神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第1章 霧の序章

第012話 第一境界

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渓流けいりゅう沿いを、歩いた。
 足を引きずりながら。転びそうになりながら。

 右手から、まだ血が滲んでいる。
 左腕と左膝の傷は乾いて、服にこびりついている。
 体中が痛い。でも、止まれない。

 空が、白み始めていた。
 夜明けだ。
 木々の間から、薄い光が差し込んでくる。

 「……もうすこし」



 巾着きんちゃくの中から、かすかな声。

 「……ちかい」



 神々の声が、励ますように言う。

 渓流けいりゅうの水音が、耳に心地いい。
 冷たい空気が、頬を撫でる。
 生きている。まだ、生きている。

 振り返った。
 観測者の光は、見えない。でも、どこかにいるかもしれない。
 また追ってくるかもしれない。

 足を速めようとした。でも、体が言うことを聞かない。
 一歩ずつ。一歩ずつ。それだけで精一杯だった。

 谷間たにまに入った。
 両側に岩壁がそびえている。高さは十五メートルくらいか。
 道は狭くなり、こけむした石が転がっている。

 足元に、石畳いしだたみがあった。
 古い。こけに覆われて、半分埋もれている。
 誰かが、ずっと昔、ここに道を作ったのだ。

 「……みち」



 巾着きんちゃくの声。

 「……さかい、への、みち」



 石畳いしだたみを辿って歩いた。
 時々、倒れた石碑せきひがある。文字が刻まれているが、風化して読めない。
 古い道標みちしるべだったのだろう。

 谷間たにまは、薄暗かった。
 朝日が差し込むには、まだ深すぎる。
 湿った空気が、肌にまとわりつく。

 どれくらい歩いたのか。
 時間の感覚がない。
 ただ、足を動かし続けた。

 前方に、何かが見えた。
 門だ。

 古い石の門が、谷間たにまの奥に立っていた。
 高さは三メートル半ほど。幅は二メートル半。
 灰色の石で出来ている。こけが生え、風化している。
 けれど、崩れてはいない。ずっとそこに立ち続けている。

 こよいは、足を止めた。
 門の上部に、紋様が刻まれている。
 鏡文字のような、読めない記号。
 柱には、擦り減った彫刻が残っている。何をかたどっているのか、もう分からない。

 「……ここ」



 巾着きんちゃくが、温かくなった。

 「……さかい」

 「……だいいち、きょうかい」



 神々の声が、静かに言う。

 第一境界だいいちきょうかい
 しおりが言っていた。

 「第一境界を越えれば、少しは安全」



 こよいは、門に近づいた。
 門の下に立つと、空気が少し違う気がした。
 重い。ここまでの空気は、重かった。
 背中に、ずっと何かがのしかかっていた。
 それが、少しだけ軽くなっている。

 振り返った。
 谷間たにまの向こう、来た道を見る。
 光は、見えない。
 観測者の気配は、感じない。でも、どこかにいるような気がする。

 「……いける」



 巾着きんちゃくの声。

 「……こえろ」



 こよいは、一歩を踏み出した。
 門をくぐった。

 カチン。

 小さな音が、どこかで響いた。
 金属的な音。
 霧原町きりはらちょうが沈んだ時に聞いた、あの「測定完了」の音に似ている。



 けれど、逆だ。
 何かが「終わった」音ではなく、何かが「閉じた」音。



 空気が、変わった。

 重さが、消えた。
 背中にのしかかっていたものが、するりと落ちた。
 呼吸が、楽になった。

 こよいは、立ち止まった。
 振り返った。

 門の向こう、来た道が見える。でも、何かが違う。
 灰色がかっていた世界が、向こう側だけそのままで、こちら側は色が鮮やかになっている。
 空気の色が違う。光の透明度が違う。

