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CHAPTER1
Episode 7 / 迷夢の私
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冷たいものが頬を撫でた。
たったそれだけのことだけど、次第に手や足の感覚がふわりと降りてくる感じがした。
二滴、三滴とそれは落ちてくる。閉じたまぶたがじわりと湿って、黒い世界の向こうで光が揺れているのがわかった。
雨。自分の顔の形がわかる。
そっと瞼を開く。
灰色の光が滲んで、視界に広がるあらゆるものが少しずつ像を結ぶ。透き通るような雨音を背景に、じわじわと身体も覚めてきた。
「これって……」
身に覚えがある。昨日いた場所だ。窓も扉も閉ざした家々がこちらを見ている。まったく同じだ。ところどころ割れているし、屋根は崩れているし、街灯は折れ曲がっている。
私はアヴァ。アヴァだ。ちゃんと覚えている。湿ったショルダーケープを見ると、金の刺繍で名前がしっかりと書いてある。石壁に身を任せて座っている。ブーツの中まで雨水が染みている。立とうとするとぐしゃぐしゃと音を立てる。声に出したくなるほどの、この気持ち悪さも知っている。
この街はネーベといって、ここは確か第四区。怪物が現れるんだ。知っている。ジェスターに教えてもらったから。それからベルジにも。
それはそうと、私はまたひとりぼっちになっている。また迷い込んでしまった。目が覚める直前、何があったか思い出せない。どうやってここへ来たのかが分からない。あんなに危ないところだと分かっていたのに。
「誰かいない?誰か……」
自分の声が響いている。はじめて喉に力を入れた気がする。大きな声を出すと、どこか自分から出ている音とは思えない。霧が声に合わせて揺れ動いているように見える。風のせいか、頭の中が見せている幻か、白い靄は時に人の顔みたいに見える。何かを伝えたげな顔。
「こんなところにいたのか、アヴァ」
忍び足でやってきたのか、振り返るとそこにはベルジがいた。私の名前、憶えてくれてたんだと、彼がより近しく感じた。腰に手を当てて、歩き疲れたような顔だ。
「ベルジくん、私、なんでここにいるのか分かんなくて」
「え、ベルジ?いったい誰のこと?俺の後ろ、誰かいる?」
「え……」
言葉を失った。私はしっかりと、ジェスターが彼のことをベルジと呼んでいたのを覚えている。確かにそう呼んでいた。何度も彼にベルジと呼びもしたはずだ。彼は残念そうな表情を見せてくる。眉毛をひねらせて私の目の中を覗き込んでくる。くるくるになった髪の先端がぜんぶこっちに向いている。間違っていたけれど、あえて聞き流しでもしていたのだろうか。いや、そんなはずがない。
「誰もいねえじゃん。おいおいしっかりしろよ。大丈夫か?」
「……あなた誰なの?」
「えぇ、あんなに一緒に戦ったのに。頭でもぶつけたか?」
君と戦ったのは一度だけだ。何度も何度も一緒に戦ってきた相棒同士みたいな言い方。確かにはじめてのことばかりで、記憶に残った時間だったけれど、彼にとってはそこまで大きな出来事だったのだろうか。どちらかと言えば、私にとっては忘れたい思い出。君と初めて出会った時のことも、できることなら忘れてしまいたい。
「ごめん。最近、私、調子悪くて」
「ウルズ。思い出した?俺から自分の名前言うなんて、なんか変だわ、はは」
そんな名前に聞き覚えはない。あの時ここで起きてからベルジとジェスターにしか、私は出会っていないし話していない。ウルズ?ウルズ。ウルズ……。彼にどう口を開けばいいか分からなくなってくる。目に焼き付けていた姿なのに、中身がまったく別物みたいだ。次第に目の前に立っている彼が偽物のように映ってきた。
「そう、変だよ、ベルジくんなんでしょ?そうだって言って」
「なんなんだよそれ……。勘弁してくれ。おかしいぞ今日のお前」
「今日って?ずっと会ってるみたいな口きかないでよ、昨日会ったばっかりじゃん」
「俺たちずっと、友達だろ?な、帰ろうぜ」
「気持ち悪い……」
抑え込んでいた言葉が漏れ出てしまった。彼の言動、この場所、私。すべてが気持ち悪い。ジェスターは、ベルジは過去に友達に化けた怪物に襲われていたと言っていた。あなたがもしそれならば、ベルジがあんなに鬼のように追いかけまわしてきたのにも納得がいく。友達の姿で遊んでいるようにしか見えない。許せない。
手を伸ばして、彼に向けて指を広げてみる。魔法でどうにかできるとよぎったのだ。同時に、彼の使っちゃダメだという声も浮かんだ。あの氷を出すことを誘いでもしているのだろうか。慎重になって考えると、今ここでそんな選択をしてはいけないと思い、視線と腕をゆっくり下げた。
「なんだよ、怒ってる?なんで?ひどいな」
分からないだけだ。本物はどれだ。私が見てきたものは何だった?
