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第七話 訪問者再び

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「ね、あのさ? ギンジローって、一体幾つなの?」
「ん? 俺か?」

 老いた自分のことに興味を持つ者がいるとは思ってもみなかったのだろう、
 銀次郎は少し驚いたように目を丸く見開いてから、

「今年で七〇だ。いやはや、随分とまぁ無駄に歳を喰っちまったモンだ」
「え――えええっ!」

 すっかりきょかれ、シーノはカップに口を付けたまま、ぶはっ、と喘いだ。
 それを見た銀次郎が顔をしかめる。

「おいおい、よせよせ。こぼれてるじゃねえか……」

 呆れたように目をぐるりと回し、手近にあった布巾ふきんを手に取って銀次郎はカウンターの上に零れてしまった珈琲を丁寧に拭く。その姿、立ち振る舞いを改めて上から下まで何度も眺めつつシーノは言った。

「う――嘘でしょ? 七〇……歳!?」
「ったく、そんなに驚くことでもねぇだろうに」

 あまりにシーノが驚いている様子なので、銀次郎はいつもより余計にむすりと厳めしい顔をする。

「本当だぞ? 嘘なモンかね。こんな歳にもなるとだな、幾つだ何だとつまらねえ嘘はつかなくなるモンだ」

 嘘をつくつかないと言うより、自分自身でも思い出せなくなってしまうことの方がむしろあり得るのがすなわち歳を取るということなのだが、それは言わずにおく。

「そう言うお前さんの方は幾つになるんだ?」
「あたしは一七になったよ」

 躊躇ためらいを感じさせない快活な答えが返ってきた。

「ほう――」

 おっと。予想していた歳より一〇は若かった。

 と言うことは、孫娘の香織子かおりこと同い年ということになるらしい。シーノの風貌、身体つきからは少し信じ難い気もしたが、この頃は年に数回の細々とした手紙のやりとりしかない孫娘と比べようにも、その成長したであろう姿がちっとも脳内に思い浮かばないのだから我ながら薄情な爺様だと呆れてしまう。

 そうこうするうちに、さーってと、と声に出してシーノが立ち上がった。

「すっかりお邪魔しちゃった。あたし、そろそろ仕事に出かけないと。昨日、《組合ギルド》にあたし向きの《任務クエスト》が張り出されてるのを見つけておいたんだ。行ってくるね!」

 端々の言葉の意味はまだよく分からなかったが、シーノの拙い説明を聞いた限りでは《組合》と言うのが公共職業安定所ハローワークで《任務》と言うのがそこで斡旋あっせんされる仕事のことらしい、とまでは理解していた。

「お、おい。そいつは危なくねえ奴か?」
「大丈夫。大丈夫だって」

 にかっ、と歯を見せてシーノは請け負った。

「ちゃっちゃと片づけて、またギンジローのこーひーを飲みに来るからさ。期待しててね」
「だったらいいんだが」

 銀次郎は軽く首を振りつつ、店の後にするシーノを見送りにカウンターを出た。



 からん。



「じゃあ、また後でね!」

 言うが早いか、シーノは駆け出したのだが――。

「え!? うわっとっと!!」
「ったく。言ってるそばからこれだ」

 勢いをつけすぎて危うく転びそうになったシーノの姿を見て、銀次郎は呆れたとばかりに目を回した。

「え? えっと――あれ?」

 しかし、それ以上に不思議そうな顔付きをしていたのはシーノだった。すんでのところで転倒はまぬがれたものの、慌てた素振りで身体のあちこちをさすっては、何度も首をひねっている。

「おい! どうした?」

 さすがに心配になった銀次郎だったが、

「ううん。何でもない何でもない」

 シーノは何かを悟ったように一つ頷くと、再び笑顔を取り戻した。

「じゃあ、今度こそ行ってくるね!」
「おう」

 さっきよりも力強い足取りで駆け出していくシーノの後姿が小さくなるまで、ガラス扉の隣に立ったままの銀次郎は心配そうな顔付きで見守っていた。





 やがて――。





「不思議なモンだ」

 そう呟く銀次郎の目に映る街並みは、かつて暮らしていた下町の見慣れた風景とは全く違っていた。だが、そこに行き交う人々の活気溢れる姿は、何処どこか懐かしくもあった。それは、かつてそうだった昔の下町を思い起こさせたからだ。


 例えば、あれだ。


「――おっ、今日はやけに早いじゃねえか。こんな時分から仕事かよ、スミル?」
「いやなに、隣町から役人が大勢来るんだってさ。門番連中は総動員って通達があったんだ。本当だったら、今日は丸々非番だったってのに……」
「かー、そりゃツイてねえな。同情するよ――」

 道の向こう側では、今まさにそんな会話が繰り広げられていた。銀次郎の喫茶店のある道のこちら側にも何かしらの店らしきものが建っているようだが、そのまだどれも開店時刻ではないらしい。静かなものである。

 そうこうするうちに、向こうにいる二人も銀次郎と銀次郎の店の存在に気付いたようだった。

「おう、おはようさん!」

 禿げ頭の恰幅かっぷくのいい店主は、愛想良く片手を挙げたところで、

「……って、あんなとこに店なんざあったっけか? ってか、誰だね、あの人は? お前知ってるか?」
「いいや。見たことないなあ」

 こちらをちらちらと気にしながら歳若い門番とひそひそと囁き合っている。じきに店主の方が口元に手を添えるようにして大声で再び銀次郎に向けて呼びかけてきた。

「あんた! 見ない顔だね? 名は何てぇんだ?」
「俺かね!?」

 銀次郎もまた、腹の底から声を吐き出すようにしてそれに応じてやった。

「俺の名は、銀次郎だ! 八十海銀次郎!」

 二人はしばし顔を見合わせる。

「……奇妙な名前だ。聞いたことがねえ」
「……だね」

 大の男二人はしばらくひそひそと囁き合っていたが、やがて歳若い方の門番の男がもう一方の店主に押し出されるようにして通りを渡って歩いてきた。

「ど、どうも。へへ……」
「おう、お早うさん」
「え、えっとですね……」

 何を言ったら……と決めかねている様子だったが、そのうちに門番の男の視線は店の入口の上に掲げられている看板を捉えた。

「あれ、何て書いてあるんです?」
「何だ、お前さん、あれが読めねえのか?」

 いぶかし気に片眉をぴくんと跳ね上げ、銀次郎はそこに書かれている文字を男の代わりに読み上げる。

「――喫茶『銀』と書いてある。ウチの店の名だ」
「へ、へえ。きっさぎん、か」
「喫茶、銀、だ」

 どうにも要領を得ない会話に痺れを切らし、銀次郎は店の扉を開け放つと顎で促した。

「いちいち口で説明するのも面倒だ。さあ、入ってくれ。一杯おごってやる。あんたたちは見知りのようだな? あっちの旦那も呼んでやるといい」

 う、と男が躊躇う素振りを見せたのは一瞬だった。

「お、おーい! 何だか分からないけど一杯奢ってくれるってさ! おやっさんもこっちに来いよ!」
「な、何? ――分かった。今、そっちに行く!」


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