女ふたり、となり暮らし。

辺野夏子

文字の大きさ
上 下
6 / 44

6

しおりを挟む
 ずずず、と緑茶をすする音がいやに響く。お茶を飲み始めると、会話がなくなってしまったのだ。笠音百合は今、何を考えているのだろう。どこか遠い目をして緑茶を飲む彼女は帰るタイミングを探しあぐねているのか、それともくつろいでいるのか、いまいち判断に困る。気まずくはない……と思いたい。

 今更ながらテレビの電源をつけると、芸能人のお宅訪問だった。女優さんって、本当の本当にスーパーに行ったりお弁当を作ったりするのかしらと、この手の番組を見る度に懐疑的になってしまう。画面に冷蔵庫が映り、そこであたしはようやくデザートの事を思い出した。

「みかんゼリーあるよ。食べる?」

 百合はテレビを見つめたまま、かすかに頷いた。この様子だと、居心地は悪くなく、満腹でぼーっとしているだけみたいだ。

 みかんゼリー。その名の通り、缶詰にゼラチンを溶かして固めただけのお手軽デザートである。市販品もスーパーで買えば百円以下ではあるのだが、具の量が違う。平たい食品保存容器に流し固めたものを、大きめのスプーンでざくざくと切り分けるのが、手応え満点って感じでなかなかに楽しいのだ。

「手作りですか。給食のゼリーみたいですね」
「そう。あれは多分、寒天だけどね」

 テレビでは、女優が子供のためにキャラ弁を作っていた。あたしが幼稚園の頃はここまで凝ったものは存在しなかった……と思うので、これもインターネットの功罪だな。毎朝こんな大変な支度をしなきゃいけないなんて、想像しただけで大変だ。

「普段、どんな料理をしますか?」
 ゼリーを食べていると、ふいに百合が尋ねてきた。「得意料理はなに?」「肉じゃがかな」という、ありそうで実はめったにな会話テンプレートが頭をよぎる。
「得意……うーん。大体なんでも、人並みには作れる、あー、でも、魚は切り身しか買わないかな。揚げ物はよくやるよ」
「揚げ物、大変じゃないですか?」

 彼女は意外そうだった。少量ではコスパが悪いし、第一危ない。それは間違いないが、あたしはファミレスのキッチンでのアルバイト経験があるので、揚げ物に全く恐れを抱いていない。これも訓練のなせる技ということね。アルバイト経験がなかったら、おそらく全く料理の出来ない女になっていた自信がある。

「やったことないです……」
「無理にする必要はないよ。格好をつけたけれど、大体は冷凍のフライドポテトを買ってきて揚げるだけ。あとはかき揚げ、唐揚げとか。そのくらい」
「家で食べるんですか?」
 
 彼女は業務用のフライドポテトの大袋が存在することを知らない様子だった。女子高生にとってフライドポテトは簡単に作れそうであるがご家庭では出てこない、すでに完成された何かなのだ。


「百合ちゃんは……料理はけっこうするの?」
「はい」

 ここは単身者用のマンションだ。彼女は尋ねるまでもなくこの年齢で一人暮らしをし、エプロンをつけて豚の角煮を作っているのである。無意味な質問だったが、会話は続く。

 「基本的には毎日します。食材を買ってしまうと、悪くなる前に使い切らなきゃと思って、休むタイミングがわからなくて」
「学校もあるのに、帰ってきて角煮を作るのは大変だったでしょう」

「今日、ちょっとむしゃくしゃしていて。学校帰りにスーパーに寄って、そうしたら豚バラブロックがあったんです。高いじゃないですか。でもこれをどーん! ってやったら楽しいのかなって」

 うーん、わかる。業務用の大袋とか、肉の塊とか、魚一匹を捌いたりするのは、自分の時間を時給換算するとお得ではないのだけれど、冒険者になったみたいでわくわくするのだ。気が合うじゃん。と反射的に思ったものの、十二歳も年上の女に「アタシたち、なかなか相性いいんじゃん!?」などと言おうものなら、あっという間に空気の読めないアラ
サーのできあがりである。距離感難しいわこれ。

「ギコギコ、って肉を切り分けている間は楽しかったんですけれど、炊飯器に材料を入れる時になってやっと『あ、作り過ぎたな』って気がついたんですよね」
「煮込みとかカレーでよくある現象だよね」

 自炊あるあるネタとしては餃子は思ったよりタネが少なくて皮が余った、というパターンも存在する。

「お父さんが居た頃は作り過ぎてもなんとかなったんですが、これは自分一人だと土日ずっと角煮だなと」
「……」

 なんてことない会話。しかし、あたしの脳内でかすかに「不穏警報」が鳴りはじめた。

 推測するに、彼女のお父さんは単身赴任か何かで東京を離れたのだろう。そうして、もっと邪推すると、何らかの理由で母親もいないのだろう。歳の割にしっかりしていて、でも妙に警戒心が薄くて、人なつっこい。どことなく、彼女は「ワケあり」なのではないか……とあたしの「勘」が告げるのだ。

「えらいねー。あたしは学生時代にファミレスのキッチンでバイトするまでまったく料理しなかったなー。高校時代、お小遣いにお昼代こみだったんだけど、おにぎりを作って持って行けば節約にできたのに、なんで大人になるまで気がつかなかったのかなー、と自分にうんざりしちゃったよ。百合ちゃんはお弁当も作ってるの?」

「はい」
「料理好きなんだね」

「いいえ、別に」

  百合の瞳に、すっと暗い影が落ちた。あら、あら、あらら。このマンションに住んでいる、すなわち貧乏ではない。つまりそれほど食費を削る必要もなさそうだ。となると節約のためではなく趣味と実益を兼ねてやっているのかと思いきや、どうやら地雷を踏んでしまったようだ。

しおりを挟む

処理中です...