「あれほど四区はあぶないって言ったのに。また迷子か?」
その声に耳が体より先に立つ。ジェスターの声だ。水面から浮き出るように、霧の中から歩いてきた。重い靴の音を鳴らしながら、茶色いコートを着て、たばこを口にくわえている。
「ジェスター、ベルジくんがおかしいよ、ウルズ?とかなんとか……」
「ん?俺、間違った名前教えたか?」
「ぇえ?ちょっと待って……」
昔から大切にしていたものを、目の前で壊されてしまう時、こういう気持ちになるんだろう。心の置き場を失った。知っているはずのものが、どんどん私から離れていくようだ。一所懸命覚えようとしたし、探そうとしたし、決めようとした。でも、私は、手にしたもの全部に嫌われているのか。どうしてそんなに私は捨てられるのだろう。
「もうやめて、やめて。やめて……ひどい!」
後ずさり。一歩二歩、三歩。何かにぶつかる。人だ。後ろを見る。ベルジ。
「気をつけろ。あいつらは、俺に化けてる」
「お願い助けて、もうわかんないよ」
彼の肩を掴んで願い出る。石壁に空いた窓から物音が聞こえる。見る。ベルジ。
「だまされんな。それは俺じゃない」
「俺に化けてるのか?」
「すまないな」
四方八方からベルジとジェスターの姿をした何かが現れる。あの時みたいに逃げ場がない。どこを見ても目と鼻と口がある。
全員が銃を向けあった。銃口が私に集中している。構え方は全員まったく同じだ。息の仕方や足の角度まで、不気味なほど綺麗に揃っている。
「化け物め」
彼らの後ろから、あの怪物が津波のように流れてくる。目をくり抜かれた動物。黒いヘドロを垂らした生きる死体だ。首から、手から、お腹から。いろんな形の花が寄生するように張り付いている。前から後ろから、どんどん襲ってくる。ゆっくりと空を飲みこんでいくように見えた。
音が頭を鈍器で殴られたような衝撃を放つ。鼓膜を剣先で貫かれる。ありったけの声を出す。私に流れ込んできた濁流を、すべて吐き出す勢いで。
目を思い切り瞑るつもりが、視界が開けた。
あの匂い。ジェスターの匂い。ジェスターがいる。目が泳いでいる。彼が私の肩に手を当てている。あれだけの銃で撃たれたら生き残れるわけがない。死んだのかと思った。だけど、今感じているこの感触は、現実味を帯びていた。
「大丈夫か?」
窓からは朝日が差している。明るい。初めて見た。
「お前ずっと唸ってて……心配したんだぞ」
「はぁ……ジェスター?本物?」
ジェスターは困った顔をした。さっき見たのはやっぱり夢だったんだ。深呼吸しながら全身の力を抜いた。本当によかった。
「……。相当、悪い夢見たんだな」
思考がまだ上手くできないけれど、だんだん薄れていく。さっき、何を見たのか、半分以上は消えている。良くないものを見たのは確かだ。とんでもないものを見たはずが、もう忘れている。気がかりになるようなことも、ベルジが言っていたような覚えがあるが、こうしているうちにもそれが薄れていく。
手を動かす。ほっぺに指を持っていってつねってみる。痛い。頬に残った痛みが、朝日と同じように霧を晴らしていく。
「はは、なんだその目覚ましは。朝ごはんできてるぞ。入らなかった分は食うから、食べな」
野菜がたくさん挟まれたサンドイッチや目玉焼きが、紅茶を飲んだテーブルに置かれていた。皿にはこれでもかというくらい盛り付けてある。
「おいしそう」
「張り切っちゃってな。作りすぎたかもしんねえ」
「がんばって食べるね」
何よりうれしかったのは、彼が彼でいることだった。彼の姿をした偽物は、頭から離れない。ある意味呪われたともいえる。彼を見るたびに嫌な夢を思い出してしまうのだから。でも口を動かす度に、どんどん思い出せなくなっていった。
サンドイッチをほおばると、こんなものを食べたことがいままでにあっただろうかと、今はとびきりに良い夢を見ているように思う。朝が来てよかった。知っているのに食べたことがない、触れたことがない。そういうものがありふれている。私はサンドイッチが好きだ。
「この味、覚えてもらわないとな。どうぞ」
