ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION

蓮田 希玲

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CHAPTER1

Episode 20 / 痛み

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 汚れたまま乾いてきた手を見ていると、ベルジは「帰るよ」と下を向きながら横を歩いた。声にならない声で返して、ゆっくり足を運んだ。彼の一歩は石畳ひとつ分程だった。見せられた動画のことがよぎる。彼は会った時から秘めていた牙を見せていた。首から下げたカメラを見て、これがあんなことに使われているものだと知った今、投げてしまいたいとも思った。カメラを貰ったお店を背にして、そんなことを考える自分にも嫌気がさす。

「アヴァ……」
「ん?」

 彼の声は震えていた。振り絞るように私を呼んだ。

「ごめん」

 目で追っていた足が止まった。押し殺そうとしているのが後ろからもわかる。しゃっくりをしているようで違った。彼を隠していた前髪を払えなかった。何に対する「ごめん」なのか、整理できなかった。そのまま彼は続けた。

「俺がこんなところまで、連れてくるからだ。ただでさえ、大変なのに」

 頭の中でいろんなものがせめぎ合っている。彼を許そうとも、許さないとも思えない。私もやっちゃいけないことをしてしまった気がする。ジェスターに何も言わず。危ない魔法を持っていると分かっていながら。街で暮らしている人達は過去がどうとか、自分がどんな人だとか、そんな問題を抱えて生きている人は、たぶんそういない。憧れるあまりに、身の程知らずなことをした。誰かが来てくれる、ジェスターも顔を見せてくれるかもしれないとかも考えたが、そんなことも無かった。

「……あの動画、ほんとなんだ」と彼は言った。そんなことは言われなくてもわかっている。だからこんなにぐちゃぐちゃな感じに襲われているのだ。ベルジはひとりで、ぼそぼそと続けた。

「自分でも、分かってるんだ。昔ああやって、物に当たったりして怒られて」

 包み込まれた言葉は、彼の震えを加速させた。「そう……」としか返す言葉が無かった。

「直そうって、頑張ってるんだ……」
「そう……」
「俺が家に行ったせいだよな。こんな、つもりじゃなかったんだけどな」

 彼は鼻をすすった。写真に撮ったあのベルジに戻ってほしくなった。私はあの男三人とは違う。過去に大変なことをしたかもしれないのは私も同じで、今もそれと戦っている。抑えられないものを無理やり押し込むことの大変さは、よく知っている。今はただ、少し落ち着きたい。

「嘘ついたでしょ」
「え?」
「ジェスターに用があるから来たって、言わなかった?」

 血がつかないように、彼の背中を指でつついた。自分の思っていたより、あっさりとした声で聞いた。気が紛れるかと思って、勘づいていたことを言ってみると、崩れかけた顔がこちらを向いた。目が磨かれた真珠みたいだった。

「あ、ああ……。うん。まあそれもあるんだけど。本当は、ちょっと、気になっただけなんだ……」

 ベルジはグッとなにかに掴まれたように喉を鳴らし、目を力いっぱいにつむりながらしゃがみこんでしまった。「ちょ、ちょっとベルジくん?」と私は思ってもいないことに追いつかなくなった。そんなに彼を崩すつもりなんて無かったのだ。

「クソ……ちくしょう……俺ったら……」
「ちょっと……」

 栓を抜いてしまったようだった。必死に笑って、顔を振っている彼。そんなことしても隠せていない。見るにも耐えがたかったが、同時に、彼はずっと黙っていたことをやっと言えたんだと分かった。何が彼をせき止めていたのか想像もできないが、声を出して泣いているのを見ると、どこか安心もできた。拳を作ってかるく二度たたくと、彼はふっと息を漏らし、笑みを浮かべた。

 遠くで走る車の、石との摩擦を感じながら、静かにただ落ち着くのを待っていると、ベルジの服のポケットから低い音が鳴った。あまりに突然で喉が締まった。

「電話だ……アヴァ出てくれないか」
「でんわ……って?」

 音はベルジが取り出したスマホからだった。ジェスターの名前が書いてある。木琴で奏でているような軽快な音楽が鳴っている。

「もしもしって」

 スマホを渡された。左手で受け取ると、ずしりとした感触が乗ってきた。思えばスマホははじめて手に取る。思っていたより冷たいし重たい。手が滑りそう。横から見るよりずっと眩しい。

