのかと言う事は、皆目見当がつかないとジルは考えた。

「ジル様には、これから堕天使になっていただきます」

 世界はわたくしのもの。

 そう呟き、ヴァレリアはジルを抱えたまま雲の上から飛び降りた。

 二人はゆっくりと落下していく。二人を取り囲むように、バラバラになった物語の破片がひらひらと飛んでいく。

「覚えていらっしゃいます?」

「……何を?」

「私がやり遂げたら、なんでも好きなものをくださると」

「ああ」

「ミケーレ様、今までで1番素晴らしい男性でしたけれど……どこかに吹き飛んでしまいましたから、もう誰か他の女の子が、喜び勇んで介抱している頃でしょうね」

「悪かったよ」
「それだけですか?」

 ヴァレリアの、よく手入れされた長い髪が、ジルの頬をくすぐった。

「……お前が、よその男と幸せになるのが嫌だったんだよ」
「天使にあるまじき、悪魔的発想ですわね」

 ヴァレリアは、ジルの首筋に顔を埋めた。彼女がいつも好んで身につけていた、梔子の香りがジルの肺を満たす。

「……悪かったよ」
「許して差し上げます。わたくしもちょっと、意地悪をしましたから」

 ヴァレリアは背後から手を伸ばし、ジルの顔に触れた。ぺたぺたと、唇や、鼻梁や、額に触れ、最後に彼の目を覆った。

 ジルは瞳を閉じる。闇の中で、ごうごうと吹き荒ぶ風の中で、ヴァレリアの鼓動に耳を傾けた。


 二人はゆっくりと落下していき、雲の上からは見えなくなってしまった。


 そうして天使はいなくなり、しばらくの時が流れた。


「はあ、この忘れ去られた世界を管理しろ、なんて主も無茶なことを言いなさる」

 新しい天使はぶつぶつと、雲の上から下界を眺めた。

「なんだ。思ったよりずっと、平和でいい感じじゃないか」

 天使はほっと胸をなでおろし、しばらく観察を続けた。

「あんたたち、悪い子になるとヴァレリアがやってくるよ!」
「きゃー!」

 母親にどやされた子供達が石畳の上を駆けて行った。

 天使は「ヴァレリア」とは何か、と思ったが雲の上はしっちゃかめっちゃかで、特に手掛かりになるようなものは何もなかったため、仕方なく地上に降り、近くにいた男に話を聞くことにした。背が高く、肌が浅黒く、遊び人の雰囲気があるが、目に知性の光が宿っている。

「もし、そこの方」
「どうしました?」

「つかぬことをお伺いしますが『ヴァレリア』とは何者ですか?私はこちらに来てまだ日が浅いもので……」

「『ヴァレリア』は男を堕落させる、恐るべき悪役令嬢です」
「はあ」

 男は天使に対し、いろいろな話を聞かせた。自分の曽祖父は、ヴァレリアの呼び寄せた嵐に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになっているところを曽祖母に助けられ、恋に落ちたのだとか、そんなとりとめのない話だ。

「なんと言っても、ヴァレリアの1番恐ろしいところは」

 男は天使の耳元で、周囲の様子を伺うように、そっと囁いた。

「天使を天上から引きずり落とし、堕天使にしてしまったのです。こんな恐ろしいこと、ありますか?」

「はあ」

 天使は生返事をした。「先任」はヴァレリアに地上へ引きずり落とされたのだと、容易に想像できた。

 彼はあたりを見渡したが、天使も、悪役令嬢も、どこにもいないのであった。

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