昨日入れてくれた紅茶だ。ジェスターのお気に入り。ちゃんと覚えている。香りも味もすべて。
「これ、ジェスターが好きなのだ」
「お、覚えててくれたのか」
揃ってティーカップを口に運んだ。カラカラだった口の中を甘い香りとまろやかな風味が潤していく。
「俺も夢を見た。良いもんじゃなかった。でも、ぜんぜん覚えてない」
「私も。夢ってすぐ忘れちゃうよね」
「そうだな。お前の思い出せないって感覚、ちょっとわかる気がするよ」
第四区で十年くらい寝ていただなんて、そんなことはあり得ないとは思うけど、確かに感覚は似ている。でも夢ならば、残り香みたいなものが少しでも残っているものだ。そういったものも一切無い。自分の過去を探すことが、好奇心が増す反面、ますます恐ろしくもなっていた。
「俺な、ガキのころ、こうやって拾われて育ったんだ。アヴァを見て、思い出したよ」
「へぇー、そうなんだ。私とおなじ感じ?記憶――喪失?」
「あはは、いやいや、俺は家出だったんだ。やっかいな奴だろ?」
「意外」
そんなイメージは全くなかった。でも言われてみればそういうところもありそうではあった。どこか強い自分を持っていそうなところが。
「しばらくおばさんに拾われてたんだけど、何週間か経って、親が探してるのが分かってな。ほんと申し訳ないことしたよ。親にも、おばさんにもね」
「そうだったんだ。私ももしかしたら……。でも、私がお母さんとお父さんを覚えてないよ。出会えたとしても、絶対傷つくよね……」
「あぁ……。そうか。クラリオネ、だったよな、家名」
「うん」
「俺、ちょっと部下に連絡して探させる。綴りを見てもいいか」
頷くと、ジェスターは畳まれていた私の服から、重ね着を取り出して刺繍を眺めた。手帳を取ってきてよく見ながら書き写している。
それにしても、彼だからこそできることだなと思った。自分の受けた恩を、今度は与える側にまわれるなんて。平然としているように見えるけれど、実はすごく頑張っていそうだし、彼の人への尽くし方には、憧れも感じる。名前を書き写し終わった彼が、私の服を畳みなおしているのを見て、より一層強く。
「ほんとに――ほんとにいたっけな、クラリオネなんて」
「もう、怖いこと言わないでよ……」
「悪い悪い。でもほんとなんだ。イニシャルで覚えたりするんだけど、これは……。まあいい、一旦探してもらおう」
サンドイッチも全部食べて満腹。今日は確か病院に行って、診てもらうんだった。
「そうだ、病院開くのもうちょい後だから、何かしてなさい。本読んだりなんでも」
「あ、うん。わかった」
考えていたことを見透かすようなタイミングで言ってきたもので少し鳥肌が立った。暖炉の横にある、壁一面を埋め尽くすような本棚を前に、背表紙の文字をひとつひとつ見ていく。国交史、地政学、世界史、法律、軍事、創世記……。読めそうな本が見当たらない。どんなことが書いてあるかは想像できないが、文字の量は見当がつく。
「ねえ、これほんとに読んでるの……?」
「ああ、上の方にあるのは楽しくないぞ。下にあるだろ、小説やら」
「ほんと?」
『ジャレン・クアールの大冒険』『探偵ベン』『その男』『星の向こう側』『明日の答え』『メルト 第七巻』『アイデンティファイ』『落ち武者』『ラルンダ伝記』……。なんでメルトは第七巻しかないのだろうか……。どれも分厚くて、かじる程度に読むには手が出ない。
「ジェスターこれ、絶対むずかしいでしょ」
「そうか?んー娘が読んでたのもあるんじゃないか。もうちょっと手のひらサイズのがあるだろ」
『7日』『ひとめぼれの夢』『儚いおとぎ話』『君と花束を』といった小説が何巻もずらっと並んでいるのを見つけた。一冊はお手頃な大きさで、タイトルも興味がそそられた。
「これかな……どれにしよ」
本棚のそばで座り込んで小さくなった私は、そっと『儚いおとぎ話』の表紙を開いた。
たったそれだけのことだけど、次第に手や足の感覚がふわりと降りてくる感じがした。
二滴、三滴とそれは落ちてくる。閉じたまぶたがじわりと湿って、黒い世界の向こうで光が揺れているのがわかった。