 そして、観測者の気配が、完全に消えていた。
 あの、背中を刺すような視線。測られている感覚。
 全部、消えた。

 「……こえた」



 巾着きんちゃくが、安堵するように言った。

 「……ここには、はかる、もの、こない」

 「……べつの、おきて」



 神々の声が続く。

 ここから先は、別のおきてだ。
 観測者の力が、及ばない場所。
 測定されない世界。

 こよいは、深く息を吸った。
 木と土の匂いがする。
 生きている匂いだ。

 足を進めた。
 門から離れ、道を歩く。
 体はまだ痛い。傷はまだ塞がっていない。でも、少しだけ、気持ちが軽くなった。

 道の先に、森が見えた。
 広葉樹の森。古木が多い。
 木々の間から、朝日が差し込んでいる。木漏れ日が、地面に模様を描いている。
 鳥の声が聞こえる。風の音が聞こえる。
 世界が、生きている。

 森の入口に近づいた時、こよいは足を止めた。

 何かがいる。

 見えない。姿は見えない。でも、いる。気配がある。
 観測者とは違う。測る感覚はない。
 けれど、確かに、何かがこよいを見ている。

 「……だれ」



 声を出した。かすれた声。
 返事はない。

 巾着きんちゃくを握った。
 神々が、警戒しているようには見えない。でも、静かだ。様子を見ている。

 「……ここには」



 ほこらの神の声。

 「……べつの、もの、いる」

 「……てき、か、みかた、か」



 空き地の神の声が続く。

 「……まだ、わからない」



 森の奥で、木々が揺れた。
 風ではない。何かが動いた。
 姿は見えない。けれど、確かにいる。

 こよいは、立ち尽くした。
 逃げるべきか。進むべきか。
 体は限界だ。もう走れない。
 ここで追われたら、逃げ切れない。

 けれど、敵意は感じない。
 測られている感覚もない。
 ただ、見られている。様子を窺われている。「……だれ」もう一度、声を出した。


 「……ぼくは、こよい」

 「……神を、運んでる」

 「……さかいを、目指してる」



 静寂が、返ってきた。
 森は、何も答えない。でも、何かが聞いている。確かに聞いている。

 足元に、影が動いた。
 こよいの影ではない。もっと大きな、もっと曖昧な影。
 森の奥から、こちらに近づいてくる。

 こよいは、動けなかった。
 動く気力も、動く体力も、残っていない。
 ただ、待った。
 何が来るのか。敵か、味方か。

 影が、木々の間で止まった。
 まだ姿は見えない。
 けれど、声が聞こえた。

 「……集め手か」



 低い声。老人の声ではない。もっと若い、けれど深い声。
 男の声か、女の声か、分からない。
 ただ、敵意はなかった。

 「……そう」



 こよいは、答えた。

 「……たぶん」



 影が、ゆっくりと動いた。
 近づいてくる。

 こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。
 何が起こっても、離さない。
 ここまで来たのだ。ここで終わらない。

 影が、木漏れ日の中に踏み出した。
 姿が、見え始めた。

 人だ。
 人の形をしている。
 けれど、まだ顔は見えない。

 「……怪我をしているな」



 声が、少し近くなった。

 「……追われてきたか」



 こよいは、頷いた。
 頷くのが精一杯だった。

 「……ここまで来れば、あいつらは追ってこない」

 「……さかいおきてが、違うからな」



 影が、完全に姿を現した。

 人だった。
 背の高い人。外套がいとうを着ている。顔は、まだよく見えない。
 けれど、観測者ではない。測る者ではない。

 こよいは、膝から崩れ落ちた。もう、立っていられなかった。

 「……大丈夫か」



 声が、近づいてくる。

 「……とりあえず、休め」

 「……話は、後だ」



 意識が、遠くなっていく。
 体が、限界を超えていた。

 最後に見えたのは、木漏れ日だった。
 明るい。温かい。
 境界の向こうの、光。

 「……ここ、から、さきは」



 巾着きんちゃくの中から、かすかな声が聞こえた。

 「……べつの、せかい」



 こよいは、意識を手放した。
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