「もしもし……?」
「――アヴァ?なんだ、一緒にいるのか。ベルジはどうした?」

 わ、と後ろからつつかれたような感じだった。こんなに小さなスマホからジェスターの声がする。しかも話せる。何をどうやっているのかさっぱりだったが、それも飲み込んで今は伝えることに集中する。

「それが……。それが、あんまり話せる感じじゃないの」
「――はぁそういうことか。んーまあとにかく、暗くならないうちに帰ってくるんだぞ。コンパスはー忘れてないよな?」
「うん。ある」
「――ん、じゃあ待ってるからな。気をつけて帰れ」
「わかった。ありがとう……」

 物を落とすような音と一緒に、ジェスターの声は途絶えた。風に揺さぶられて音を立てている窓が、心配そうにこちらを見ている。太陽もまた、雲から顔を覗かせていた。暗いようで明るい空の下で、ベルジは咳払いをした。

「ごめんアヴァ。なんか込み上げてきて、あはは」

 元に戻った。顔は晴れていた。目の周りが赤くなっているが、かまわず瞳はちゃんと私を見ていた。それが何よりも嬉しくて可笑しくて、でも怖い彼がよぎって。今度は私が目を逸らしてしまった。

「やっと目合わせてくれた」と、私はそっぽを向いて軽く笑いながら言った。
「う、お、だって見つめてるとさあ……!」
「なに?」
「き、気持ち……悪いとか、思わないのか?」
「ええ?何言ってるのそんなのないよ……そんなこと?」
「うん……」

 目を合わせられることを、どう気持ち悪く受け止めるのかは、想像するのが難しかったが、これも彼なりの考えや身についた感性なのかもしれないな、と私は静かに呑んだ。ため息と合わせて吹いてきた風が手のひらにかかり、キリキリとした痛みが走る。

「いたた……」

 右手を広げると、無造作に刃物で切ったような傷ができていて、干からびた皮と滲む血は見るのも辛かった。ベルジは立ち上がって「近くに公園ある。手洗おうぜ。黴菌いたら、いけないだろ?」と言ってくれた。私はいつも通りの歩幅で、彼に続いた。

「なんかさ」
「なに?」
「ありがとう……やさしい、よな。アヴァ」
「らしくないよ?」
「いやー、そうか?ははは」

 花壇と形の整った木々に囲まれ、走り回れるくらいに広い砂場の公園。入口の石をすれ違い際にコツンとつつくと、爪が震えた。鮮やかな色をした何かが建っている。ひとつは編み目状に組まれて、骨組みのままの四角い建物。もうひとつは波打つ金属の坂が眩しい建物。さらには振り子みたいなものがある。立ち止まって、何や何やと見つめた。

「アヴァ」
「あ、ごめん、その……何かなって……思って。手洗わないとね!」
「それもそうだけど……ほんとに……なんか、寂しいな」
「え?」
「知らないんだろ?ブランコ」
「そんな名前なんだ。おもしろいね」

 これらも知っていて当然なのだろう。彼のまつ毛が長く見えた。ジェスターの、この街の人間ではないかもしれないという言葉がよぎって、お腹の真ん中辺りが引いていく。

「こっちに洗えるとこある」とベルジが十歩先で呼んでくれた。肩に手を当てて待ってくれる彼の元へ、駆け足で向かう。瞬きする度に彼の顔は下がり、指をさした。

 蛇口を軽く捻ると、勢いよく音を立てて水が出てきた。排水溝を絶え間なく叩いて、飛び跳ねる水滴が靴を濡らした。

「……たぶん服濡れる」
「ちょっとひねっただけなんだけど……」

 よく目を凝らして、まるで細かな線を、間違い無く慎重に描く画家のように、逆にひねる。音も鳴らぬほどだったのに、勢いが目に見えてわかるほど弱まった。

「壊れてるだろこれ……水道」
「あはは、勢いすごかったね」

 手を恐る恐る、筒を描いてゆったりと落ちる水にあてる。「ひやっ」首の後ろまで冷たい感触が行き届いた。そのせいで、痛みも吹き飛んでいる。指のほうが痛くなってきた。息を吹きかけたり、曲げたり広げたり、両手をすり合わせたりした。そこまで寒くないのにも関わらず、この水は氷で冷やしているんじゃないかと疑うほどだ。

