神在月に往きて告げよ

真野英二

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12.潔斎堂、辿りつく場所、独りで死ぬこと

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 連続するウミトの刀と蹴りを、環はこともなげに打ち払った。
 ウミトが鬼人の本気を出して斬れない人間はそうそういない、はずだ。それがこの短期間にふたりもいたことに、ウミトは驚いていた。井の中のかわずではなかったはずだが。
 斬り結んでいる間に、ウミトは潔斎堂の石庭から斜め上に登ったあたり、山頂へ抜ける道に環を追いやっていた。
 山での戦いを熟知しているウミトにしてみれば、下に位置する不利は避けたかったが、環を潔斎堂に向かわせることはできない。仕方なく木々を盾にして見上げながら戦っている。
 環はウミトの内心の葛藤を知ってか知らずか、微笑みながらウミトに応戦していた。
 だが、眞魚が片腕で印を結び始めたのを見つけて眉をひそめた。
 「印を結べぬようにしてやったものを……馬鹿めが」
 ウミトを置き去りにして駆け出そうとしたが、ウミトが素早く回り込んだ。
 「待てコラ」
 環がうるさそうに刀を振った。見かけによらず速い剣だ。
 ウミトは忍び刀を下からすり上げながら受けて、拳を横から当てた。
 甲高い音と共に刀が折れた。最初から狙っていたのだった。
 「これでもう」
 ウミトが言い終わる前に折れた刀が腹をめがけて飛んできて、ウミトは危うく避けた。
 「んだとっ!」
 「刀がひと振りだけと思いましたか?」
 環が右手に新たな刀を持ったまま、涼しそうな顔で嘲笑する。言いざま、反応が一瞬遅れたウミトの首を狙った。
 が、環は、道を一気に駆け上がって撃ち掛けてきた久道に、向きを変えてその刀を振り下ろした。二合、三合と打ち合って、久道が環を押し戻す。
 「久道、面倒をかけた」
 「いや」
 ウミトと久道は少し距離を取り、ちょうど正三角形を形造るように環と対峙した。
 環は笑いを含んだ困ったような顔で無造作に立っている。
 久道は、怒りを含んだ声で静かに口を開いた。
 「ひとつ、訊きたい」
 環は小首を傾げて久道を見た。
 「何ですか?」
 「……なぜ、琴葉様をたぶらかした?」
 「誑かした?」
 言っている意味を理解しているのか、環はおうむ返しに返す。
 しばらくの間。
 「俺にも訊かせろ……」
 答える気が見えない環に、ウミトが抑えた声を上げた。儀式を踏みにじられた上に、右腕を失った楚良の途方に暮れた顔を思い出す。
 「なぜ大神を解放した?」
 ウミトを向いて覗き込むように聞いていた環が、くつくつと笑い始めた。
 「……答えろ」
 久道が耳障りな笑い声を押しつぶすように問うた。
 環は顔の前で手を振って笑いを収める。
 「あなた方と同じです」
 久道とウミトはいぶかしげに眉を寄せた。
 「あなた方は何かにすがって生きているでしょう? 私も同じです。この身はものごころついた時より、既に人ではありませんでした。いかなる理由があったかは知る由もありませんが」
 環が左手を軽く返すと唐突に刀が出現した。二刀を握りしめる。
 「その私が、自分が生きられる場所を見つけようと努力してはいけませんか?」
 「なるほど。一理ある」
 久道は頷いた。ウミトが非難するような視線を送ってくる。
 「だが、そのために琴葉様や楚良殿を踏みつけにするのは許さんよ」
 環がくすりと笑った。笑ったが、上目づかいの笑顔はなんとも凄惨が匂い立つような、生理的な嫌悪をもよおすものだった。
 「あなた方はよく言うではありませんか。勝者は敗者の生をも背負って生きていくのだ、と。そんな身勝手な話で納得できるのでしょう?」
 環は面白くてたまらないという顔になっていた。
 「そしてもちろん、私も、そのつもりですよ? あなたがたの『生』を、全て背負って生きて差し上げますよ?」
 慇懃いんぎん嘲弄ちょうろうだった。
 久道の、そしてウミトの表情に、隠し切れない憤りがよぎった。
 「……そうか。ならば、以て瞑すべしだな」
 久道とウミトは同時に突進した。
 環は嘲笑を浮かべながら無造作に立つばかり。


