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本編
5.あれからの私【side L】
しおりを挟む婚約が解消され、私が修道院に来てから三年が経過した。
来た時に、名乗る名前をリヴィと変えた。
最初は生きているのか生きていないのかよく分からなかった。
私の感情は凪いだまま、何の感動も映さなくなったから。
表情筋は仕事を放棄して、あれだけただ一人を想うだけで勝手に緩んでいた頬や口元も動かなくなってしまったのだ。
修道院での生活は穏やかで、貴族令嬢として生き、王太子殿下の婚約者として教育を受けて忙しくしていた頃が懐かしくなる。
教育は半分程終えていたけれど、暗部に関わる事はまだ先の教育だったから私は生かされている。
朝起きて身支度を整え、掃き掃除をしてから朝食を作り食べ終えたあと片付けをしてから併設された教会でアンジェリカ様の冥福を祈る。
それから洗濯、バザーの為の商品作り、孤児達に読み書きを教えたり一緒に遊んだり。
昼食を食べた後は先程の続きから。
そんな、平民がよくしているありふれた生活。
最初は慣れなくて失敗ばかりしていたけれど、周りの皆に教えてもらい随分と上手くなった。
それでも、私の表情筋は仕事を放棄したまま。
そんな私にみんな笑いかけてくれる事が嬉しくて申し訳無い。
そんな私はふと、自分でも気付かないうちに涙を流す事がある。
──いいえ、理由は分かっている。
ただ一人を想うだけ。
それだけで、目から雫が止めどなく溢れて来る。
自ら側にいる事を止めたのに。
心の奥底から未だ湧き出るモノがあふれないように静かに蓋をしたはずなのに。
持っていたハンカチで頬を拭う。
あとどれくらい涙を流せば、貴方の事を忘れられるのだろう。
じくじくと痛む胸を押さえて、一つ深呼吸をした。
「レーヴェ」
「お父様、お母様……」
両親は時折私を訪ねて来る。
修道院にも沢山寄付をしてくれて、不便が無いようにと院長に頭を下げる。
貴族として産まれたのに、役目を全うできなかった出来損ないの娘なのにこんなにも優しい両親に申し訳なさが勝つ。
「貴女が元気ならそれで良いのよ」
「お母様……」
私の頬を撫でながら、瞳に涙を溜めるお母様。
何かを言いたいのに、私の表情筋はやはり仕事をサボってる。
「ありがとうございます。私は生きてます。
……すみません」
「謝らないで。貴女が生きている事が私達の幸せなの」
ああ、お母様を泣かせたいわけではないのに。
こんな時、あの方ならどうするのだろう、と、私は訊けもしない事をぼんやりと考えていた。
外に出ると、お父様が騎士の風貌をした男性と話をしていた。
騎士は兜を被っているから顔は見えない。
じっと見ていると騎士は私の視線に気付いたのか少し身動ぎをし、すぐに一礼した。
私もそれに倣い会釈する。
侯爵家の新しい護衛の方かしら。私にはもう関係無いけれど。
両親が家路につき、私は今日のやるべき事の続きをしようと修道院内に入った。
「リヴィ、買い物頼めるかしら」
「分かりました」
「じゃあお願いね。リストはこれ」
先輩から籠とお金と買い物リストを受け取り早速出掛けた。
今日は天気も良くて歩くのが苦では無い。
雨が降れば靴も服も濡れて大変だし身体が冷える。
貴族だった頃は使用人が濡れないように苦心して、濡れたらすぐに着替えさせて。
それが当たり前だったけれど今は何回も着替えは面倒だし、帰宅するまでこのままだ。
汚れるのも案外楽しいのだと気付いたのは修道院に入って暫くしてから。
初めて靴と服の裾を泥跳ねて帰宅したとき、先輩に苦笑された。
その後洗濯が大変だったから以後やらないなんて誓ったっけ。
あの頃が懐かしく、つい口元が緩みそうになる。