「冷たいの苦手なのか?」
「あんまり……」
「氷出すのに?」
「たしかに?」
「……これで拭いてから巻いてなよ」

 腕の長さほどで真っ黒のハンカチを貸してくれた。「ケガした時用に持ち歩いてるんだ」網目模様に入った傷を覆い隠すようにして、人差し指と親指の間に通して一巻二巻する。毛布のような質感だけれど、何も無い左手も相まって違和感が凄まじかった。

 公園の橋にあったベンチに「ちょっと休憩」と端っこへそっと座った。彼は相変わらず落ち着きは無く、私の前をぐるぐる歩き回っている。座らないのかは聞かないでおいた。

「言いにくかったらごめん……あの、さっきの人たちは、友達なの?」
「んなわけ」
「なんかちょっと、仲良さそうにしてたじゃん?」
「演技だよ演技。そんなに上手かった?」
「え?ほんと?……うん」
「…………マジか」

 ベルジは顔を見せず、揺らしながら足元の石を蹴った。鼻で笑ったのが聞こえた。

「私ね、正直ね、その……苦手かも」
「何が?」
「あの人たち」
「ごもっとも」
「あんな人がいっぱいいるのかな、学園にもいっぱい、いるのかなって。ちょっと、怖くなった」
「全員があんなヤツじゃない。昔の俺がやらかさなけりゃ、こんなことにもなってない」
「そう……」
「でもさっきんとこは、厄介なやつが住んでたりしてるからさ。ネーベはいい街だよ。……ああ、マジで頭真っ白んなって、どこ歩いてるかとか……考えてなかった」
「真っ白?大変だねベルジくん……」
「…………おかげさまで」

 明日にも明後日にも、外に出て歩いてみようとは思っていた。あの三人みたいな人で溢れているのなら、まだ考えただろう。それでも今日は、カメラという新しい手がかりを見つけられた。レンズのカバーを外して、カメラと目を合わせた。私はあなたを誰かを傷つけるために使いません。大事にします。心の中でそう唱えた。レンズは月を歪ませて円を描いている。

 一息ふとつくと、ベルジが傍からいなくなっているのに気がついた。

 ブランコと呼ばれたものに、ベルジが乗っかり、彼が一緒になって揺られている。いつの間にやら、と思いながら、荒波に揺さぶられる船みたいに動く彼に近づいた。しゃがんでは立ち上がってを繰り返し、見る見る彼は速くなっていく。錆び付いた柵に手を置いて、じっと見つめてみた。彼の顔はただまっすぐを向いていた。あの細い鎖がちぎれたりしたら。あの手を放してしまったらと考えてしまって、両手を結んで見守った。彼は街灯に負けないほどに光った顔を見せていた。

「いやー、久々にブランコやったわ、あはは。アヴァもやってみる?手痛いか」
「……ちょっとだけ」

✱ ✱ ✱

「なんかごめん。こないだ次会ったら楽しいところ行こうって言ったのに、嫌な思いさせた」

 二人でブランコに揺られて、足も一緒に振りながら、ふわふわとした感覚を味わっていた。私は肩を鎖にまかせて、両腕を手で軽く掴んで支えていた。風が背中を押してくれるから、揺り籠に入っているようで落ち着く心地の中。ベルジの足が砂に触れた。

「ベルジくんは謝ってばかりだね」

「え……」と言ったベルジは、ブランコから降りて、鎖を掴んで揺らしはじめた。ぐらぐらと音を鳴らすのを見つめているだけの数秒が過ぎる。「ベルジくんがいないと、このカメラと……会えなかったし?」私は彼の手を見ながら言った。

「そ、そうか……。俺さ、慣れてないんだ、その――」
「慣れ?」
「ううん、なんでもないや」

 私はつま先とつま先を重ねて擦っている自分の足を、じっと見つめた。

「なあ、俺の事、怖いか?」

 彼の方を見ると、まじまじとした真っ直ぐな視線が飛び込んできた。水面の光の波みたいに、その目は揺らめいている。そんなことを言い出すとは思ってなかったもので、彼以外の音がなにかに吸い込まれていくように感じた。足の動きも止まった。