雨。自分の顔の形がわかる。
そっと瞼を開く。
灰色の光が滲んで、視界に広がるあらゆるものが少しずつ像を結ぶ。透き通るような雨音を背景に、じわじわと身体も覚めてきた。
「これって……」
身に覚えがある。昨日いた場所だ。窓も扉も閉ざした家々がこちらを見ている。まったく同じだ。ところどころ割れているし、屋根は崩れているし、街灯は折れ曲がっている。
私はアヴァ。アヴァだ。ちゃんと覚えている。湿ったショルダーケープを見ると、金の刺繍で名前がしっかりと書いてある。石壁に身を任せて座っている。ブーツの中まで雨水が染みている。立とうとするとぐしゃぐしゃと音を立てる。声に出したくなるほどの、この気持ち悪さも知っている。
この街はネーベといって、ここは確か第四区。怪物が現れるんだ。知っている。ジェスターに教えてもらったから。それからベルジにも。
それはそうと、私はまたひとりぼっちになっている。また迷い込んでしまった。目が覚める直前、何があったか思い出せない。どうやってここへ来たのかが分からない。あんなに危ないところだと分かっていたのに。
「誰かいない?誰か……」
自分の声が響いている。はじめて喉に力を入れた気がする。大きな声を出すと、どこか自分から出ている音とは思えない。霧が声に合わせて揺れ動いているように見える。風のせいか、頭の中が見せている幻か、白い靄は時に人の顔みたいに見える。何かを伝えたげな顔。
「こんなところにいたのか、アヴァ」
忍び足でやってきたのか、振り返るとそこにはベルジがいた。私の名前、憶えてくれてたんだと、彼がより近しく感じた。腰に手を当てて、歩き疲れたような顔だ。
「ベルジくん、私、なんでここにいるのか分かんなくて」
「え、ベルジ?いったい誰のこと?俺の後ろ、誰かいる?」
「え……」
言葉を失った。私はしっかりと、ジェスターが彼のことをベルジと呼んでいたのを覚えている。確かにそう呼んでいた。何度も彼にベルジと呼びもしたはずだ。彼は残念そうな表情を見せてくる。眉毛をひねらせて私の目の中を覗き込んでくる。くるくるになった髪の先端がぜんぶこっちに向いている。間違っていたけれど、あえて聞き流しでもしていたのだろうか。いや、そんなはずがない。
「誰もいねえじゃん。おいおいしっかりしろよ。大丈夫か?」
「……あなた誰なの?」
「えぇ、あんなに一緒に戦ったのに。頭でもぶつけたか?」
君と戦ったのは一度だけだ。何度も何度も一緒に戦ってきた相棒同士みたいな言い方。確かにはじめてのことばかりで、記憶に残った時間だったけれど、彼にとってはそこまで大きな出来事だったのだろうか。どちらかと言えば、私にとっては忘れたい思い出。君と初めて出会った時のことも、できることなら忘れてしまいたい。
「ごめん。最近、私、調子悪くて」
「ウルズ。思い出した?俺から自分の名前言うなんて、なんか変だわ、はは」
そんな名前に聞き覚えはない。あの時ここで起きてからベルジとジェスターにしか、私は出会っていないし話していない。ウルズ?ウルズ。ウルズ……。彼にどう口を開けばいいか分からなくなってくる。目に焼き付けていた姿なのに、中身がまったく別物みたいだ。次第に目の前に立っている彼が偽物のように映ってきた。
「そう、変だよ、ベルジくんなんでしょ?そうだって言って」
「なんなんだよそれ……。勘弁してくれ。おかしいぞ今日のお前」
「今日って?ずっと会ってるみたいな口きかないでよ、昨日会ったばっかりじゃん」
「俺たちずっと、友達だろ?な、帰ろうぜ」
「気持ち悪い……」
抑え込んでいた言葉が漏れ出てしまった。彼の言動、この場所、私。すべてが気持ち悪い。ジェスターは、ベルジは過去に友達に化けた怪物に襲われていたと言っていた。あなたがもしそれならば、ベルジがあんなに鬼のように追いかけまわしてきたのにも納得がいく。友達の姿で遊んでいるようにしか見えない。許せない。