     ☆


 「私は、あれを封印するの」
 正座した樹乃が指差す先には暴れるイザナミがいた。
 「お前……でも」
 樹乃は紫庵が何か言おうとするのを首を振って押し止め、哀しそうな顔をして胸元をゆるく開けて見せた。
 白い肌に侵食したような青白く発光する文字が、首元まで達していた。その両腕にも青白い刻印がみっしりと連なっている。
 紫庵は息を飲んだ。
 「これ……!」
 あと少しだけ、あとわずか自分が早ければ。
 その余りに精妙な美しさからは、直感的に樹乃がもう還れない身であることが、それだけがどうしようもなく感じられた。
 「もう、あたしは妖しになってもいいよ? 紫庵がいてくれれば、何とかしてくれるでしょう?」
 樹乃は唄を歌うように晴れやかに笑った。
 もしそれが唄なら、これ以上もなく哀しい唄だったろう。
 「樹乃……」

 「やまと文字だの」
 眞魚が見下ろすようにして言った。樹乃が小首を傾げる。
 「何……?」
 「真言だの、祝詞だの、信ずるところの経典は皆違う。が、源流は同じ――音よ。音韻こそが常世の力を引き出すたったひとつの手立てなのだ」
 「音が……?」
 「そうだ。密教なら“おん”、神道なら“布留部ふるべ”、陰陽なら“こく”、それぞれがたったひとつの音韻を護っておる。それを発することで生じる音の中に、常世の入口がある。ほれ、あのイザミとて」
 眞魚が山頂のイザナミを指差した。つられて紫庵と樹乃も見上げる。
 「御山の営みが起こす響きが、あやつを通す広い抜け穴を作っておる。我らはあやつをここに誘導し、神女だけが起こせる相反する音韻で封印する――緋羽大社の“大社”とはかりそめの名、黄泉津比良坂のに過ぎん。神社でさえない」
 「……樹乃は……治せないのか?」
 眞魚は憐れみの眼で紫庵を見つめ、それから眼を逸らした。
 「……“山”と言えば人は盛り土を思う。“神”と言えば人は白い鬚の老人を思う。互いに同じ現象を以て意思を疎通するが、実際は盛り土を山と呼ばなくてもよいし、白い鬚の老人が神とは限らない。呼び名など、その程度のものよ――だが、やまと文字は、違う」
 紫庵は眞魚の言わんとすることがよくわからなかった。
 「やまと文字は他の文字とは違い、力自体が形をとったものなのだ――禍火を新たな力に産み直すのと引き換えに、神女はその力に身体の全てをむしばまれていく。それが表に出ているとなれば……」
 眞魚は語尾を探すように押し黙った。
 それは眞魚がみせる初めての気遣いだったが、紫庵は脱力する思いだった。
 樹乃は、やはり助からないのだ。
 樹乃は静謐な眼差しで山頂のイザナミを見つめていた。


 ――言葉というものは約束事からできている。本来、ものや出来事には名がついていないが、人がそれに名をつけ共有することで、初めて言葉は意味を持つ。
 すなわち、全ての言葉は「符牒」に過ぎないと言えるだろう。名がもの自体を指し示すことは決してない。その名がそのものにふさわしいのかどうか、宙に浮いた疑問が残るのみだ。
 そういう意味で、「やまと文字」は言葉ではない。
 ものや出来事が本来名乗るべき精妙な響き、真の名が自ずと形になっている文字。力それ自体が形となり、その音を要求している。
 もしそれを発語できるとしたら、音に含まれる力を自在に使えるとしたら、その人が人を超えるであろうことは想像に難くない。
 後代、「神代文字」と呼ばれるそれらは、「隔絶した智慧」という二つ名で呼び慣わされることになる――。


 眞魚が楚良の位置に立って再び真言を唱え始めた。
 紫庵に手を借りて、樹乃は元の位置に再び戻っている。眞魚と樹乃だけで「火之夜儀」をやり直そうというのだった。
 樹乃の手には欠けた瑠璃宝玉が握りしめられていた。それを持っているだけで苦痛が和らぐ。
 樹乃の身体からは再び青白い炎が立ち上り、再び圧搾あっさくされるような苦痛がさいなみ始めていた。
 紫庵が茅の輪の外側に立ち、樹乃の苦痛に同調したような顔で息を飲んでいる。
 ――大丈夫だよ。
   紫庵、私はもう自分で選んだから。
   あとは、それを全うするだけ。
   でなければ何もかも嘘だったことになるでしょう? 
   私は神女なんだから、封印のために戦うの。