けれどそれが何だか悪い事のような気がして、緩みかけた口元はいつもの唇の形に戻った。
「こんにちは。卵と牛乳を買いに来ました」
「おう、リヴちゃん!ちょっと待っとくんなぁ」
威勢のいいおじさんの声に戸惑いつつ、奥にある氷室に商品を取りに行ったおじさんを待つ間、品物を眺めることにした。
「ねえ聞いた?王都では王太子殿下の婚約が発表されたそうよ」
「ようやくなのね~。これでちょっとは安心かしら」
聞こえてきた声に思わず手に取った木彫りの熊の飾りを落としそうになった。
(婚約……──殿下が……)
「何だっけ?最初の婚約者の方がお亡くなりになってその後の方とは破談になってしまわれたのよね」
「その後頑なに婚約を拒んでらしたけど、王様の唯一のお子ですものね。
今度こそ結婚して次はお世継ぎかしら。慶事が続くと品物が安くなるからいいわぁ」
朗らかに会話をする女性とは裏腹に、私の心は嵐のようだった。
分かっていたはずだ。
私と婚約解消したのだ。
国王夫妻唯一の子。代わりはいない。
次期国王として誰かと婚姻し世継ぎを設け、次へ繋ぎ国を繁栄させる。
それが彼に課せられた義務であり使命。
だから
分かっていたはず。
心ではアンジェリカ様を愛し続けながらも、婚約解消された今、いつかは私ではない誰かと添い遂げると。
「リヴちゃん待たせたな!はいよっ」
「あ……ありがとう」
私はその場にいられず、卵と牛乳を受け取るとくるりと踵を返して立ち去った。
足早に帰途を急ぐ。
大丈夫、私は大丈夫。
分かっている。大丈夫。
頬が濡れる。
雨でも降ってきたのかしら。
早く帰らなきゃ。
苦しい。胸が痛い。
嫌だ。嘘だ。
だって。
だって、私は、アンジェリカ様には勝てないから身を引いたのに。
アンジェリカ様だから、諦めたのに。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、どうして、何で、
私はこんなにも苦しいのに、どうして貴方は──
「失礼、お嬢様。顔色が悪いようですが」
ずっと下を向いて歩いていたから気付かなかった。
上を向くと、両親に付き従っていた騎士のような格好をした人がいた。
「すみません、何でもありません」
「何でも無いわけないでしょう?顔色が真っ青です。プリエール修道院の方でしょう?
送らせて下さい」
断っても引き下がらないその人を睨んでみる。けれどその表情は兜に隠れて見えない。
少しの間睨み合って、やがて溜息と共に私は歩き出した。
「レ……リヴィ嬢、待って」
「私は貴族ではありません。『嬢』と呼ばないで下さいませ」
「す、すまない、ま、待って……」
兜さんの言葉は無視して修道院へ急ぐ。
彼は後ろから一定の距離を空けて着いてくる。
両親からの差し金かしら?
修道院の扉の前まで着いて、くるりと振り返った。
「送って頂きありがとうございました。では」
「レ……、リヴィ、じょ……さん、少しで良いんだ。話がしたい。今じゃなくていい。時間を……下さい」
「はぁ。でも私は忙しいので」
「そんなに時間は取らせません。何でも良いので話がしたい、です。お願いします」
兜のまま話すつもりだろうか。
私は溜息を吐いた。
「お昼過ぎなら、少しは……」
「っぁ、ありがとう!ありがとう、ございます!っ、すみません、体調悪いんですよね。今日は帰ります。明日、から、昼過ぎに来ます」
兜を被った人は一礼するとそそくさと帰って行った。
「何だったんだろう……」
つぶやいた言葉は誰にも聞かれる事が無く。
けれども、先程の苦しかった気持ちが、いつの間にかふと気付いた時には不思議と和らいでいた。
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