手を伸ばして、彼に向けて指を広げてみる。魔法でどうにかできるとよぎったのだ。同時に、彼の使っちゃダメだという声も浮かんだ。あの氷を出すことを誘いでもしているのだろうか。慎重になって考えると、今ここでそんな選択をしてはいけないと思い、視線と腕をゆっくり下げた。
「なんだよ、怒ってる?なんで?ひどいな」
分からないだけだ。本物はどれだ。私が見てきたものは何だった?
「あれほど四区はあぶないって言ったのに。また迷子か?」
その声に耳が体より先に立つ。ジェスターの声だ。水面から浮き出るように、霧の中から歩いてきた。重い靴の音を鳴らしながら、茶色いコートを着て、たばこを口にくわえている。
「ジェスター、ベルジくんがおかしいよ、ウルズ?とかなんとか……」
「ん?俺、間違った名前教えたか?」
「ぇえ?ちょっと待って……」
昔から大切にしていたものを、目の前で壊されてしまう時、こういう気持ちになるんだろう。心の置き場を失った。知っているはずのものが、どんどん私から離れていくようだ。一所懸命覚えようとしたし、探そうとしたし、決めようとした。でも、私は、手にしたもの全部に嫌われているのか。どうしてそんなに私は捨てられるのだろう。
「もうやめて、やめて。やめて……ひどい!」
後ずさり。一歩二歩、三歩。何かにぶつかる。人だ。後ろを見る。ベルジ。
「気をつけろ。あいつらは、俺に化けてる」
「お願い助けて、もうわかんないよ」
彼の肩を掴んで願い出る。石壁に空いた窓から物音が聞こえる。見る。ベルジ。
「だまされんな。それは俺じゃない」
「俺に化けてるのか?」
「すまないな」
四方八方からベルジとジェスターの姿をした何かが現れる。あの時みたいに逃げ場がない。どこを見ても目と鼻と口がある。
全員が銃を向けあった。銃口が私に集中している。構え方は全員まったく同じだ。息の仕方や足の角度まで、不気味なほど綺麗に揃っている。
「化け物め」
彼らの後ろから、あの怪物が津波のように流れてくる。目をくり抜かれた動物。黒いヘドロを垂らした生きる死体だ。首から、手から、お腹から。いろんな形の花が寄生するように張り付いている。前から後ろから、どんどん襲ってくる。ゆっくりと空を飲みこんでいくように見えた。
音が頭を鈍器で殴られたような衝撃を放つ。鼓膜を剣先で貫かれる。ありったけの声を出す。私に流れ込んできた濁流を、すべて吐き出す勢いで。
目を思い切り瞑るつもりが、視界が開けた。
あの匂い。ジェスターの匂い。ジェスターがいる。目が泳いでいる。彼が私の肩に手を当てている。あれだけの銃で撃たれたら生き残れるわけがない。死んだのかと思った。だけど、今感じているこの感触は、現実味を帯びていた。
「大丈夫か?」
窓からは朝日が差している。明るい。初めて見た。
「お前ずっと唸ってて……心配したんだぞ」
「はぁ……ジェスター?本物?」
ジェスターは困った顔をした。さっき見たのはやっぱり夢だったんだ。深呼吸しながら全身の力を抜いた。本当によかった。
「……。相当、悪い夢見たんだな」
思考がまだ上手くできないけれど、だんだん薄れていく。さっき、何を見たのか、半分以上は消えている。良くないものを見たのは確かだ。とんでもないものを見たはずが、もう忘れている。気がかりになるようなことも、ベルジが言っていたような覚えがあるが、こうしているうちにもそれが薄れていく。
手を動かす。ほっぺに指を持っていってつねってみる。痛い。頬に残った痛みが、朝日と同じように霧を晴らしていく。
「はは、なんだその目覚ましは。朝ごはんできてるぞ。入らなかった分は食うから、食べな」
野菜がたくさん挟まれたサンドイッチや目玉焼きが、紅茶を飲んだテーブルに置かれていた。皿にはこれでもかというくらい盛り付けてある。
「おいしそう」
「張り切っちゃってな。作りすぎたかもしんねえ」
「がんばって食べるね」
何よりうれしかったのは、彼が彼でいることだった。彼の姿をした偽物は、頭から離れない。ある意味呪われたともいえる。彼を見るたびに嫌な夢を思い出してしまうのだから。でも口を動かす度に、どんどん思い出せなくなっていった。
