女ふたり、となり暮らし。

辺野夏子

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 あたしはまさしく諏訪部さんであり、フルネームは諏訪部京子である。隣部屋のキッチンの小窓がかすかに開いている。おそらく声の発生源は「そこ」だろう。先ほどの悪態が彼女に聞こえていないことを願うばかりである。

「はい、諏訪部です」

 とっさに事務的な返事をすると、小窓から人の気配が消えた。隣室のドアがかすかに開き、隣人がひょこっと顔をのぞかせた。女性専用マンションなのだから、彼女もまた一人住まいの女性である。

 ただ一つ普通と違うのは、彼女が近所の高校に通う女子高生であること。これであたしが男子学生であれば、ラブロマンスのひとつやふたつ期待してしまうところだが、女同士、特に何も起きず、廊下で会えば会釈をする程度の関係である。

「笠音さん、どうしました?」

 別に不機嫌なわけではないのだぜ、と女子高生もとい隣人の笠音嬢に笑顔を向ける。笠の音、でカサネ。おしゃれな名字である。まあ諏訪部もかっこいい名字ではあると思うが。

「あのですね、えっと」

 何やらもごもごと喋っているが、聞き取れない。まあ、この年頃の女の子が赤の他人、それも大人に話しかけるのは結構な勇気が必要であろう。

 それにしても、一体何の用事なのだろう。部屋に食事時に名前を言ってはいけない招かれざる来訪者が現れでもしたのだろうか。このマンションはきれいに掃除されているけれど、時折段ボールなどに潜んで乙女の園に侵入してくる「ヤツ」がいるのだ。そうならば、おねーさんが手を貸してやらんこともないですよ、と引っ越しの時に挨拶を交わした彼女のお父さんを思い出す。お近づきのしるしに、とそばとタオルをくれたのでその分の働きをすることはやぶさかではない。

「そのう、いきなりこんな事を提案するのは自分でも変だと理解してはいるんですが……」

 さてさて、いったい謎の女子校生、笠音は何を伝えたいのか。

 隣人はそっと目を伏せたので、あたしは彼女の長いまつげが影を作るのをじっと観察した。頬がつるっとしていて、ニキビ一つ見当たらない。

  彼女と会話をするのは、去年の春、入居しますと挨拶にやってきた時。その次は昨年秋の超大型台風でベランダの仕切りが吹き飛んで以来である。

 首都圏を襲った猛烈な台風は電車を止め、会社を休業させ、550円のビニール傘を破壊し、木々の枝をへし折り、ついでにベランダの仕切りを吹き飛ばしていった。有事の際はこの扉を蹴破って隣に避難とは言うけれど、本当に簡単に壊れるのだなと感心してしまったのは記憶に新しい。

 大家さんに電話したはいいものの、うちが損害を被っているとき、ほかの人々もとんでもない目にあっているのは考えるまでもない事であった。

 屋根が飛ぶ、雨漏りする、ガラスが割れる。

 まずはそのような、甚大な損害を被っている家庭が優先される。その結果なかなか大家さんを通した工務店の都合がつかず、とは言っても自分がわざわざ修繕のために有休を取りたいかと言われるとそうでもなく。

 ようやく予定が整ったかと思えば、職人さんが怪我をしたり自分がインフルエンザになったりと延期に次ぐ延期になってしまい、冬の間はあまりベランダに行かないし……。との大義名分もあり、ずるずると引き延ばし、つい先日やっと工事のめどが立ったばかりであった。

「あっ、もしかしてベランダの!? ごめんなさい、色々あって。でもちゃんと直しますから」

 その可能性に思い当たり、慌てて言い訳を口にする。

 とうとう「お前、いい加減にせえよ、こっちはプライベートゾーンを侵害されてんねん。それでもいいトシした社会人かオラ」とクレームを言われるのかと戦慄する。

 ベランダの仕切りはプラスチックの板をボルトではめる方式であり、そのボルト部分はあたしの部屋側にあるので、工事の時はこちらが立ち会わねばならなかったのだ。つまり向こうは修繕されないベランダを見て悶々とした日々を過ごしていたわけで、彼女が不満を持つのは当然のことだ。

「あっ、ベランダは関係ないです。別にいつでもいいです。むしろ広くなったみたいで丁度良かったので。それは違います」

 女子高生はあたしと同じぐらいの慌てぶりで否定を繰り返した。

「え、じゃあ何が?」

 違うならなんだ? やっぱり虫? それとも不審者? もしかして、何かの勧誘だったらどうしようと心持ち半歩後ろに下がりたくなる。そういえば、お昼に先輩の子供(といっても大学生)が詐欺にあったと話を聞いたばかりだった。

 少女はもじもじとしながらも、こちらを見上げてきた。なんとも可愛らしい。造作の良さと若さからくる輝きがダブルでまぶしい。部屋に帰って鏡を見たら、蛍光灯に照らされた自分の顔にショックを受けてしまうかもしれない。

 彼女はためらいがちに口を開いた。

「豚の角煮……はお好きですか?」
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