 そんなことを言ってあげたかったが、ほとんど余裕もなく……心配させることにした。我ながら少し意地が悪いと思ったけれど、紫庵が心配してくれるだけで救われた。

 自分は、紫庵のいる世界を何とかしてあげたいと思うのだ。
 紫庵がこの先も生きていけるなら、紫庵が少しでも幸せになれるなら、そのためなら自分は身を捨てていいと思う―――だから紫庵、最期まで見守っていてね。

 空には胎蔵界曼荼羅が再び描かれていく。
 出現の時とは違い、樹乃の身体から立ち上った青白い炎が空に登り、まるでそこここで花火が咲くように曼荼羅が補完されていく。比例して樹乃の身体には文様が浮き上がり、ついには首から顔にまで浮き上がった。
 樹乃は痛みのあまり膝をつきそうになる。
 歯を食いしばって、彼女は耐えた。


     ☆


 環は二刀で文字通り久道とウミトをあしらった。
 全力で打ちかかっても、環の身体に触ることすらできなかった。ふたりの顔に焦りが見える。
 環の向こう側に、山頂から駆け下りてきた黄泉津いくさの軍勢が見えた。先ほど防いだ時に劣らない数だ。
 「もういいでしょう」
 環は距離を取って刀を振った。空中に無数の刀が中空に出現する。
 「何でもありかよっ!」
 驚くいとまもあらばこそ、ウミトが素晴らしい反射速度で跳び退ったが、刀が雨のように降り注ぐほうが早かった。ふたり共に刀をかわし弾いたが、幾振りかの刀がそれぞれの四肢を斬り裂く。
 「てめえっ!」
 「待てっ!」
 久道が届くはずもない手を伸ばした。
 叫ぶ言葉も空しく、ふたりは新たな黄泉津いくさの軍勢に飲み込まれた。

 環の眼は「火之夜儀」を再開した眞魚に向けられていた。
 眞魚の喉元を狙って、人に可能とは思えぬ距離を飛び降りる。刀を胸元に固定した刺突の体勢だ。
 その前に、紫庵が立ちふさがった。
 「さわんなあああっっっ!」
 人の業で磨いた刀は、その業の深さにもかかわらず、ひときわ甲高い澄音ちょうおんを響かせた。そのまま紫庵が環を押し戻す。
 環は首をすくめて、何の抵抗もなくふわりと後方に跳んだ。変わらず薄笑いを浮かべていたが、度重なる障害に若干の苛立ちを含んだ声で言う。
 「……あなたは、神女を助けに来たのではなかったのですか?」
 「……ああ」
 「なら何故、さっさと連れて逃げないのです? ほら、今にも死にそうじゃないですか。あらあら、可哀そう」
 樹乃を見遥かしながら嘲るように言う環を、紫庵は無言で睨みつけた。
 環が向き直る。
 「では、むざむざ死なせる。そういうわけですか?」
 「……違う」
 「さて、どう違うのでしょう? まさか、本当は死んでほしいとか?」
 「違う」
 紫庵の視界は、真紅と灰色を往復していた。
 「鬼」の眼と「真理の闇」の眼。
 他者をなぎ倒したい凶暴な暴力の衝動と、自分を滅殺したい凶暴な自己破壊の衝動とが自分の中でせめぎ合うのを、今の紫庵はひどく冷静に見ていた。
 昔々、ひとりで死ぬのはかわいそうだね、と樹乃は言った。生贄を押し付けられた少女がかろうじて言える抵抗だったのだろう。
 そう言った樹乃はでも、従容しょうようと緋羽大社に赴いた。
 そして今、神女の責務を果たすことを選び、ひとりで死のうとしている。
 自分は、禍火のせいで鬼になった。
 大事な家族を、仲間たちを、失った。
 そして今、かけがえのない少女を失おうとしている。

 かくも短き生に、かくも望まぬ生に、意味を見出みいだすとすれば。
 ――円環をつなぐもの。
 「闇」はそう言った。
 自分が生きることだけではなく、誰かのために、この手で役に立つことにあるのだ。
 誰かに、つなぐためにあるのだ。
 天命さえも超える、しんとした想いが、紫庵の底に静かに脈づいていた。
 「……人の生き死には誰も決められない。俺が樹乃の生き死にを決めることはできない。ただ、あいつの決めたことを助けることだけだ。あいつが神女を全うすると言うのなら、俺が身体を張ってでも必ず遂げさせてやる」
 その瞳奥深く、力の真紅と真理の闇を宿す鬼ならざる鬼の言葉に、環は眼を見開いた。
 「……困った子ですね」
 そして、片頬にぎゅうと険悪な皺を寄せて、毒々しい声で吐き捨てた。
 「だから餓鬼は嫌いなんだ。手が届かないものがないと思ってやがる」