サンドイッチをほおばると、こんなものを食べたことがいままでにあっただろうかと、今はとびきりに良い夢を見ているように思う。朝が来てよかった。知っているのに食べたことがない、触れたことがない。そういうものがありふれている。私はサンドイッチが好きだ。
「この味、覚えてもらわないとな。どうぞ」
昨日入れてくれた紅茶だ。ジェスターのお気に入り。ちゃんと覚えている。香りも味もすべて。
「これ、ジェスターが好きなのだ」
「お、覚えててくれたのか」
揃ってティーカップを口に運んだ。カラカラだった口の中を甘い香りとまろやかな風味が潤していく。
「俺も夢を見た。良いもんじゃなかった。でも、ぜんぜん覚えてない」
「私も。夢ってすぐ忘れちゃうよね」
「そうだな。お前の思い出せないって感覚、ちょっとわかる気がするよ」
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「へぇー、そうなんだ。私とおなじ感じ?記憶――喪失?」
「あはは、いやいや、俺は家出だったんだ。やっかいな奴だろ?」
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そんなイメージは全くなかった。でも言われてみればそういうところもありそうではあった。どこか強い自分を持っていそうなところが。
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「そうだったんだ。私ももしかしたら……。でも、私がお母さんとお父さんを覚えてないよ。出会えたとしても、絶対傷つくよね……」
「あぁ……。そうか。クラリオネ、だったよな、家名」
「うん」
「俺、ちょっと部下に連絡して探させる。綴りを見てもいいか」
頷くと、ジェスターは畳まれていた私の服から、重ね着を取り出して刺繍を眺めた。手帳を取ってきてよく見ながら書き写している。
それにしても、彼だからこそできることだなと思った。自分の受けた恩を、今度は与える側にまわれるなんて。平然としているように見えるけれど、実はすごく頑張っていそうだし、彼の人への尽くし方には、憧れも感じる。名前を書き写し終わった彼が、私の服を畳みなおしているのを見て、より一層強く。
「ほんとに――ほんとにいたっけな、クラリオネなんて」
「もう、怖いこと言わないでよ……」
「悪い悪い。でもほんとなんだ。イニシャルで覚えたりするんだけど、これは……。まあいい、一旦探してもらおう」
サンドイッチも全部食べて満腹。今日は確か病院に行って、診てもらうんだった。
「そうだ、病院開くのもうちょい後だから、何かしてなさい。本読んだりなんでも」
「あ、うん。わかった」
考えていたことを見透かすようなタイミングで言ってきたもので少し鳥肌が立った。暖炉の横にある、壁一面を埋め尽くすような本棚を前に、背表紙の文字をひとつひとつ見ていく。国交史、地政学、世界史、法律、軍事、創世記……。読めそうな本が見当たらない。どんなことが書いてあるかは想像できないが、文字の量は見当がつく。
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「ああ、上の方にあるのは楽しくないぞ。下にあるだろ、小説やら」
「ほんと?」
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『7日』『ひとめぼれの夢』『儚いおとぎ話』『君と花束を』といった小説が何巻もずらっと並んでいるのを見つけた。一冊はお手頃な大きさで、タイトルも興味がそそられた。
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「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
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