「こ、怖いって……。怖いかと言われたら……うん」
「だよな。そう、だよな」
「だからといってさ、知らんぷりなんか、したくないからね。友達だもん」

 息を多く吸って飲み込んだ音。ポケットから鳴っているそれには気づいていない。固まっている。私は瞬きだけを続ける彼の目の前で、手を振った。

「……ベルジくん?大丈夫?」
「……そ、それよりアヴァ、見ててよ」

 顔に被ったものを払うように首を振って、ベルジは袖を捲った。視界を点滅させながら
彼の手を見ていると、指先に火の玉が小さく煌めいた。腕を大きく上に上げると、それは宙に舞い、どこかへ目がけて飛んでいく。獲物を捉えた鷹のように線を描いた先には、誰かが捨てた飲みかけのボトル。火の玉はそれを一瞬で真っ黒にしてしまった。埃のような臭いが寄ってくる。

「まだ小さい時、魔法はみんなを守る綺麗な必殺技なんだと思ってた」

 私は黒焦げになったボトルを見つめる彼の傍に近寄った。

「でも現実違うんだよアヴァ。自分自身に勝てる人にしかそれは無理なんだ。俺はまだこんなちっぽけなのじゃないと、抑えられないんだ。ほら、見てよこれ。震えてる。イライラするとさ、勝手になるだろ?こう、吸い取っちゃうっていうか、周りのさ、分かるだろ?はは、大丈夫、アヴァのせいじゃないから。勘違いしないでくれな。ただちょっと、知って欲しかっただけなんだ」

 彼は袖で今度は手を覆い隠し、口を閉じて微笑んだ。同じ。同じだよ。そのちっぽけなのさえ私には無理だ。自分の意思でそうやって、自在に操れもしない。誰かに預けたまま忘れてしまいたい。でも、これが私。なにかを言ってあげたかったけれど、彼の微笑みに答えるように笑うことしかできなかった。

「……だからさ、頑張ろうな。俺、アヴァの魔法、今まで見た事ないくらい綺麗だと思ったんだ。それに、意味わかんねえくらい、泣きそうになる。どんなのか想像はつくよ」
「えへへ……そうこなくちゃね」
「っと、てか暗くね?今何時だろ」
「いまさら……?」
「うわ、ヤバいヤバい九時半!不在着信8件!?ジェスターさんから……あーやっべ、めっちゃ無視してた」
「あちゃ……」

 ベルジは両手の指を器用に使って、虫の足みたいな速さでいじっている。私はジェスターが怒ってなきゃいいなと願うばかりだった。

「よし急ぐぞ、アヴァこっち近道!」
「う、うん……!」

 ジャケットが追い風でばっさりと開いた彼は、全速力で走りながらジッパーをしめた。じたばたとした靴の音がただ響いている。物音がすっかりしなくなっていた街中、窓から誰かに見られるんじゃないかとよぎりながらも、彼の足を追った。

✱ ✱ ✱

「つ、ついた!」

 窓からカーテン越しに漏れる夕陽色の光は、見るだけでも暖かく感じる。それでも息は戻ってこない。こんなに走ったのははじめてだ。よく休まずに何分も走れたものだ。首のまわりも足の裏も汗ばんでいる。妙に冷たくて気持ち悪い。

「あ、ありがとうベルジくん……」そう言うと、玄関から甲高い音が鳴った。顔を出したのは、マルを抱えて目を半開きにしたジェスターだ。私は無性に彼の元へ、手足の痛みも忘れて駆けて行った。ベルジは手を小さく振ってから、おかしな走り方ですっ飛んでいった。

「え、えっと……」

 どんなことを言えばいいのだろう。遅くなってごめんなさい?心配させてごめんなさい?

「家に帰ったら、なんて言うんだっけ?」

 玄関に敷かれたマットの模様を見ていると、ジェスターが想像の何倍も柔らかい声でそう言った。私はマルの顔を見てから、ジェスターと目を合わせた。

「ただいま、だろ?」
「た、ただいま……!」
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