 眞魚が礼拝らいはいを止めて、錫杖を強く打ち鳴らした。透明な音が響き渡る。
 重なるように眞魚と樹乃の唱える真言が周囲の音を圧して高くなった。
 胎蔵界曼荼羅が発光したかと思うと、音もなく火口の高さまで降りてくる。
 山頂で叫び声が起きた。イザナミだ。先ほどまでの聞こえないが耳に痛い叫びではない、怪鳥けちょうの大音響の悲鳴だった。
 紫庵と環も思わず振り仰ぐ。
 曼荼羅に触れたイザナミの身体の部位から、闇がほどけ、また闇が生成され、いつ果てるともないつい消滅しょうめつの戦いを始めていた。
 眞魚が続けて錫杖を打ち鳴らした。
 「アアアァァァアアァァッッッ!」
 曼荼羅が有無を言わさずイザナミの身体を押しつぶしていく。眞魚は青ざめ、額には脂汗が浮いている。
 環が凶相のまま呻いた。
 「おのれ、眞魚ぉぉぉ……」

 黄泉津いくさを斬り飛ばしていたウミトの刀が、空を切った。
 「ああっ!?」
 雷神のしもべが一瞬で黒い霧となったのだ。全ての軍勢が霧となり、来た時に倍する速さで山頂に引いていく。
 見送るように山頂を見上げたウミトに、久道が片足を引きずりながら歩いてきた。腰から右足まで血まみれだ。
 「やったのか!?」
 「……いや……まだだ」
 ウミトは顔をしかめて片膝をついた。黄泉津いくさに背中をしたたかに叩かれたのだ。装束は引きちぎられ、全身に噛み裂かれた跡がある。満身創痍まんしんそういと言っていい。
 「あいつを……助けなければ」
 久道は頷いた。
 だが、ふたりとも既に限界を超えていた。
 潔斎堂はまだ見える距離にあるのに、ふたりとも山道をりることさえできなかった。


     ☆


 眞魚は低い声で呟いた。
 「やはり……足りぬかよ」
 曼荼羅に押し潰されたイザナミが苦しみ暴れている。
 火口に押し籠められつつも、イザナミの抵抗は激しかった。闇が拮抗しながら曼荼羅を押し上げていく。
 眞魚の後ろからもうひとつ、唱す声が上がった。
 眞魚と樹乃の詠唱に重なり、共鳴し始める。
 楚良が身体を起こし、眼をきつくつぶったまま一心に祝詞を上げていた。時々絶えるのは、右腕の痛みに耐えかねているからだろう。
 「見事なり……」
 振り返った眞魚は痛ましそうに楚良を見た。
 眞魚は楚良に拝礼し、向き直って樹乃に拝礼し――最後の印を結び始めた。
 脂汗が光る額と首筋には血管が浮かび、口元からは血が滴り落ちた。
 その眼は赤くなり、印を結ぶ手は白くなり、顔は蒼白に見えた。

 イザナミが再び暴れ始める。火口に押し籠められる速度が一気に速くなったからだ。
 苦しみのあまり、叫び声は哀悼の響きを帯び始める。
 環の眼が吊り上った。
 「……邪魔をするなぁぁっ!」
 怒声と共に、瞬時に中空に無数の刀が出現し、凄まじい速度で潔斎堂全域に降り注いだ。
 紫庵は身体を小さくして転がりながら刀をかわしたが、あまりの数に避けられず左足を刺し貫かれた。
 「ぐっ!」
 封印の儀式を振り返ると、小さな結界が張ってあったのか、樹乃たちには刀は届いていなかった。
 わずかに息をついた――その隙を縫うように、環が眞魚に跳んだ。
 仕上げにかかっている眞魚は動けない。
 紫庵は立ち上がりかけたが、左足に刺さった刀のせいで遅れた。
 それはわずかだったが、致命的な遅れだった。


 紫庵の眼が大きく見開かれる。
 「……樹……乃……?」
 ―――貫かれたのは、樹乃だった。
 眞魚をかばうようにその前に立ち、環の刃を身体で受け止めていた。
 「くっ、邪魔だ」
 環が刀を引き抜こうとするのを、切なそうな顔をした樹乃が抱きすくめる。
 間髪を入れず、樹乃は自分ごと不動明王ふどうみょうおう縛呪ばくじゅを唱えた。
 環の動きが止まる。
 「なっ! 離せっ!」


 眞魚は最後の真言を、辺りに響き渡るように声高く唱え切った。
 「……ナウバウ・アキャシャギャラバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ!」

 虚空こくうぞう菩薩ぼさつ真言。
 事物が生じた太古から、誰も知らない遥か彼方の未来までも、その身のうちに蔵する途方もない存在。
 全てがその中にある、イザナミでさえもその中に存在する、世界そのものの真言だった。
 胎蔵界曼荼羅が立体に展開して、多層的な曼荼羅に至る。
 眞魚はイザナミに対峙するように仁王立ちしていた。眼が鮮紅色に染まっている。残った片腕で錫杖を振り上げ、イザナミに向けて振った。
 「……オオヤシマは平穏なり。御柱が気を病むことはなし、疾く疾く黄泉路へ去り給へ」
 応じるようにイザナミの叫びが響き渡る。
 「アアアァァァアアァァッッ!」


 紫庵は立ち上がった。
 左足を引きずるように歩き始めて、刀が突き刺さったままであることに気づいた。
 一気に引き抜く。
 樹乃の様子に気がせいていて、強烈な痛みは意識の外に追いやられていたが、傷が瞬時になくなるのを見て、さすがに紫庵は眼を見張った。腕を見ると、先ほどの心玄との傷も跡形もない。
 ――なるほど、これが鬼か。

 環が樹乃を振りほどこうと足掻いているところまで、ようやく辿り着いた。
 「離せっ! 貴様っ!」
 紫庵はわめいている環の背後に立った。樹乃と眼が合う。
 「樹乃……」
 「楽にしてあげて……」
 「うん……」
 環がはすに振り返って紫庵を認める。
 紫庵はゆっくりと刀を振りかぶった。
 環が顔を歪めて嘲笑う。
 「まさか貴様がな……この身が不覚を取るか……ふふ、死ぬよりも呪われた生に恋々れんれんとすればよい」
 紫庵は聞いていなかった。ただ樹乃を休ませたかった。
 一閃。
 ごとり、と先ほどまで環だったものが転がった。
 樹乃は支えを失って崩れ落ちた。
 環の身体をどかして、紫庵は樹乃を抱きかかえる。
 「しっかりしろ、樹乃……」
 「紫庵……」
 樹乃の呼吸は荒かった。
 口元から血が流れている。
 樹乃は丹田のすぐ上を刺されていた。
 怪我の度合いを見極める忍びでなくても、致命の傷であることは瞭然だった。
 「最後まで……」
 樹乃の言葉は続かなかった。
 血の塊が樹乃の口から溢れ出る。
 「しゃべるなよ……頼むからしゃべらないでくれ」
 紫庵はきつく眼をつぶって首を振った。


     ☆


 意識を失って地面に落ちた楚良を、ウミトが抱きかかえている。
 震えている琴葉を背負って、その横に久道が歩いて来る。
 誰にも言葉はなかった。
 間遠まどおになった雷鳴の音が聞こえてくる。
 「流石は黄泉の王と言うべきか……封印には至らぬな」
 眞魚がぽつりと呟いた。
 「まだ封じられない……のかよ」
 「何か手立てはありませんか」
 ウミトと久道が遠慮したように呟く。
 眞魚はわずかに考え込み、口を開いた。
 「散り散りになった禍火をまとめ上げれば、可能かもしれん……しかし解き放たれた禍火を再度まとめるには……」
 眞魚が言葉を切った。
 樹乃は眞魚の言葉をじっと聞いていた。
 イザナミの叫びと雷鳴が聞こえてくる。
 眞魚を見つめていると、眞魚がこちらを向き――言葉もなく、互いに意思が通った。
 眞魚が沈痛に眼を伏せる。
 樹乃は掌の中の欠けた瑠璃宝玉を見た。これがあれば、自分は生きていける。
 「……なら、私が……」
 樹乃は満たされた気分で呟いた。
 「私が禍火の器となりましょう……」
 樹乃はうっすらと笑った。
 抱きかかえている紫庵は唇を噛む。最後まで見ると決めたが、それでも苦しいことには変わりはない。
 「……すまぬ」
 眞魚が眼を伏せたまま礼を言った。
 「樹乃……!」
 紫庵は思わず声を上げたが、樹乃は黙って優しく微笑んでいた。









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